太田述正コラム#11422(2020.7.20)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その8)>(2020.10.11公開)
「・・・いま鎌倉幕府と呼ばれている権力が、いつ成立したかと問えば、・・・筆者がもっとも有力と考える説は、・・・1185<年>11月説である。
これはこの時、後白河法皇が源義経にせまられて頼朝追討の命令を与えたのを逆手にとり、義経逮捕を口実にして「守護・地頭」の設置を朝廷に認めさせた事件を重視する立場である。
大山喬平<(注22)>(きょうへい)氏は、西国国衙にたいする広範な支配権(軍事・警察を中心とし、田地の支配にも及ぶ)を、頼朝に与えたものとした。
(注22)1933年~。京大(国史)卒、同大院博士課程単位取得退学、名古屋市立大、大坂市立大を経て京大助教授、同大博士、同大教授、大谷大、立命館大教授、同大退職。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%96%AC%E5%B9%B3
この「守護・地頭」設置は、実態的には平家追討のため西日本の各地に進駐してきた頼朝の軍勢が、平家滅亡後も居座って西国諸国の国衙機構を占拠している現状を、朝廷が追認させられたものである。
しかし、頼朝はそれが現地に予想以上の大混乱を巻き起こしたため、翌年田地の支配にかかわる権限を放棄した。
その結果、しばらくして今日の高校教科書などで叙述される、諸国に守護を置くという制度に落ち着いてゆき、頼朝権力もより安定した形で西国にまで及ぶようになった。」(73~74)
⇒頼朝がいかなる政権構想を抱いていたのか、京ではなく鎌倉を本拠にするのも当初からの予定だったのか、それらに大江広元ら「文官」がどの程度関わっていたのか、また、後白河法皇の心中はどうだったのか、等、は今後の検討課題にしたいと思います。(太田)
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[守護・地頭]
〇守護
「令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。・・・
平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられている。・・・<守護は、治承・寿永の内乱が始まってから、>頼朝の勢力圏である関東南部には早期に設置されていたと見られる。その後、頼朝政権の勢力が西上するに従って、守護の設置は西国へと拡大していった。当時の守護は惣追捕使(そうついぶし)とも呼ばれ、国内の兵粮徴発や兵士動員などを主な任務としていた。梶原景時と土肥実平は播磨・美作・備前・備中・備後5ヶ国の惣追捕使に補任され・・・、源範頼軍と共に平氏追討に参加した。1185年・・・に平氏が滅亡して追討が終了すると、頼朝は後白河法皇に諸国惣追捕使の停止を奏上している・・・。
同年11月、北条時政の奏請により、源義経・源行家<(注23)>の追討を目的として五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に国地頭(くにじとう)を設置することが勅許された(文治の勅許)。
(注23)1141/43~1186年。「1159年)の平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に雌伏する。・・・1180年・・・、摂津源氏の源頼政に召し出され、山伏に扮して以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達した。・・・
甥の源頼朝に決起を促したのも行家であるが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を志向した。・・・<その後、>おなじく甥の源義仲の幕下に走っている。・・・1183年・・・、義仲とともに入京、後白河院の前では義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁した。朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され<るも、やがて>・・・義仲とも不和となり、身の危険を感じて、平家討伐に名を借りて京を脱出。・・・
義仲が頼朝の派遣した頼朝の弟の源範頼・義経兄弟の軍勢に討たれた後<も>・・・鎌倉源氏軍による平家追討には参加しておらず、甥の義経に接近しながらも鎌倉に参向しようとはせず、半ば独立した立場をとって・・・いた。・・・1185年・・・8月、頼朝が行家討伐を計ると、行家は壇ノ浦の戦い後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受け<るが、>・・・行家らに賛同する武士団の連中は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3日、行家・義経一行は都を落ちた。翌・・・1186年・・・の5月、・・・鎌倉幕府から命を受けた北条時定の手兵によって捕らえられ、・・・斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E5%AE%B6
