太田述正コラム#11320(2020.5.30)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その36)>(2020.8.21公開)
「・・・北条泰時によって制定された『御成敗式目』<(注106)>(・・・1232)は、・・・御家人たちの争いを治め、幕府に逆心を起こさせないように統御する法規制である。
(注106)「1185年に鎌倉幕府が成立以降、東日本を勢力下におく鎌倉幕府と、西日本を勢力下におく朝廷による2頭政治が続いていたが、1221年(承久3年)の承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時が朝廷を武力で倒し、朝廷の権力は制限され、幕府の権力が全国に及んでいったが、日本を統治する上で指標となる道徳や倫理観そして慣習が各地で異なるため、武家社会、武家政権の裁判規範として制定された。
鎌倉幕府成立時には成文法が存在しておらず、律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」として道理・先例に基づく裁判をしてきたとされる。もっとも、鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であったために、鎌倉幕府が蓄積してきた法慣習が律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。
承久の乱以後、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉めごとが増加するようになった。また、幕府成立から半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化してきた点も挙げられる。・・・
一部の条文には明らかに律令法や公家法とは解釈が異なるあるいは相反する条文があり、それについては儒教倫理や右大将家(源頼朝)の先例、当時の社会で広く知られていた判例や慣習法などを根拠として掲げて、なるべく朝廷の反発や異論を収めることに努めている。・・・
鎌倉幕府制定の法と言っても、それが直ちに御家人に有利になるという訳ではなく、訴訟当事者が誰であっても公正に機能するものとした。それにより、非御家人である荘園領主側である公家や寺社にも御成敗式目による訴訟が受け入れられてその一部が公家法などにも取り入れられた。
鎌倉幕府滅亡後においても法令としては有効であった。足利尊氏も御成敗式目の規定遵守を命令しており、室町幕府において発布された法令、戦国時代に戦国大名が制定した 分国法も、御成敗式目を改廃するものではなく、追加法令という位置づけであった。
<なお、>御成敗式目は女性が御家人となることを認めており、この規定によって戦国時代には女性の城主が存在し、井伊谷城主の井伊直虎、岩村城主のおつやの方、立花城主の立花誾千代、淀城主の淀殿などが知られる。・・・
広く武家法の基本となっただけでなく、優れた法先例として公家・武家を問わずに有職故実の研究対象とされた(「式目注釈学」)。その後、江戸時代には庶民の習字手本として民間にも普及している。・・・
全51条である。この数は17の3倍であり、17は十七条憲法に由来する<(ここには直接の典拠は付されていない(太田))>。・・・
鎌倉時代後期以後に公家社会にも受容された背景には幕府・朝廷ともに徳政を通じた徳治主義の実現という共通した政治目標が存在したこと<がある。>・・・
<但し、>式目の適用は武家社会に限られ、朝廷の支配下では公家法、荘園領主の下では本所法が効力を持った。反対に幕府の支配下では公家法・本所法は適用されないものとして拒絶している。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%88%90%E6%95%97%E5%BC%8F%E7%9B%AE
御成敗式目の現代語訳。↓
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/index.html
⇒武家/武士そのものが聖徳太子コンセンサスの所産ですが、武家法の形式(十七条憲法の3倍の条文数)も中身(徳地主義≒人間主義)も同コンセンサスを体現している、というわけです。(太田)
式目の「起請」によれば、その基準となるものは「道理」<(注107)>言われている。
(注107)「中世では一種の法的,思想的な意味をもつ流行語としてさかんに用いられた。もっとも有名なのは北条泰時のいわゆる〈道理好み〉であって,《御成敗式目》立法の基本理念を〈たた道理のおすところ〉と表現し,また,みずから主宰する法廷での当事者の主張に〈あら道理や〉と感歎するなどの逸話が知られている。泰時にかぎらず,中世の裁判で自己の主張もしくは判決の正当性を理由づけるために用いられた道理は,法的なもの,慣習的なもの,道徳的なもの,さらにより高次な正義・衡平観念であって,場合によっては法規範や道徳規範と矛盾する道理もありえたし,その時点,その場面にしか通用しえない心理的・感性的な道理も存在した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E7%90%86-581622
その「道理」は、『愚管抄』のように不可知の神仏まで関わるようなものではなく、あくまでも世俗のレベルでのあるべき理法である。
そこでは、評定に際して、「理非においては親疎あるべからず、好悪あるべからず。ただ道理の推(お)すところ」に従うべきだとされていて、その公正さの根拠が「道理」に置かれている。
それは、法や倫理の根拠を神仏と異なる理法に求める点で、後世の儒教の需要などにつながるものと見ることができる。<(注108)>」(69~70)
(注108)「中世末期の《日葡辞書》には,すでに,〈良い道理〉とともに〈礼儀正しさ,律義さ〉という意味があげられているが,この言葉が,対人関係上,守り実践しなければならない道義をさすものとして特に重んじられるようになるのは,近世社会においてである。近世初めの儒者林羅山は,〈人ノ心ノ公平正大ニシテ,毛ノサキホドモ人欲ノ私ヲマジヘズシテ,義理ヲ義トスルハ,義ゾ〉(《春鑑抄》)といい,〈義理〉を儒教の〈義〉と結びつけ,世俗的な人間関係における絶対的な道義とした。」
https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E7%90%86-581622
⇒「注108」にもかかわらず、私は、「道理」は、既に泰時の当時から、「対人関係上,守り実践しなければならない道義をさすものとして」、すなわち、私の言葉に置き換えれば、「人間主義をさすものとして」用いられていた、と考えています。(注109)(太田)
(注109)泰時の人物:「寛喜の飢饉の際、被害の激しかった地域の百姓に関しては税を免除したり、米を支給して多くの民衆を救ったという逸話がある。この際には民衆を慮って質素を尊び、畳、衣装、烏帽子などの新調を避け、夜は燈火を用いず、酒宴や遊覧を取りやめるなど贅沢を禁止した。晩年に行った道路工事の際には自ら馬に乗って土石を運んだ事もある。」
泰時の裁判:「九州に忠勤の若い武士があった。彼の父は困窮のため所領を売り払う破目に陥った。彼は苦心してそれを買い戻し父に返してやった。しかし父は彼に所領を与えず、どういったわけか全て彼の弟に与えてしまったため、兄弟の間で争論があり、泰時の下で裁判となった。立ち会う泰時は、初め兄の方を勝たせたいと思った。しかし、弟は正式の手続きを経ており、御成敗式目に照らすと弟が明らかに有利である。泰時は兄に深い同情を寄せながらも弟に勝訴の判決を下さざるを得なかった。泰時は兄が不憫でならなかったので、目をかけて衣食の世話をしてやった。兄はある女性と結婚して、非常に貧しく暮らした。ある時、九州に領主の欠けた土地が見つかったので、泰時はこれを兄に与えた。兄は「この2、3年妻にわびしい思いばかりさせておりますので、拝領地で食事も十分に食べさせ、いたわってやりたいと思います」と感謝を述べた。泰時は「立身すると苦しい時の妻を忘れてしまう人が世の中には多い。あなたのお考えは実に立派だ」と言って旅用の馬や鞍の世話もしてやった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82
(続く)