太田述正コラム#11328(2020.6.3)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その40)>(2020.8.25公開)

 「・・・能<の>・・・修羅物<(注119)>は、『平家物語』などに取材しながら、死者の霊の救済が語られる。・・・

 (注119)「能の曲趣分類の一つ。・・・戦死した・・・武将の霊を主人公(シテ)とし、激しい戦乱を素材とする。多くは修羅道におちた主人公が、その苦しみを語り、まねてみせ、脇僧に回向をたのむ形をとる。すべて源平の武将(「田村」だけ例外)<。>・・・《田村》《八島》《箙(えびら)》の勝(かち)修羅3番以外はすべて敗戦を扱う。《忠度》《経政》《敦盛》《通盛》《清経》など浪漫的色彩が濃い。《頼政》《実盛》《朝長》を三修羅といって重く扱う。女修羅に《巴》がある。・・・五番立の能では,神,男,女,狂,鬼の男にあたり,2番目に演じられるところから,二番目物という。・・・
 修羅は阿修羅の略。世阿弥の伝書に〈修羅・闘諍(とうじよう)〉と熟して用いられているように,もと仏法守護の内道(たとえば凡天,帝釈天等)と仏法障礙(しようげ)の外道(げどう)との争いを描くに発する。鎌倉時代の代表的寺社芸能〈延年〉に原型とみられるものがあり,現行能の《舎利》《第六天》《大会(だいえ)》などは,それに比較的忠実な末流ということができる。世阿弥の執心物,ことに,鬼畜物ではあるが《鵺(ぬえ)》あたりに人間修羅の出現する兆しがあり,直接には,井阿弥(いあみ)の原作を世阿弥が改作した《通盛(みちもり)》に,武者がその執心ゆえに修羅道に落ちて苦しむというパターンが始まる。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%AE%E7%BE%85%E7%89%A9-78333
 「悟りを開かない限り、天・人間・修羅・地獄・餓鬼・畜生の六道を輪廻し続けなければならないという六道輪廻の思想が色濃かった時代、戦に明け暮れた武将の魂は死の後に修羅道に堕ちて苦しみ続けていると考えられていたのでしょう。・・・
 箙・田村・屋島の三曲はそれぞれ梶原源太景季、坂上田村麻呂、源義経を主人公とし、いずれも戦には勝っていますから勝修羅三番と呼ばれて、武士に人気のあった曲といわれています。」
http://zagzag.blog72.fc2.com/blog-entry-38.html

⇒私見では、修羅物は、聖徳太子コンセンサスに基づく、武家/武士の創出と弥生性の発揮、によって毀損された武士の縄文性をいかに回復するか、をテーマにした能(歌唱付き舞踏劇)であり、恐らく、かかる演劇ないし文学・・少なくとも戦勝者をも対象にしたもの・・は、世界に他に例を見ないのではないでしょうか。(太田)

 そこでは、・・・生前の悪業で・・・修羅道・・・に堕ちた死者の霊がいかにして救済されるかという問題が扱われている。
 鎌倉幕府打倒や南北朝の戦乱の記憶が生々しい観衆にとって、それは他人事ではない切実なテーマあっただろう。
 そこには、単なる娯楽を超えた魂のドラマが展開されている。
 それはまた、中世の宗教と文学・芸能が一体化していく究極的な姿であったとも言えるであろう。
 川端康成がノーベル賞を受賞した時の講演に、一休<(注121)>の「仏界入りやすく、魔界<(注121)>入りがたし」という言葉を引いたことはよく知られている。

 (注120)一休宗純(1394~1481)。「後小松天皇の落胤とする説が有力視されている。母親の出自は不明だが、皇胤説に沿えば後小松天皇の官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられ<る。>・・・1474年・・・後土御門天皇の勅命により<臨済宗の>大徳寺の住持に任ぜられた。・・・
 男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。・・・
 遺した言葉<に以下のようなものがある。>
 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし・・・
 花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94
 (注121)「魔界(まかい、まがい)とは、悪魔の世界のこと。仏教においては「仏界の反対概念」であり、「欲界の上四天」のことを指す場合もある。同義語の魔境(まきょう)は、「神秘的で恐しい場所」、あるいは遊里などの「人を誘惑する所」といった意味で使用されることもある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E7%95%8C
 「<禅では、>魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A2%83