頼義-義家-義親-為義-義朝-頼朝
-範頼
-義経
-義賢-義仲
-行家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E8%A6%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2 等
国地頭には荘園・国衙領からの段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限が与えられたが、荘園領主の反発を受けて翌年3月には停止され、時政は軍事・検断関係を職務とする惣追捕使の地位のみ保持した・・・。やがて行家や義経与党が次々に討たれたことから、6月には畿内近国における惣追捕使が停止された・・・。朝廷は惣追捕使について「世間落居せざるの間」・・・と留保条件を付けており、この時期の守護は戦時や緊急時における臨時の軍事指揮官で、平時に戻れば停止されるのが当然という認識があったと推察される。頼朝の諸国守護権が公式に認められた1191年・・・3月22日の建久新制により恒久的な制度に切り替わり、諸国ごとに設置する職は守護、荘園・国衙領に設置する職は地頭として区別され、鎌倉期の守護・地頭制度が本格的に始まることとなった。当初の頼朝政権の実質的支配が及んだ地域は日本のほぼ東半分に限定されており、畿内以西の地域では後鳥羽上皇を中心とした朝廷や寺社の勢力が強く、後鳥羽上皇の命で守護職が停止されたり、大内惟義<(注24)>(平賀朝雅<(注25)>の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことである。
(注24)~?年。「義仲の長男・義高と頼朝の長女・大姫の縁組という頼朝に有利な条件で和解が成立し、東国における頼朝の優位が確立した。それまで姿を現さなかった平賀氏の<惟義の父である義信>が突如として鎌倉政権下で武蔵守という枢要な地位を与えられたのは、義仲からの離反に対する見返りだったとも考えられる。惟義は一ノ谷の戦いの後に、伊賀国守護(惣追捕使)に補任される。伊勢平氏の権力基盤の一部であった伊賀を抑える役割を期待されての人事と思われる。同国大内荘(九条家領の荘園)の地頭職を兼ねたともいわれ、このころから大内冠者と記されるようになる。・・・
1221年・・・、承久の乱が勃発。後鳥羽院ら京方の挙兵に対し、惟義の死後に近畿6国守護職を受け継いでいた子の惟信は、後鳥羽院の下へはせ参じ、京方として鎌倉幕府軍と戦う。しかし、あえなく敗戦して消息を絶ち、ここに源氏御門葉平賀・大内氏は滅亡する。
若年の惟信ではなく惟義が朝廷軍を率いていたならば、戦況はまた違ったものになっていた可能性もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E7%BE%A9
頼義-新羅三郎義光-盛義-平賀義信-大内惟義-惟信
-平賀朝雅
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E7%BE%A9%E4%BF%A1 (及び上掲)
(注25)ともまさ(?~1205年)。「2代将軍・源頼家が追放され、3代将軍・源実朝が擁立された直後、政変による鎌倉幕府の動揺に乗した謀反を防ぐべく京都守護として都に派遣された。
・・・1205年・・・6月、・・・畠山重忠の乱が起こり、畠山重忠・重保父子が謀反の疑いで討伐される。・・・朝雅が重保との争いを妻の母・牧の方に訴え、牧の方が夫の北条時政に畠山親子に謀反の疑いがあると讒言したためとしている。畠山氏は武蔵の最有力御家人で、武蔵国の国司であった朝雅とは関係が深い。朝雅の舅で幕府の実権を握っていた北条時政は朝雅の後見人として、朝雅の上洛後に武蔵国の行政権を握っており、武蔵武士団の棟梁である畠山重忠と対立する関係になっていた。
時政は畠山父子を排斥すべく謀反人に仕立て上げたとされ、時政に畠山討伐を命じられた息子の北条義時・時房は反対したが押し切られ、この事件をきっかけに、時政と義時・政子の対立が決定的になった・・・。これは時政の先妻の子(義時)と後妻<の牧の方との間>の娘<の>婿(朝雅)を担ぐ時政との北条家内の対立と、鎌倉に隣接する有力国武蔵の支配を巡る畠山氏と北条氏の軋轢が背景にあったものと考えられる。
・・・1205年・・・7月、源実朝を廃して朝雅を新たな鎌倉殿として擁立しようとした時政が失脚した(牧氏事件)。当時、京都守護を兼ねていた朝雅は・・・に京都で、幕府の実権を握った北条義時の命をうけた山内首藤通基(経俊の子)によって殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%9C%9D%E9%9B%85
(続く)