太田述正コラム#11390(2020.7.4)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その69)>(2020.9.25公開)

 「神仏分離をきっかけとする民間の廃仏毀釈<(注219)>の運動や、その後の上地(あげち)令<(注220)>(1871)による寺社領の没収、及び僧侶の肉食妻帯許可(1872)などは、仏教界を大きく揺るがすことになった。

 (注219)「1666年・・・に水戸藩と岡山藩で寺院破却が行われた。また長州藩と水戸藩の天保改革にさいして寺院整理や淫祠破却がなされたが,これは明治初年の宗教政策の源流と考えることができる。・・・
 明治政府が1868年に出した、いわゆる一連の「神仏分離(判然)令」<は、>・・・別当(神宮寺の責任者)・社僧(神社で仏事を担った僧侶)を還俗させて神職にさせたり、神社から仏像・仏具類を取り除かせたり、祭神の名前を神道系に改めさせたりした<が、それが>・・・きっかけとな<り、>・・・平田派国学者の神官らが中心となって,各地で神社と習合していた寺院の仏堂,仏像,仏具などの破壊・撤去運動を起こし,隠岐のごときは全島の仏寺を破毀して1寺も残さなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88-113085
 (注220)「江戸時代に認められていた寺院と神社の領地(寺社領)が1871年(明治4年)と1875年(明治8年)の2回の上知令により没収された。この背景には廃藩置県に伴い、寺社領を与える主体であった領主権力が消滅したために寺社領の法的根拠も失われたこと、また、旧大名の所領(藩有地)を国有地としたこととの均衡上、寺社領も国有地化してしかるべき状態になったこと。さらに地租改正によって全ての土地に地租を賦課する原則を打ち立てるために寺社領を含めた全ての土地に対する免税特権を破棄することを目的としていた。なお、同様の趣旨をもってえた・非人とされた人々の所有地である「穢地」の免税特権破棄も解放令と同時に行われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%9F%A5%E4%BB%A4

 これらは特に真言・天台などの顕密系の仏教に大きな打撃を与えたが、真宗系は一部の影響に留まった。
 真宗はもともと神仏習合的な要素が少なかったし、土地収入よりも門徒との寺檀関係に依存していたので、上地令の影響が少なかった。
 また、肉食妻帯は真宗では当然のことであった。<(注221)>

 (注221)「律令制下の「僧尼令」以来、僧侶の女犯は国家によっても禁止事項と規定され、違反した者には厳しい処罰が既定されていた。
 しかし、・・・9世紀末までは僧侶の処罰の事例が確認できるがそれ以降、16世紀の豊臣秀吉の時代まで、・・・妻帯は野放しであ<ったところ、>・・・1594・・・年には、各寺に対して女犯肉食を禁止し、破戒僧を放逐させるとともに濫行の僧がいれば寺院の共同責任とする法令が出されている。・・・
 江戸幕府は、女犯と妻帯とを厳密には区別せず妻帯は類似する行為と同様に禁止<し、>・・・獄門や配流・斬首・死罰といった厳しい罰に処<し>た。・・・
 <ところが、>1665・・・年の「諸宗寺院法度」と同時に発布された「諸宗寺院下知状」で<もって、>・・・江戸幕府は・・・すでに妻帯している場合は<妻帯禁止の>対象外と<したが、>・・・<これは、それまで>山伏のみに・・・認められていた<妻帯を>真宗僧侶<についても認めたものである、>・・・と現在は考えられている。・・・」(大澤絢子「浄土真宗の「妻帯の宗風」はいかに確立したか : 江戸期における僧侶の妻帯に対する厳罰化と親鸞伝の言説をめぐって」より)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwi2uNvrgLPqAhUEVpQKHbzUAqIQFjAFegQIBxAB&url=https%3A%2F%2Fnichibun.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D433%26item_no%3D1%26attribute_id%3D18%26file_no%3D2&usg=AOvVaw00zHzLEtofrVcSpXYZfpfI
 大澤絢子(1986年~)は、お茶代卒、東工大博士。「親鸞仏教センター嘱託研究員、龍谷大学世界仏教文化研究センター博士研究員を経て、大谷大学真宗総合研究所東京分室PD研究員および龍谷大学、同志社大学非常勤(嘱託)講師」
https://www.amazon.co.jp/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%80%8C%E5%85%AD%E3%81%A4%E3%81%AE%E9%A1%94%E3%80%8D%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E7%AD%91%E6%91%A9%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%A4%A7%E6%BE%A4-%E7%B5%A2%E5%AD%90/dp/4480016856

 長州の真宗は尊攘運動と密接に関わり、新政府とも親密な関係にあり、島地黙雷の主張は容易に政策に反映された。
 親鸞が明治の早い時期に見真大師という大師号を得た(1876)<(注222)>のも、その為である。

 (注222)江戸時代、朝廷は(本家筋である)西本願寺贔屓、幕府は(自らが作ったとも言える)東本願寺贔屓だったが、幕末、西は石山合戦時の毛利水軍の支援の恩を忘れずに長州/勤王派を匿ったり支援したりしたのに対し、東は親幕府の態度を取り続けた結果、東は、明治新政府から、カネや米の供出を求められたり北海道開拓を命じられたりした。
 廃仏毀釈が一段落すると、東は西に対する後れを取り戻す一助とすべく、親鸞への大師号申請運動を開始したところ、さほど乗り気ではなかった西、や、他の各派、も賛同はした結果、見真大師号が真宗各派に宣下された。
 戦後になって、西は、「2007年・・・、宗門成立の歴史とは直接関係ないなどの理由により親鸞聖人の前に冠されていた「見真大師」の大師号を削除<し、また、>大師号が削除され<た>新「浄土真宗の教章」<を>制定<したが、一方、東は、>・・・1981年に「宗憲」<から>「見真大師」の語を削除し<、>また御影堂に対して用いられていた「大師堂」の別称<も>本来の「御影堂」に復した。」(札幌の西野神社の神官と思しき田頭氏によるブログより)
http://ryokeiji.net/jap/01sc/01sc%20kenshindaishigou.htm 

 島地の信教の自由の主張が、国家神道の考え方を先取していることも、指摘されている。
 すなわち、宗教は内心に関わるものだから、国家や政治が立ち入ることができないとして、信教の自由を確立するとともに、神道は皇室の祖先に対する崇敬だから、宗教ではないとして、神道非宗教論を唱えた。
 これはまさしく後に国家神道で用いられた論法であった。」(176~177)

⇒西の方が東よりちょっぴりマシなようではあるけれど大同小異であり、浄土真宗の生臭さには辟易させられます。
 いずれにせよ、廃仏毀釈の何たるかを解明しなければいけないという思いが強まりましたね。(太田)
 
(続く)