太田述正コラム#11338(2020.6.8)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その45)>(2020.8.30公開)

 「・・・法華宗は、日像<(注137)>(にちぞう)の布教以来、京都の町衆の間に広まった。

 (注137)1269~1342年。「1307年・・・延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を<後宇多上皇から>受けた。・・・1309年・・・<その後宇多上皇によって>赦免され、京都へ戻る。
 1310年・・・諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を<伏見上皇から>受けた。1311年・・・<その伏見上皇によって>赦免され、京都へ戻る。1321年・・・諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を<後宇多上皇から>受けたが、直ぐに許された。その後、後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。1334年(建武元年)後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。
 妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜しく四海泰平の精祈を凝すべし
 以後、南朝・後醍醐天皇の京都還幸の祈願する一方、北朝・光厳上皇の祈祷も行い、公武の信仰を集めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%83%8F

⇒日蓮宗は、後醍醐天皇に大いに好意を抱かれ(「注137」)、島津斉彬や宮沢賢治が信者になったのですから、創価学会のイメージに捕らわれて、日蓮や日蓮宗をキワモノ視することだけは禁物でしょうね。(太田)

 新興の商工業者である町衆にとって現世を重視し、既存の体制を厳しく批判する法華宗が魅力的に映ったものと思われる。
 京都二十一箇寺と言われる大寺院が連なり、信者の町衆は自治体制を整え、法華一揆<(注138)>と言われるような一大勢力となった。

 (注138)「1532年・・・、浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで本願寺教団の寺院を焼き討ちした。当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた山科本願寺はこの焼き討ちで全焼した(山科本願寺の戦い)。この後、法華衆は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。こうした法華衆の勢力拡大を、ほかの宗派の立場からは「法華一揆」と呼ぶ。
 ・・・1536年・・・2月(旧暦)、法華衆は比叡山延暦寺に対して宗教問答をすることを呼びかけた。延暦寺もこれに応じ、3月3日(旧暦)に延暦寺西塔の僧侶・華王房と上総茂原妙光寺の信徒・松本久吉(松本新左衛門久吉)とが問答したところ、松本久吉が華王房を論破した(松本問答)。
 延暦寺の僧侶が日蓮宗の一般宗徒に論破されたことが噂で広まると、面目を潰されたと感じた延暦寺は日蓮宗が「法華宗」を名乗るのを止めるよう、室町幕府に裁定を求めた。だが、幕府は建武元年(1334年)に下された後醍醐天皇の勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とし、延暦寺はこの裁判でも敗れた。・・・
 これにより、延暦寺は京都法華衆の撃滅を決議した。
 同年7月(旧暦)、延暦寺の僧兵集団が法華衆の撃滅へと乗り出した。延暦寺全山の大衆が集合し、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して、延暦寺の末寺になり上納金を払うように迫った[注 1]。日蓮宗側は延暦寺のこうした要求を拒否。要求を拒否された延暦寺は朝廷や幕府に法華衆討伐の許可を求め、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対関係にあった他宗派の本願寺・興福寺・園城寺・東寺などにまで協力を求めた。いずれも延暦寺への援軍は断ったが、中立を約束した。
 延暦寺は近江の大名・六角定頼の援軍を得ると、7月23日に延暦寺・六角勢が総勢6万人を動員して京都市中に押し寄せ、法華衆2万と交戦した。他方、法華衆は5月下旬から京都市中に要害の溝を掘って延暦寺の攻撃に備えていため、戦闘は一時法華宗が有利であったが、次第に劣勢になっていった。そして、27日までに延暦寺・六角勢は法華衆に勝利し、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる[要出典]人々を殺害した(天文法難)。・・・
 兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。
 こうして、隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。・・・1542年・・・に六角定頼の斡旋で朝廷から京都帰還を許す勅許が再び下り、天文16年(1547年)には定頼の仲介で延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立した。その後、日蓮宗二十一本山のうちの15か寺が再建された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%80%E6%8F%86

 本願寺勢力と対立して、山科本願寺を焼討するなど(1532)<(注139)>、気勢を上げたが、比叡山と大名たちの連合軍に敗退した(天文法華の乱、1536)。

 (注139)「飯盛城の戦いで勝利した一向一揆は余勢を駆って大和に侵入、興福寺、春日神社を襲撃した。この動きには、飯盛城の戦いで一向一揆衆に援軍を要請した管領細川晴元も脅威を覚えた。
 晴元だけではなく京都の民も脅威を抱きはじめたころ、「一向宗が京に乱入して法華宗を攻撃する」という風説が流れた。晴元方の摂津国人茨木長隆による檄文もあり、直ちに武装した法華門徒は、・・・1532年・・・7月28日には法華一揆として蜂起した。これには飯盛城の戦いで自害し、熱心な法華信者であった三好元長の仇打ちという側面もあったと考えられる。蜂起した法華一揆と晴元は直ちに手を結んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%A7%91%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 その後再び復活したが、信長は安土宗論<(注140)>(1579)によって浄土宗と対論させ、意図的に法華宗を敗者としてその勢力を削ごうとした。」(98~99)

 (注140)安土宗論のウィキペディアは、宗論に否定的であった信長は、法華宗の側に、以後他宗との法論を行わないことを誓わせた上で、今次宗論が行われるように図ったところの、法華宗の側の「プロモーター」達を斬首刑に処したが、「宗論に参加した三人の僧侶が処罰された形跡はなく、京都の日蓮宗寺院もその寺地すら移動させられることはなかった」としたうえで、浄土宗の僧侶の林彦明の、法華宗側が事実宗論で敗れているとの指摘を結論的に紹介している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%AB%96
 林彦明(はやしげんみょう。1868~1945年)。「知恩院山内西部大学林に学び、翌年上京して、同二六年浄土宗学本校専門科唯識部を卒業。・・・宗学部長に就任、・・・沼津の乗運寺に入山して自坊とする。昭和五年(一九三〇)百万遍知恩寺法主に晋董、同九年法主を引退して、翌年日華仏教研究会を発足させ幹事長となり、日中仏教徒提携に尽力した。・・・著述に『転識論の研究』(一九三四)、『大乗起信論の新研究』(一九四五)・・・など」
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9E%97%E5%BD%A6%E6%98%8E

⇒安土宗論について、末木は、通説を無批判的に祖述しており、不親切だと思います。(太田)

(続く)