太田述正コラム#11332(2020.6.5)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その42)>(2020.8.27公開)
「・・・<戦国>大名<の>・・・支配領域はの字通り一つの「国」であり、「国家」という言葉も用いられた。
大名はその国家の王権であり、それを維持し、発展させるには並々でない能力を要した。
神仏との関係もまた重要な問題であり、それは単に実利的なものではなかった。
殺し殺されるのが日常となる中で、神仏に頼るようになるのは当然であり、北条早雲<(注129)・武田信玄<(注130)>のように、出家した上で実権を振るう大名もいた。
(注129)1456~1519年。「1491年<と>・・・1495年・・・の間に出家したようだ<。>・・・後嗣の氏綱は2年後に菩提寺として[臨済宗大徳寺派の]早雲寺(神奈川県箱根町)を創建させている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%97%A9%E9%9B%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E9%9B%B2%E5%AF%BA ([]内)
(注130)1521~1573年。「1559年・・・2月に晴信は[臨済宗系の]長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%A6%85%E5%AF%BA_(%E7%94%B2%E5%BA%9C%E5%B8%82) ([]内)
毘沙門の「毘」を旗印にした上杉謙信<(注131)>、浄土宗の信仰篤い三河武士団を率いた徳川家康<(注132)>なども知られる。」(93)
(注131)1530~1578年。「謙信は武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使った。青年期までは曹洞宗の古刹、林泉寺で師の天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の宗九のもとに参禅し「宗心」という法名を受け、晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峯寺法印で無量光院住職であった清胤から伝法灌頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
「相次ぐ家臣同士の領土争い紛争で心身が疲れ果て、1556年3月、27歳のとき出家」
https://senjp.com/kenshin/
「毘沙門天<は、>・・・武神であり・・・日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒天にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E6%B2%99%E9%96%80%E5%A4%A9
(注132)1543~1616年。「竹千代時代・・・臨済寺 (静岡市)・・・<で>過ごした・・・
家康は遺言として「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
「臨済寺は、静岡市葵区大岩町にある、臨済宗妙心寺派の禅寺<で、>・・・駿河の戦国大名・今川家の菩提寺<。>・・・今川氏人質時代の家康(松平竹千代)が<そこで>教育を受け・・・駿府が徳川幕府直轄地となった江戸期を通じて徳川氏の手厚い庇護を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AF%BA_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E5%B8%82)
「浄土宗の・・・<江戸の>増上寺<は、>・・・中世から松平氏や徳川氏とのつながりが深かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E4%B8%8A%E5%AF%BA
「大樹寺は、愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗の寺院。・・・徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A8%B9%E5%AF%BA
「松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ隠れた。前途を悲観した元康は松平家の墓前で自害を試みるが、その時・・・住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」・・源信の『往生要集』冒頭の章名に由来する・・と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%AD%E9%9B%A2%E7%A9%A2%E5%9C%9F
⇒末木が、たまたま(?)選んだ、早雲、信玄、謙信、家康、の仏教「信仰」の最大公約数は臨済宗であり、それは、決して偶然ではなく、臨済宗が、「弥生性の発揮、によって毀損された武士の縄文性<の>・・・回復」ニーズに最もよく応えている、と、当時の武士の大宗が見ていたからだろう、と、私は思っているのです。
(蛇足ながら、「注126」、「注130」を見る限り、早雲と信玄の出家理由について、定説はありません。)(太田)
(続く)