太田述正コラム#11334(2020.6.6)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その43)>(2020.8.28公開)

 「大名支配の思想を知る手掛かりとしては、分国法と言われる各国の法規定や、弟子や子孫に与えた家訓・遺訓などが知られる。
 分国法はすべての大名が有していたわけではなく、むしろ有していた方が少ない。・・・
 家訓<(注133)>や遺訓<についてだが>、・・・北条早雲のものとされる『早雲寺殿廿一箇条』<(注134)>では、・・・率直な倫理観が表明されている。」(93~94)

 (注133)「中世前期には有名な《北条重時家訓》《北条実時家訓》などがあり,後期には戦国期の《朝倉孝景条々》と伊勢長氏の《早雲寺殿廿一箇条》,それに子息3人に3本の矢でさとした逸話で有名な《毛利元就書状》が知られている。北条重時,実時,毛利元就のものは,父が子に与えた訓戒として,狭義の家訓にもっとも適合的な内容のものであり,他方,《早雲寺殿廿一箇条》は家・一族共同体の支配に擬制された大名領国下の家臣団を対象とした広義の家訓の一例といえよう。」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A9%E9%9B%B2%E5%AF%BA%E6%AE%BF%E5%BB%BF%E4%B8%80%E7%AE%87%E6%9D%A1-847771
 北条重時(1198~1261年)は、「鎌倉時代前期の武士。北条氏の一門。鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘・姫の前。・・・1203年)、6歳の時に比企能員の変が起こり、母の実家比企一族が義時ら北条氏によって滅ぼされた。姫の前は義時と離婚して上洛し、源具親と再婚した3年後、重時が10歳の時に京都で死去している。・・・極楽寺流の祖。六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。・・・1256年・・・に出家し、引退後は極楽寺に隠居した。・・・
 重時の長女葛西殿は時頼の正室となり、後の8代執権北条時宗を生んだ。・・・<また、>6代執権には<息子の>長時が就任している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82
 「北条重時家訓<は、>・・・13世紀中ごろ・・・書<かれ>た家訓<で、>武家の家訓として最古のもの。重時の家訓として伝えられるものに2種ある。《六波羅殿御家訓》と《極楽寺殿御消息》<だ>。《御家訓》は1247年・・・に近いころ,子息長時が妻帯して六波羅探題の地位に就任するに際して教訓として作られたとする説と,長時元服の際に書かれたとする両説がある。《御消息》は重時出家後,極楽寺谷の山荘に隠棲していた没年(1261)に近いころの作で,長時以下の子息や孫たちに贈った訓戒の一つとされている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82%E5%AE%B6%E8%A8%93-1205350#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 「極楽寺殿御消息<の>・・・概要<:>・・・20代までは、人並みに芸能を嗜み技術を身につけよ、30代から50代までは、「君を守り」「民を育み」「身を納め」「内に五戒を保って政道を旨とすべし」と言い、そして、60代になったら、後世一大事を願い、ひたすら念仏に没頭せよ・・・世の為人の為行動せよ・・・女性を尊重<せよ>・・・女性でも男性と変わらず成仏できる・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E5%AF%BA%E6%AE%BF%E5%BE%A1%E6%B6%88%E6%81%AF
 「極楽寺 (鎌倉市)<は、>・・・真言律宗の寺院であ<り、>・・・開基(創立者)は北条重時、開山は忍性である。・・・極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82) 
 (注134)「内容は分国法としての面もあり、神仏への崇拝、主君への奉公の仕方、文武の鍛錬法、礼儀作法、友人の選び方、大工修繕の方法、清貧など日常的な生活上の心得などを簡潔明瞭に示している。江戸時代初期までには成立しているが、早雲が定めたかどうか疑わしいという見方もある。
箇条
一、可信佛神事(神仏を信ずること)
二、朝早可起事(朝は早く起きること)
三、夕早可寝事(夜は早く寝ること)
四、手水事(万事慎み深くすること)
五、拝事(礼拝を欠かさぬこと)
六、刀衣裳事(質素倹約を旨とすること)
七、結髪事(常に身だしなみを整えること)
八、出仕事(場の状況を見極めてから進み出ること)
九、受上意時事(上意は謹んで受け、私見を差し挟まぬこと)
十、不可爲雑談虚笑事(主の前で談笑するなど、思慮分別のない行動を慎むこと)
十一、諸事可任人事(何事も適切な者に任せること)
十二、讀書事(書を読むこと)
十三、宿老祗候時禮義事(常に礼儀を弁えること)
十四、不可申虚言事(嘘をつかぬこと)
十五、可学歌道事(歌道を学び品性を養うこと)
十六、乗馬事(乗馬の稽古を怠らぬこと)
十七、可撰朋友事(友とする者はよく選ぶこと)
十八、可修理四壁垣牆事(外壁や垣根は自ら点検し、修繕を怠らぬこと)
十九、門事(門の管理を徹底すること)
二十、火事用事(火元は自ら確認し、常に用心すること)
二十一、文武弓馬道事(文武両道を旨とすること)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E9%9B%B2%E5%AF%BA%E6%AE%BF%E5%BB%BF%E4%B8%80%E7%AE%87%E6%9D%A1

⇒北条重時と北条早雲の家訓に共通しているのは、人間主義ですが、前者にあって後者にないのは、「ひたすら念仏に没頭せよ・・・世の為人の為行動せよ・・・女性を尊重<せよ>」の三点です。
 これは、北条重時のマザコンが原因である、というのが私の見立てです。
 つまり、彼の父親の義時は、その父親、すなわち、重時の祖父の時政の陰謀に協力し、正室でかつ重時の実母の父親である比企能員とその一族を滅ぼし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E8%83%BD%E5%93%A1%E3%81%AE%E5%A4%89
この実母を離婚へと追い込み、同じくこの実母の子であった、次兄の朝時(1193~1245年)と共に、実母と引き離され、しかも、本来、正室の長子なので北条宗家の家督を継ぐはずだったこの朝時の冷遇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E6%99%82
(泰時は長兄だがその母親は出自不明の(義時の)側室だった)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82
を目撃させられた結果、一、自分の信奉する仏教宗派として、宗家の臨済宗とは違う、真言律宗、をあえて選び、二、施薬院、療病院、薬湯寮などの設置を含む撫民に心掛けることで、宗家よりも一層、徹底した聖徳太子コンセンサスの推進に努め、三、実母にひどい仕打ちをした父義時に対する当てつけとして実母への供養を行う趣旨で女性の尊重を訴えた、と、私は考えています。(太田)

(続く)