太田述正コラム#11386(2020.7.2)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その67)>(2020.9.23公開)

 「・・・明治憲法の核心は冒頭の天皇条項に示される。
 第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と天皇の根本性格が表明される。
 ここで注目されるのは、天皇の性格を「万世一系」と特徴づけていることである。
 当然のことだが、「万世一系」は憲法自体の中では根拠づけられない。
 伊藤博文の名で出された公式の解釈書『憲法義解(ぎげ)』が説くように、その根拠は、『日本書紀』一書に出る天壌無窮の神勅(皇孫降臨の際に、アマテラスがこの国を「我が子孫王たるべきの土地」と述べた詔)であり、神話が根拠となっている。
 それが西洋の王権神授説と相違する日本の王権の特徴とされるが、憲法外部の神話に最大の根拠を持つことになり、憲法の及ぶ範囲が限定されることになった。
 第二条は「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依り皇男子孫之を継承ス」とあって、ここでも「皇室典範」という憲法の力の及ばない外部の規定が根拠とされた。

⇒果たしてそうでしょうか。
 例えば、明治憲法制定当時に有効であったところの、プロイセン憲法は、フリードリヒ・ヴィルヘルム(4世)(注213)国王によって制定され(前文)、国王は父系長男子相続法(law of primogeniture and agnatic succession)(注214)に基づき男系子孫が承継する(同53条)、と書かれているけれど、この「父系長男子相続法」は「プロイセン」の「法」ではありませんし、かつまた、この憲法は神の恩寵(注215)によってこの国王が制定したと書かれており(同前文)、結局のところ「憲法の力の及ばない外部の」存在(神)が天皇権ならぬ王権規定を含むこの憲法の「根拠とされ」ている
https://en.wikisource.org/wiki/Constitution_of_the_Kingdom_of_Prussia
からです。(太田)

 (注213)1795~1861年。「1847年に開かれた議会は、父王が約束していた憲法の制定を要求したがフリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこれを拒絶した。しかしこれを機に翌1848年、3月革命(1848年革命)が勃発し、ベルリンでは市民と軍隊が市街戦を展開することになる。事態を憂慮したフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、軍隊に市外への退去を命じて憲法の制定を約束し、国民議会が解散した後の1848年12月8日にプロイセン欽定憲法を制定した。この憲法は国民ではなく王によって制定されたものであったが、臣民としての言論・集会の自由、司法の独立、三級選挙などが保障されており、1918年のドイツ革命によるヴィルヘルム2世退位まで効力を保った。(ヴァイマル憲法は1919年8月11日に公布された)
 <なお、>1849年3月28日、フランクフルト国民議会はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世に「ドイツ皇帝」の称号を贈ろうとしたが、王は帝位を民衆ではなく諸侯の協議によって決められるものと考えて戴冠を拒否した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A04%E4%B8%96_(%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E7%8E%8B)
 (注214)「サリカ法典(・・・羅:Lex Salica) は、フランク人サリー支族が建てたフランク王国の法典。ラテン語で記述されており、編纂にあたってはローマ人の法律家の援助を得たと言われているが、ローマ法とは異なり、金額が固定された金銭賠償(贖罪金)に関する規定が主であり、自力救済を原則としていたことにも特色があ<り、>原型が成立したのはフランク王国メロヴィング朝の初代の王クローヴィスの晩年に当たる6世紀の初頭と考えられ<る。>・・・
 <その>第59章で女性の土地相続を否定している。この条項がしばしば<欧州>の王位継承に関して持ち出され、女性王位継承に対して否定的な陣営にとって根拠にされた。この条項は中世のサリー系フランク人と呼ばれる集団が、4世紀以降トクサンドリア地方においてサリー系フランク人とシカンブリ人を核にして、ローマ系住民を含めた様々な人々がローマ帝国の同盟軍として共同の兵役を務めた中から形成されたことに起源を持っている。この兵役勤務者に与えられた入植地をテラ・サリカと呼び、兵役を務める男子のみに継承を許したと想定されている。このテラ・サリカをめぐる事情から後世、フランク人の元では男子のみ土地相続とそれに伴う王位・爵位を得られると解釈された。女系の相続権はあり、男子がいない場合、女子の配偶者や息子が土地相続者となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%B3%95%E5%85%B8
 (注215)「旧約時代の全体が〈律法〉という言葉に集約されるのに対して,新約時代の全体を要約する言葉は〈恩寵〉である。創造にはじまり,終末におけるキリストの再臨をもって成就される救いの歴史は,神の恩寵の受肉的展開にほかならない。キリスト教は,罪人であり,生命の源である神から断ち切られて死の状態にある人間がその罪をゆるされ,義とされて再び神との交わりに入ることができるのは,人間の側のどのような善行によるのでもなく,絶対に無償で無条件的な神の恩寵による,と教える。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%81%A9%E5%AF%B5-1292639
 現在でも、「神の恩寵による」という言葉が、デンマーク、リヒテンシュタイン、オランダ、英国、カナダ、豪州、ニュージーランド、等、の国王の称号の中に含まれている。
https://en.wikipedia.org/wiki/By_the_Grace_of_God

 第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」は、モデルとしたドイツ憲法<(注216)>に見られる皇帝の政治的不答責を採用したものである。

 (注216)ドイツ国憲法(Verfassung des Deutschen Reiches)・・いわゆるビスマルク憲法ないしドイツ帝国憲法・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E6%86%B2%E6%B3%95
のこと。
 上出のプロイセン憲法は、このドイツ国の領邦の一つの憲法として、並行して有効だった。

 しかし、『義解』によると、ここでもまた『日本書紀』が根拠となり、天皇は「臣民群類の表(おもて)に在り。欽仰(きんぎょう)すべくして干犯すべからず」とされている。
 天皇は政治的不答責を超えて、一切の「指斥言議(しせきげんぎ)」を許さない神聖性を持つものとなる。」(170~171)

⇒憲法に限らず、法律は、その解釈にあたって制定者意思(立法者意思)は、斟酌はされるものの、それに拘束されるわけではない(注217)ので、このくだりについても首肯いたしかねます。(太田)

 (注217)「法典の理由書,草案,議事録,起草委員の説明書などの資料によって,「立法者の意思」を推測するが,こうした資料から制定者の意思を明確にすることが困難な場合もある。今日では成立した法は客観的なものとなり,法解釈者は立法者の意思に拘束されないと解するのが妥当とされているので,参考資料としての役割を果しているにすぎない。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AB%8B%E6%B3%95%E8%80%85%E6%84%8F%E6%80%9D%E8%AA%AC-149065

(続く)