太田述正コラム#11348(2020.6.13)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その50)>(2020.9.4公開)

 「・・・従来、江戸期は世俗化の時代と見られ、神仏の超越的な力が弱まると考えられてきたが、実際には初期の天海から始まり、幕末には復古神道が維新の原動力になるなど、神仏の力は世俗倫理と密接に絡んで展開する。
 また、朝廷の力が弱められてもその機能がなくなるわけではない。
 神仏と王権の緊張、及び王権の中の重層という大伝統の原則は生き続けている。・・・

⇒国の最上層における権威と権力の分離、権威と権力を分有したエージェンシー関係の重層構造からなる社会、という私の言葉に置き換えることができます。(太田)

 <この時代については、>儒教が重視されることなど、東アジアの共通点はあるが、日本では儒教が正統視されるのは江戸後期であるし、最後まで葬儀などの儀礼は儒教ではなく、仏教が担当した。
 また、科挙によって採用された官僚が政治の実務を担うという能力本位の体制はついに確立せず、武人の階級としての武士がそのまま支配者集団となった。
 その点では、<当時の日本は、>東アジアの中でも特異である。・・・
 なお、「鎖国」とい<っても、>・・・実際には清なども貿易統制を行っており、日本だけの突出した問題ではない。
 また、国を完全に閉鎖したわけではなく、海外交流を長崎に集約し一元化して幕府が統制したと見るのが適切とされる。
 その際、オランダ貿易のみが注目されるが、実際には清との関係がより密接であり、文化的にも影響が大きい。
 明末の中国からは高僧隠元隆琦<(注154)>が来日し、将軍家綱にも謁見し、宇治に万福寺を創建して黄檗宗を開いた(1661)。

 (注154)いんげんりゅうき(1592~1673年)。「江戸時代初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した。
 当初、隠元は弟子・・・を派遣したが、途中船が座礁して客死したため、やむなく自ら・・・二十人ほどの弟子を率いて、鄭成功が仕立てた船に乗り、・・・1654年・・・7月5日夜に長崎へ来港した。・・・
 隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。
 ・・・1655年・・・、崇福寺に移る。同年、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。
 隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し、・・・1658年・・・には、江戸幕府4代将軍・徳川家綱と会見した。その結果、・・・1660年・・・、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、・・・黄檗山萬福寺と名付けた。・・・
 隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。・・・
 1673年・・・に後水尾法皇から「大光普照国師」号の特諡を賜った後、50年ごとの遠忌に皇室より諡号を賜わることが慣例となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E5%85%83%E9%9A%86%E3%81%8D

⇒脱線気味の感想ですが、一つは、明末・江戸期初の頃までは、まだ、日本が支那からほぼ一方的に諸文化の継受をしていたというわけであり、それ以降の支那の凋落は改めて甚だしかったことよ、と痛感しますが、これは、太田流に言えば、満州人による支那「植民地」統治によって漢人が委縮するとともに脳のシワも伸びてしまった、ということなのでしょう。
 元の時の蒙古人による支那「植民地」統治は短くて済んだけれど、清は長く続きましたからね。
 もう一つですが、どちらも家光の子である、家綱も、その次の5代将軍綱吉も、それぞれの母親が、武士の家出身でないどころか、極めて「下賤」の出であった・・秀吉は自身がそうだったではないか、という合いの手が聞こえますが、それはともかく、・・だけでなく、家綱も綱吉も男子の子供を残せないままそれぞれ比較的若くして亡くなったわけであり、体の頑健さの遺伝子すら持ち合わせていなかった、ということが大変気になります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%A8%B9%E9%99%A2_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89%E5%81%B4%E5%AE%A4) ←家綱の母・宝樹院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1 ←家綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%98%8C%E9%99%A2 ←綱吉の母・桂昌院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89 ←綱吉
 家光がそんな女性達を側室にしたというのは、教育を家光の両親である秀忠とお江が誤った、ということになりそうですが、あの築山殿(典拠省略)は別格として、秀忠の母親は違うけれど
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%B1%80
、この秀忠の父親、すなわち家光にとっては祖父、の家康の女性の好み(典拠省略)の隔世遺伝かもしれませんね。
 とまれ、よくもまあ、急速にこんなに軟弱で虚弱になってしまった徳川家が幕末までもったな、という思いがします。(太田)

 隠元は単に仏教と言うだけではなく、新しい中国文化の伝来者として美術・喫茶などの文化の諸分野にまで絶大な影響を与えた。・・・
 また、通信使による朝鮮との交流も、対馬の宗氏を媒介に江戸期を通して行われた。」(109~110、113)

(続く)