太田述正コラム#11322(2020.5.31)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その37)>(2020.8.22公開)

 「・・・後醍醐天皇<(注110)>は、・・・結果的には混乱を招くだけであったが、従来の朝廷と幕府の二元構造を否定し、一元的な天皇専制的な政治の実現を目指し、一時的であれ、それを実現した・・。

 (注110)1288~1339年。天皇:1318~1339年。治天:1321~1339年。「主著に『建武年中行事』がある。宸翰様を代表する能書帝で、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』(文観房弘真との合作)等3点の書作品が国宝に指定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒いずれ、詳しく記す機会があると思いますが、私は、後醍醐天皇は、鎌倉時代に進み過ぎた時計の針を少し戻し、時代の進行を若干遅らせようとしただけだ、と考えています。(太田)

 後醍醐はそれだけでなく、王権と神仏の二元的な緊張関係にも踏み込み、神仏の権威をも統合して支配しようとした。
 天皇は在位中は出家できなかったが、後醍醐は在家のままで密教の奥義に達して灌頂を受けた。・・・

⇒やはり、詳しく記す機会に譲りますが、「<少なくとも>13世紀から江戸時代にかけて、天皇の即位式の中で・・・即位灌頂・・・が行われた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%81%8C%E9%A0%82
ことから、後醍醐天皇も即位灌頂を行ったと考えられること、かつ、「瑜祇灌頂というのは、「究極の灌頂」「密教の最高到達点」とも言われ、当時の真言宗にとって最も神聖な儀式だった。これより上は即身成仏しかない。在俗の天皇が瑜祇灌頂を受けるというのは例外的ではあるが、父帝の後宇多天皇も密教修行者として著名であり、それに倣ったものと考えられ、また瑜祇灌頂を受ける資格に足るだけの修行はこなしてきていたため、その点では取り立てて特異だった訳ではない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9%E6%9C%AC%E8%91%97%E8%89%B2%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%BE%A1%E5%83%8F
とされるに至っていること、とりわけ、最近の通説的指摘たる後者、に照らし、「神仏の権威をも統合して支配しようとした」は間違いに近い、と思われます。(太田)

 王権と神仏を統合するこのような後醍醐の天皇観は、改めて天皇とは何かという理論的解明を要することになる。
 それに対応したのが北畠親房<(注111)>や慈遍であった。・・・

 (注111)1293~1354年。「北畠家は、村上源氏の流れを汲む名門<で、彼は>・・・父祖を超えて源氏長者となった。・・・
 <その後、>出家し、いったん政界を引退し<たが、>・・・正中の変にはじまる後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画には加担してはいなかったようである。
 鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による建武の新政が始まると、親房は政界に復帰したが、後醍醐天皇の専制政治には批判的で、必ずしも表舞台に立ったとは言えない。奥州駐屯を命じられた長男の顕家に随行し、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴く。・・・足利尊氏が・・・建武政権から離反、こののち西上して京都を占領すると、1336年・・・1月親房は尊氏を討伐するために京へ戻り、新田義貞・楠木正成とともにいったんは尊氏を駆逐する。しかし・・・湊川の戦いで<敗れ、>・・・後醍醐天皇が京都を脱出し、吉野に行宮を開くとそのまま南朝方に合流、尊氏によって擁立された光明天皇の北朝方に対抗する。
 ・・・1338年・・・5月に顕家が堺浦で戦死し、同年閏7月には義貞が越前国灯明寺畷で討ち取られると、南朝方の総司令官となった親房は伊勢国で度会家行の協力を得て南朝方の勢力拡大を図る。ここで親房は家行の神国思想に深く影響を受けることになるが、家行の唱えた伊勢神道自体に対しては批判的だったといわれている。
 こののち関東地方に南朝勢力を拡大するために・・・海路・・・常陸国へ上陸。・・・この時期に『神皇正統記』と『職原鈔』を執筆したといわれている。
 ・・・親房の常陸での活動は5年に渡った。しかし、南朝方に従った近衛経忠(南朝の関白左大臣)が藤氏長者の立場で独自に東国の藤原氏系武士団の統率体制を組もうとしたこともあって、親房の構想は敵と身内の両方から突き崩される結果となり、・・・吉野へ帰還している。これ以降、すでに死去していた後醍醐天皇に代わり、まだ若い後村上天皇を擁して南朝の中心人物となる。・・・
 ・・・1348年・・・に四條畷の戦いで楠木正行ら南朝方が高師直に敗れると、南朝は吉野からさらに山奥深い賀名生行宮<(あのうあんぐう)>に落ち延びる。その後観応の擾乱で足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて親房は一時的に京都と鎌倉の奪回にも成功した。・・・親房の死後は南朝には指導的人物がいなくなり、南朝は衰退への道をたどっていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E8%A6%AA%E6%88%BF

 親房は出家して密教に通じ、また伊勢神道の流れを受けて神道理論書『元元集(げんげんしゅう)』を著している。
 有名な『神皇正統記』<(注112)>はそれを歴史に適用して、「大日本は神国なり」で始まり、皇統の一貫性に日本の優越性を見る議論を展開した。

 (注112)「歴史書。神代から・・・1339年9月・・・の後村上天皇践祚までを書く。奥書によれば、「或童蒙」という人物のために、老筆を馳せて・・・1339年・・・秋に初稿が執筆され、・・・1343年・・・7月に修訂が終わったという。慈円の『愚管抄』と双璧を為す、中世日本で最も重要な歴史書、または文明史・史論書・神道書・政治実践書・政治哲学書と評される。『大日本史』を編纂した徳川光圀を筆頭に、山鹿素行・新井白石・頼山陽ら後世の代表的な歴史家・思想家に、きわめて大きな影響を与えた。
 歴史書という体裁を取ってはいるものの、きわめて不可思議な書である。どこが不可思議かといえば、著者の親房が、ただ歴史を客観的に叙述するのではなく、自身の何らかの主観的な思想を、非常に強い確信をもって、明快に述べているように「見える」ことである。したがって、本書を読んだそれぞれの論者は、親房はこれこれの思想を明快に述べている、と断定的に主張する。そして、その「明快な思想」に、熱意をもって賛同するか、あるいは強烈な嫌悪感で拒絶する。ところが、実際には、21世紀初頭時点で、親房が本当は何を言いたかったのか、いまだに一致した見解が得られていない。そもそも、誰に向けて、何のために書かれたのかすらも確定していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98

 皇統の一貫性はすでに慈円に見られたが、それを正面に据えた親房の議論は、近世以降の尊王論の出発点をなすものであった。」(72~73)

(続く)