太田述正コラム#11358(2020.6.18)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その55)>(2020.9.9公開)

 「・・・羅山はその伝統を歴史として解明するために、幕府公認の歴史書の編纂を目指し、それは子の鵞峰<(注170)>(がほう)によって『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』<(注171)>全310巻として完成する(1670)。

 (注170)林鵞峰(1618~1680年)。「長兄・次兄は夭逝し、三男春勝が鵞峰として羅山の後を継いだ。・・・弟守勝は読耕斎(とくこうさい)と号し、やはり幕府に召し抱えられた。・・・
 日本史に通じ、父羅山とともに『日本王代一覧』、『本朝通鑑』(『本朝編年録』)、『寛永諸家系図伝』など、幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた。鵞峰が整えた林家学塾の組織は、その後の昌平坂学問所の基礎となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B5%9E%E5%B3%B0
 (注171)「3代将軍徳川家光時代の修史事業で、林羅山が編纂した『本朝編年録』は・・・1644年・・・に上梓されるが、・・・1657年・・・の明暦の大火で焼失。・・・1663年・・・10月、将軍徳川家綱の上意として林鵞峯に編年録の完成を命じられ、翌<年>に幕府老中の連署奉書で幕府の許可がおり、忍岡の林邸での編纂が開始される。日本には延喜年間以降の正史が無く史料収集など事業は難渋し、翌・・・年、鵞峯は老中酒井忠清に古記録の収集など必要な援助を要請。7月には永井尚庸が奉行役に任じられ、諸大名や朝廷、寺社などに所蔵する諸記録の提出が命じられる。8月には林邸に幕費で編纂所としての国史館(弘文院)が建てられ、本格的な編纂事業として進められた。・・・書名は当初『本朝編年録』であったが、<支那>宋代の史書『資治通鑑』に倣い、『本朝通鑑』に変更されたという。・・・
 神代から後陽成天皇(1586-1611在位)の代までを記している。倫理的な判断を避け、史実を書くことが方針とされている・・・
 羅山・鵞峯父子が呉太伯説に肯定的だったのは事実だが、それはあくまで個人的見解にとどまり、幕府の公的な修史事業である『本朝通鑑』において、あえてこの説を採用することはしなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E9%80%9A%E9%91%91 
 「本朝通鑑<は、>・・・記事の出典を記さない点で『大日本史』に劣るが、今日失われている多数の文書記録を含んでいる貴重な史書。・・・儒学の実証的合理主義による歴史書の先駆をなす。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E9%80%9A%E9%91%91-135162
 『日本王代一覧』は、「若狭国小浜藩主酒井忠勝の求めにより編纂が行われ、林羅山の息子である林鵞峯(春斉)により編纂された。神武天皇から正親町天皇(1557-1586在位)の代までを記している。・・・1652年・・・成立。全7巻。・・・長崎出島のオランダ商館長イサーク・ティチングによってフランス語に翻訳され、この種の日本の書籍が西洋に紹介される初めての例となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%8E%8B%E4%BB%A3%E4%B8%80%E8%A6%A7
 『寛永諸家系図伝』は、「第三代将軍家光の命により、幕府は・・・1641年・・・から、若年寄・太田資宗(総裁)、儒者・林羅山(編纂主任)に諸大名・旗本以上の幕臣の諸系譜の編纂事業を行わせた。まず諸家に対して、素材資料となる各家の系図や家譜および証拠資料(古文書)等を提出させた(呈譜)。そして、・・・1642年・・・から林羅山の指導の下に儒者や五山の僧侶等の編集委員によって、編纂事業が急ピッチで進められて・・・1643年・・・9月に完成、献上された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E4%BC%9D

 徳川光圀が始めた『大日本史』<(注172)>全397巻(1906完成)は、それよりさらに儒教的な名分論の立場をはっきり打ち出したもので、後の尊王論に大きな影響を与えた。

 (注172)「神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年・・・までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)170巻、志・表154巻、全397巻226冊(目録5巻)。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた。・・・
 日本では『日本書紀』以下六国史など史書は編年体で編纂されるのが常で、『史記』のような紀伝体の史書が編纂された先例はな<い。>・・・
 次の点が三大特色とされる。神功皇后を皇后伝に列した。大友皇子を帝紀に列した。南朝正統論を唱えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2

 ちなみに、こうして書かれた歴史書では皇統の連続性が根本に置かれることになる。
 そうなると、幕府は朝廷を補佐し、朝廷から政権を任されたと解されなければならない。
 それならば、結局幕府は朝廷より下に位置することになってしまうのか。
 江戸初期にはまだこの問題は大きくは浮上しない。
 それが正面から議論されるようになるのは江戸中期になってからである。」(119~120)

⇒やっと末木もこの点に触れましたね。
 ところで、事業の規模が違うとはいえ、ほぼ同じ時期に着手された、『本朝通鑑』と『大日本史』に関し、後者は発案者がはっきりしているのに、前者は定かではなく、そもそも、事業に着手した時期も、秀忠の大御所時代(1623~1632年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0
なのか家光の時代(1632年~)なのかすら定かではない、というのは不思議なことです。
 秀忠は、神輿に乗っていただけの将軍ではなかったようではあるけれど、儒学を学び、能の鑑賞が好きだった、ということくらいしか、文化方面の事績がなく(上掲)、また、家光に至っては、神輿に乗っていただけの将軍であったらしい上に、父同様、能の鑑賞が好きだったという事績のみしかありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
 ですから、幕閣の誰かの発案だと思われるのですが・・。(太田)

(続く)