太田述正コラム#11402(2020.7.10)
<末木文美士『日本思想史』を読む(その75)>(2020.10.1公開)

⇒末木は、超国家主義の定義を行っていませんが、それが仮に’Ultranationalism’の訳語としての超国家主義であるとすると、日本の戦後の自由民主党も超国家主義政党、日本会議や在特会も超国家主義団体、ということになってしまいますし、
https://en.wikipedia.org/wiki/Ultranationalism
他方で、丸山眞男による造語であるとされる日本語の超国家主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E4%B8%BB%E7%BE%A9
のことであるとすると、この超国家主義について、例えば、田中浩(注236)は、「近代国民国家において、自国の発展を志向するナショナリズム(国家意識・民族意識・国民意識)が極端な形にまで推し進められ、国家至上主義・軍国主義・侵略主義が結合した反動的国家・政治思想。自由主義・民主主義・社会主義・平和主義・国際主義を否定する。歴史的には、ナチ政権下のドイツ、十五年戦争下の日本にみられる国家思想がその典型例である。」とし、精選版日本国語大辞典は、「大川周明直系・・・<が、>超国家主義者のグループである」、としています
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%85%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E4%B8%BB%E7%BE%A9-568396
が、末木のいう「十五年戦争下の日本」は、(普通選挙で選ばれた衆議院が予算と大部分の法律の事実上の決定権を保持し続けた(コラム#省略)ゆえに)民主主義も、また、(共栄圏構想を推進した(コラム#省略)がゆえに)国際主義も、最後まで否定しなかったことから、この田中定義とは合致しないのであって、末木は舌を噛んでしまっている格好です。

 (注236)1926年~。東京文理大(哲学)卒、東京教育大助手、助教授、教授、静岡大教授、一橋大教授、大東文化大教授、聖学院大教授等を歴任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%B5%A9_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6%E8%80%85)

 もとより、末木が、超国家主義政府(国)と超国家主義者とを区別していて、当時の日本は超国家主義政府ではなかったけれど、当時の日本に超国家主義者達はいた、という考えであれば話は別ですが、時間と労力に見合わない、こんな事柄について詳細な検証はしないけれど、末木が挙げた人物達全員が、田中浩の定義に合致する人物であったとは私には到底思えません。
 例えば、菱田胸喜(むねき)ですが、彼が批判したのは、マルクス主義者達、法学者の美濃部達吉や瀧川幸辰、哲学者の西田幾多郎とそれに連なる田邊元や三木清や天野貞祐(注237)(コラム#1437)、倫理学者の和辻哲郎、歴史学者の津田宗吉、昭和研究会や近衛文麿、のほか、「超国家主義者」のナチスや大川周明、権藤成卿(注238)(コラム#5372、5378)、北一輝にまで及んでおり、
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwi64LeU_MHqAhVqxosBHTmuBcIQFjAEegQIARAB&url=https%3A%2F%2Fksu.repo.nii.ac.jp%2Findex.php%3Faction%3Dpages_view_main%26active_action%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D1803%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1%26page_id%3D13%26block_id%3D21&usg=AOvVaw0kMw-GAnSwqc3Rr2xn7jxU (植村和秀(注239)「菱田胸喜の西田幾多郎批判–論理的解析(一))
菱田が「超国家主義者」であるとする末木は、ここでも舌を噛んでしまっていることになります。(太田)

 (注237)あまのていゆう(1884~1980年)。一高、京大文(哲学)卒。(西田幾多郎の推挙で)智山派勧学院大、七高、(西田幾多郎らの推挙を受けて)学習院、更には京大で教鞭を執り、京大博士。「1937年に出した『道理の感覚』に台頭する軍部と軍国主義に対する批判が含まれていたことから、軍部や右翼、マスコミが天野を糾弾、自主絶版ということで不問に付されたものの、その後も『学生に与ふる書』(1939年)を著すなど、時流に流される世の中に警鐘を発し続けた。」戦後、二度、文相を務めた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E8%B2%9E%E7%A5%90
 (注238)ごんどうせいきょう(1868~1937年)。国学者・藩医である権藤松門(権藤直)の長男として・・・現在の久留米市・・・に生まれる。「明治政府の絶対国家主義や官治主義(官僚制),資本主義,都会主義を批判し、農村を基盤とした古代<支那>の社稷型封建制を理想として共済共存の共同体としての「社稷国家」の実現と農民・人民の自治および、東洋固有の「原始自治」(「自然而治」)を唱えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E8%97%A4%E6%88%90%E5%8D%BF
 (注239)1966年~。「政治学者。専門は、政治思想史、ナショナリズム論」京大法卒、同大助手を経て京都産業大法学部講師、助教授、教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E5%92%8C%E7%A7%80

(完)