 実際にはこの言葉は一休にはなく、後の一休噺に出るものである。
 しかし、室町後期の禅僧雪江宗深<(注122)>(せっこうそうしん)の語録には出ており、この頃の禅僧の語録には、仏界・魔界の対がしばしば用いられている。

 (注122)1408~1486年。「臨済宗の僧。・・・1462年・・・京都大徳寺の住持となった。応仁の乱(1467年-1477年)の間は丹波国龍興寺に難を逃れたが、乱後は後土御門天皇の勅命を受け、細川勝元・政元の援助を受けて大徳寺・妙心寺・龍安寺を再興した。また、土岐成頼の開基により、正法寺の開山となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E6%B1%9F%E5%AE%97%E6%B7%B1
 「勝元<が亡くなった時、彼>は龍安寺を建てましたから、龍安寺殿という戒名が付いておりますが、・・・雪江禅師がこの細川勝元を「仏界を出て魔界に入る」とたたえています。・・・一軍の将たる者が部下を放って自分だけ頭を丸めて出家するということは、いくらしたくても許されないことです。だから細川勝元はそういう時代にあって、さとりを求めることも、これまた煩悩の一つだという人生観を持つのです。」(松原泰道『日のくれぬうち』より)
https://books.google.co.jp/books?id=Z5nNj5EhXi8C&pg=PA85&lpg=PA85&dq=%E4%BB%8F%E7%95%8C%E5%85%A5%E3%82%8A%E6%98%93%E3%81%8F%E3%80%81%E9%AD%94%E7%95%8C%E5%85%A5%E3%82%8A%E9%9B%A3%E3%81%97&source=bl&ots=VcQFJEcys1&sig=ACfU3U084b9TuPzsjoRS4E4lr1rJnfwrHA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjlyIP94eLpAhWxHqYKHceLDJ0Q6AEwCHoECAoQAQ#v=onepage&q=%E4%BB%8F%E7%95%8C%E5%85%A5%E3%82%8A%E6%98%93%E3%81%8F%E3%80%81%E9%AD%94%E7%95%8C%E5%85%A5%E3%82%8A%E9%9B%A3%E3%81%97&f=false
 松原泰道(たいどう。1907~2009年。早大文卒。「東京都港区の龍源寺住職。・・・臨済宗妙心寺派教学部長を務める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E9%81%93

 応仁の乱前後の混乱した状況には、魔界は決して抽象的ではなく、きわめてリアルな現実の問題だったのであろう。」(86~87)

⇒気付いたばかりなのですが、川端康成の「誰もの望まない、誰も真似られない・・・反逆的生き方」をする人・・川端の場合は、美、就中女性美の追求・・の世界、的な魔界観↓
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/5365/1/nihonbungaku_9_29.pdf
は間違っており、その間違った、しかも、間違っているかもしれないとの疑念から揺れ動いていた魔界観、の下にいくつかの「秀作」と「失敗作」を書き、更に、この魔界観の一端・・と言っていいでしょう・・をノーベル賞受賞講演で披露までしてしまった川端(上掲)は、(単なる老人性鬱によるものではないとすればですが、)やはり間違いだったと結論を出し、自らの不明を恥じて自裁したのではないでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90 ←事実関係
 というのも、私は、「仏界入りやすく、魔界入りがたし」を、私の言葉で言うところの、「縄文人のままでいることはたやすく、縄文的弥生人になることはかたし」、の意味だと解しているからです。
 (言うまでもなく、縄文的弥生人とは、縄文的世界、すなわち、人間主義的世界、を守るために殺生等を必要悪として行う人です。)
 一休も雪江も臨済宗の僧侶であり、その臨済宗が武士の縄文性回復・維持に傾注し・・「注120」で紹介した一休の言葉の中の武士讃嘆に注目してください・・、だからこそ、鎌倉~室町時代において、武家によって臨済宗が盛り立てられた、という史実に照らせば、それ以外の解釈など成り立ちえない、とまで、私自身は思うに至っています。
 この私の解釈に最も近いのが、「注122」の中で紹介した、松原泰道による解釈です。
 但し、松原が、日本人の大部分は基本的に既に悟っている(人間主義者である)と思ってはいなかったのだとすれば、彼と私の考えは、本質的に異なることになりますが・・。
 とまれ、この、正解ないしは正解に接近したところの、松原が、臨済宗の僧侶であったことは、決して偶然ではありますまい。
 で、肝心のことですが、末木が、こういったことを熟考した上で、「魔界」という言葉に言及した、とは、私には思えませんでしたね。(太田)

(続く)