太田述正コラム#11346(2020.6.12)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その49)>(2020.9.3公開)
「このような特性をもっともよく表わす文化が茶の湯(後世の茶道)である。
もともと金ぴかの衣装で、高価な唐物の道具を使って豪勢に行われた闘茶<(注149)>は、村田珠光<(注150)>、武野紹鴎<(注151)>、千利休<(注152)>と継承される中で、次第に茶の湯として精神化されてゆく。
(注149)「茶の産地別による色や味を飲み分けて勝負を競う茶会の一種。鎌倉時代の末から室町時代中期の足利義教(あしかがよしのり)のころにかけて爆発的な流行をみせた。闘茶の起源は・・・宋<にあり、>・・・わが国では、『建武式目』(1336)によって群飲佚遊(いつゆう)が禁じられたものの、婆娑羅の風流は盛んになり、「二条河原(がわら)落書」によって茶香十(じっしゅ)の盛行が口ずさまれるようになった。当初は・・・賭け物を出し合って本非茶勝負が行われていた。これは、本茶である栂尾茶(とがのおちゃ)と、非茶であるそれ以外の産地の茶を飲み分けて勝負を競う遊びである。のちには本非にかかわりなく・・・十種茶(有試茶と無試茶)が中心になる。・・・しかし、書院茶や草庵茶の草創とともにしだいに衰退し、千利休時代にはかぶき茶といわれて残滓だけになっていたが、江戸時代中期に千家七事式の一つに「茶歌舞伎」として取り上げられ現在に至っている。」
https://kotobank.jp/word/%E9%97%98%E8%8C%B6-103895
(注150)むらたじゅこう(1422/23~1502年)。「「わび茶」の創始者とされる人物。なお僧侶であり本来ならば苗字は持たないが、慣習的に「村田珠光」という呼び方が広まっている。・・・奈良の浄土宗寺院称名寺に入り出家。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E7%8F%A0%E5%85%89
「高価な唐物を尊ぶ風潮に対し、村田珠光は、粗製の、つまり「侘びた」<支那>陶磁器(「珠光青磁」と呼ぶ、くすんだ色の青磁が代表的)などの道具を使用し<た。>・・・また珠光は<臨済>禅僧・一休宗純のもとに参禅した禅僧であったともいい、わび茶の成立には当時隆盛を極めた禅宗の影響も無視できない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%B3%E8%8C%B6
(注151)武野紹鷗(たけのじょうおう。1502~1555年)。「若狭武田氏の出身・・・<の>堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人。・・・三条西実隆<に>・・・古典や和歌についての教えを受け<た。>・・・父が一向宗徒だったらし<いが、>・・・臨済宗大徳寺・・・で出家し、紹鷗の法名を受ける。・・・朝廷に献金を行ったこともあ<り、>・・・晩年は、従五位下因幡守に叙された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%87%8E%E7%B4%B9%E9%B4%8E
(注152)1522~1591年。「堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の<臨済宗>大徳寺とも親しく交わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
⇒日本の茶道もまた、臨済宗が生み出した、と言えそうですね。(太田)
しかし、その愛好者は数寄者と呼ばれ、バサラからカブキ者へと受け継がれていく派手で奇抜な異形性と無関係ではない。
その精神は、秀吉が黄金の茶室を愛したところにも引き継がれている。
北野大茶湯(1587)は一日だけで終わったが、貴賤を問わず、形式を問わない祝祭性が、『洛中洛外図屏風』の世界と共通する。
珠光–紹鷗–離宮の系譜は、このような動向を受け入れながらも、狭い草庵の茶室へと簡素化して、後代にわび茶と呼ばれるような形式を完成する。・・・
その実態と精神は・・・世俗の身分を離れて亭主と客人が直接に向かい合うあり方に理想を見出そうとした。
それは連歌と同じ「座」<(注153)>の文化の流れを引きながら、局限的には、二畳の狭い小間に、両者が一期一会の出会いをする凝縮された場を作りだすことを目指した。
(注153)「平安末~鎌倉・室町期に商工業者,芸能者,農漁民,遊女にいたるまで,あらゆる職業,階層にわたって編成された共同組織。地主神・産土(うぶすな)神など集落の神仏に対する祭祀のための座(宮座)から,朝廷,寺社,権門貴族を本所とし,その奉仕のための座や,同一職業のものがその営業特権のために組織した座など,多種にわたっている。
座は地主神などの祭祀の宮座から始まるといってよかろう。・・・一定の家格を有する村の人々が,平等構成をもって共同の神仏をまつる座を結成した。
連歌,俳諧用語<としては、>連句制作のための集会または会席をいう。その構成要員は,一座をさばく師範格の宗匠と,宗匠を補佐しつつ句を懐紙に記録する書記役の執筆(しゆひつ)と,一般の作者である複数の連衆(れんじゆ)から成る。彼らが参集して連句一巻を共同制作することを,一座を張行する,または興行するという。一巻は〈百韻〉が定式である・・・。一座を興行するには,主人役か当番の世話役があらかじめ日時,場所,連衆の人数を選定するが,百韻なら4~5人から7~8人で10時間前後をかけるのが理想とされた。」
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それは、秀吉の成り上がり的な豪勢さに対して、正反対の方向に最高の贅沢を見出そうとするものであった。」(104~105)
⇒最も有名な連歌師である宗祇(1421~1502年)も、「若年より京都相国寺に入り,・・・中年以後は臨済宗に属したと思われる」
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人物です。(太田)
(続く)