太田述正コラム#11364(2020.6.21)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その58)>(2020.9.12公開)

 しかし、仁斎が学問や教育の重要性を訴え、学問における実証主義を唱え、唯一神などを措定せず、かつまた、私の言う人間主義を心などという抽象的なものではなく4つの具体的なものでもって定義しようとした、点では、中江藤樹よりは評価されるべきでしょうが、既にその大部分が人間主義者であるところの、日本人達に対して、人間主義者たれ、と説いた点は、いかんせん、やはり無意味な主張でした。
 江戸時代より前の日本における、人間主義に係る最大の問題は、縄文的弥生人たるべき武士達の縄文性、すなわち、人間主義性、をいかに回復・維持するかであったところ、江戸時代における最大の問題は、最初期は別として天下が泰平になったという背景の下、事実上、単なる文官官僚と化してしまった武士達の弥生性をいかに維持するか、に変わってしまっていたというのに、藤樹にせよ仁斎にせよ、この問題をスルーしてしまっているのですから、何をかいわんやです。
 ちなみに、儒学者のみならず兵学者でもあった「山鹿素行<は、・・・兵法書の『孫子』には、武将に必要な徳として、「智・信・仁・勇・厳」(五常と違い、義・礼の代わりに勇・厳がある)と記し、仁を含めているが、・・・「仁なれば厳ならず、厳なれば仁ならず・・・」、「4つの徳備わりても、信また備わり難し」(『孫子国字解』)と解釈を述べ、仁と厳(また信)の両立が難しいことを記述している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81
というのですから、彼は、縄文性(人間主義性)と弥生性(武士性)の相互緊張関係を、少なくとも見据えていたわけであり、こういったことからも、私は、素行を、江戸時代の日本の儒者達の中では高く評価したいですね。
 なお、このほか、藤樹や仁斎が、儒教の仁と私のいう人間主義との違いに無頓着そうなことも気になります。
 藤樹の方は朱子学者を経て陽明学者になったくらいですから、万物一体の仁(コラム#10233)を当然視するに至っていたのかもしれませんが、ならばそのことをはっきり表明すべきでしたし、仁斎の方は商家に生まれた町人だったのですから、「「孟子<が、>・・・「財産を作れば、仁の徳から背いてしまう。仁の徳を行えば、財産はできない」<としたいう>考え方から、日本でも統治者である武士は積極的に経済活動に参加せず、人を治める者は人々から養われる存在として、養ってくれる民を守る義務があると考えた」素行(上掲)に対する見解表明を行うべきでした。(太田)

 「仏教側にも新しい動きが見られた。
 鈴木正三<(前出)>は曹洞宗に属しながら、宗派に捉われない独自の「二王禅」<(注180)>を唱えた。

 (注180)「念仏,戒律をも重修し,勇猛心をもって自(じ)心中の仏を念ずるというもの」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81%E7%8E%8B%E7%A6%85-1384318 

 また、明から渡来した道者超元<(注181)>(どうしゃちょうげん)に師事した盤珪永琢<(注182)>(ばんけいようたく)は、もって生まれた不生(ふしょう)の心のままでよいという「不生禅」<(注183)>を唱え、俗人にも多くの信奉者を得た。

 (注181)1602~1662年。「福建省興化府莆田県の生まれ。・・・1650年・・・に来日し、長崎の崇福寺の住持となった。1651年・・・には、盤珪永琢が参禅し、付法を受けた。
 1655年・・・5月、隠元が来日し、崇福寺に入ると、住持の座を譲り、監寺と就った。同年9月、隠元が摂津国の普門寺に移ると、再度、崇福寺の住持と就った。
 1657年・・・2月、即非如一が来日し、やはり崇福寺に入寺すると、翌年には、道者は隠退した。
 1658年・・・に<支那>に戻り、1662年(康煕元年)に福建の興化府にある国観寺で没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E8%80%85%E8%B6%85%E5%85%83
 (注182)1622~1693年。「儒医・・・の三男として生まれる。・・・17歳のとき、臨済宗妙心寺派随鴎寺(赤穂市加里屋寺町)の雲甫和尚に参禅。ここで出家・・・「不生の仏心」に目覚め<た後、>・・・備前国三友寺に住して岡山藩士を教化、肥前国平戸の松浦鎮信[のほか、京極高豊,加藤泰興]など諸大名の帰依を受けた。播磨国姫路の龍門寺・江戸光林寺などの開山となり、1672年・・・勅命にて京都妙心寺の住持に就任している。龍門寺を中心として各地を巡歴し、方言交じりの親しみやすい日常語で幅広く[女性を含む]一般庶民に法を説いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A4%E7%8F%AA%E6%B0%B8%E7%90%A2
 「公案禅の形骸化を厳しく批判し・・・人はだれでも不生不滅の仏心をも<ち、>・・・行住坐臥そのままが坐禅であることを教えた。・・・弟子は僧俗あわせて5万余人に及んだ」
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%A4%E7%8F%AA%E6%B0%B8%E7%90%A2-117972
 (注183)「人は生まれながらにして不生不滅の仏心をもつと説き,形式的な座禅修行を否定し,日常生活そのものが座禅に通じると,通俗平易な言葉で人々にさとした。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8D%E7%94%9F%E7%A6%85-1405379

⇒当時の日本の儒者達や僧達は、支那の史書を読み、或いは、直接、支那からの渡来僧や、長崎で支那庶民、と接することで、仏教や儒教の経典類に描かれている理想的人間像を体現した人が、支那では希少財なのに日本ではあり触れている、という事実に直面して、これをどう説明するか苦慮し、既に見て来たような、人それぞれの説をひねり出した、というのが私の見方です。
 盤珪永琢の場合で言えば、何もしなくても人は悟った存在・・人間主義者・・であり続けることができる、と言っているに等しいわけであり、これは、浄土宗や浄土真宗の、南無阿弥陀仏の念仏さえ唱えておれば、悟った存在・・人間主義者・・であり続けることができる、という主張を、更に徹底したものである、というべきでしょうね。
 しかし、しつこいようですが、こういった営み、ないし主張、は、日本においては、殆ど何の意味もないのであって、非人間主義的言動を生業として行わなければならない武士達等の人間主義性の完全毀損をいかに回避させるか、或いは、非人間主義的言動を生業としつつもその実践の機会を奪われた武士達の非人間主義性(弥生性)の完全毀損をいかに回避させるか、こそが懸案であったわけです。
 更に付け加えれば、(江戸時代ではなく鎌倉時代の人間ですが、)日蓮の凄いところは、これ以外の懸案を見出したところにあるのですが、その話は、次回東京オフ会の「講演」原稿に譲ります。(太田)

(続く)