太田述正コラム#11424(2020.7.21)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その9)>(2020.10.12公開)

 その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永元年)に制定された御成敗式目において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である大犯三箇条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられた。しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を被官(家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7

〇地頭

 「「地頭」という言葉は 10世紀初め頃から用いられ,平氏政権のもとでも荘園の地頭にその家人が補任されたが,これは私的,非公法的なものであった。これに対して,鎌倉幕府においては,源頼朝が大江広元<(注26)>の献策により,・・・1185・・・年 11月源義経,行家追捕を理由として諸国に守護,地頭の設置を奏請し,勅許を得た。

 (注26)1148~1225年。「1184・・・年,源頼朝に招かれて鎌倉に下向し,同年 10月6日公文所別当となり,頼朝の家政を統括し,能吏として彼の信任を得た。・・・85・・・年 11月に守護,地頭の設置をはかり,・・・91・・・年1月政所別当,同年4月明法博士,左衛門大尉に任じられた。・・・99・・・年,頼家が2代将軍になると,北条時政らと幕政を合議し,ここに広元と北条氏の合議体制が完成した。・・・1203・・・年には,時政とはかって頼家を廃し修善寺に幽閉。実朝が3代将軍となると,彼に武芸をすすめるだけでなく,三代集,聖徳太子の『十七条憲法』『小野小町盛衰図』などを献じて,文化的な面でも協力した。・・・16・・・年大江姓に復し,翌年11月10日出家して覚阿と称した。実朝の死後も北条義時とはかって幕政を安泰にし,承久の乱には軍の西上を主張し,みずからは鎌倉にとどまって方策を講じたり,乱後の適切な処置をとった。・・・24・・・年執権義時の死後,その子泰時を執権につかせるなど,北条氏の独裁体制の確立に尽力した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83-39053
 「広元の出自は諸説あり、その詳細は不明。『江氏家譜』では藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたという。しかし『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている。・・・
 四男・毛利季光は・・・1247年・・・の宝治合戦で三浦泰村に味方して三浦一族とともに頼朝の持仏堂であった法華堂で自害する。しかし、その四男・経光は越後に居たため巻き込まれず、所領を安堵された。経光の四男・時親は安芸吉田庄を相続し、安芸毛利氏の始祖となって、戦国大名たる元就、輝元らに繋がる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83

⇒私は、「大江広元=藤原光能の息子」説を採る。
 理由は、大江氏は、「古代の氏族である土師氏が源流とされる。・・・大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E6%B0%8F
という背景の下、武官職に就いた者がいなかったのに対し、藤原氏は、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の担い手であり、広元の父であったとした場合、藤原光能は、藤原氏の本流の北家の中でも、武官職に就く系統に属する↓
 藤原北家の道長-長家(右近衛少将・右近衛中将)-忠家(近衛少々・右衛門督)-俊忠(左近衛中将)-忠成(-)-光能(右近衛少将・右近衛中将・蔵人頭・右兵衛督・左兵衛督)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%8A%E5%BF%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%88%90
ことから、広元の子孫から武家が輩出することに違和感が全くないからだ。
 このことを、広元の「同父母兄弟」の中原親能の(その、ミダスの黄金の腕的に、実に、養子たる子供達も含めた)子孫からもまた武士が輩出していることが裏付けている。↓
 「中原氏は安寧天皇の第三皇子磯城津彦命の後裔の十市宿禰有象が中原姓を賜姓されたことに始まると伝える。子孫は大内記、少内記を世襲し、また明法道、明経道の家としても著名である。・・・中原広季は広元のほかに藤原光能の子親能を養子としており、親能は源頼朝の側近として重用され鎮西奉行も務めた。親能は近藤能成の子能直<のほか、中原家の>親実・師員・師俊・親家らを養子とし、大友・三池・鹿子木・門司・摂津氏ら中世武家が中原氏から分かれでた。厳島神主家も中原氏の裔で、のちに武家化したことが知れれる。」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakahara_kz.html 
 (より、正直に白状すれば、『江氏家譜』は、長州藩主の命を受けて、家臣の永田政純が編纂し1742年に完成したもの
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%B4%94
であって、藩主家の毛利家の意向を反映しているわけであり、この意向は、私が上で書いたようなものであったと考えられる、ということだ。)
 では、どうして、広元が大江姓を名乗ったかだが、「大江広元は<大江維光と結婚していた>母が中原広季と再婚したので、広季の養子となり中原姓を名乗ったが、のちに大江姓に復した」(上掲)のではなく、「大江広元は<藤原光能と結婚していた>母が中原広季と再婚したので、広季の養子となり中原姓を名乗ったが、のちに大江維光の養子となった」可能性が高い、とでも考えたらどうか。 『江氏家譜』には、そのあたりまで書いてあるのかはどうか知らないが・・。
 ちなみに、大江維光のウィキペディアは、広元を維光の養子としているところだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E7%B6%AD%E5%85%89 (太田)

 この文治勅許の地頭設置の範囲については,(1) 日本全国,(2) 畿内および主として西国に属する 37ヵ国,鎮西9ヵ国,計 46ヵ国,(3) 西国 36ヵ国,(4) 地域的限定はあるが確定しない,などの説があるが,荘園領主の反対によって翌年7月には,全国五百余ヵ所の平家没官領および謀反人跡に限定せざるをえなかった。承久の乱 (1221) の幕府側の圧倒的勝利の結果,京都方に味方した者の所領三千余ヵ所を幕府の支配下に入れ,その地頭職を恩賞として御家人に与えることによって,幕府の支配は全国に及ぶことになった。これらの地頭の種類は複雑多様で,荘,郷,保,村,名 (みょう) 地頭などのほか惣地頭,小地頭と呼ばれるものもあり,これらは・・・補任(ぶにん)の動機からは本領安堵(あんど)の地頭と新恩の地頭,得分の形態からは承久(じょうきゅう)の乱後に補任された新補(しんぽ)地頭<(注27)>と旧来からの本補(ほんぽ)地頭に分類される。

 (注27)「新補地頭として西日本に所領を獲得し、一族郎党が移住した御家人には、安芸の毛利氏・熊谷氏・吉川氏、阿波の小笠原氏、肥前・薩摩の千葉氏、薩摩の渋谷氏などがある。かなり大規模な移住だったため、「日本史上の民族大移動」と評する論者もいる。・・・
  小笠原氏は、後鳥羽上皇方に付いた佐々木氏に代わって、阿波国の守護にも任じられている。阿波へ移住した一族の中から、後に三好氏が出る。・・・
  西日本ではないが、三河国の守護職と荘園の地頭職を獲得した足利氏も、吉良氏をはじめとする支流が、この時期に三河へ多数移住している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD

 さらに地頭としての職務とそれに付随する権限である地頭職の分割・相続に伴い,一分(いちぶ)地頭や惣領(そうりょう)地頭の語も生まれた。地頭は職権を利用してしだいに領主化し,荘園領主との対立が激化した。その解決のため,地頭が荘園領主に対し豊凶にかかわりなく一定額の年貢貢納を請け負う地頭請や,下地中分の方法がとられたが,かえって一円領主化が促進された。南北朝内乱を契機に地頭の一円領主化が進んだが,守護領国制の展開とともに地頭は有力守護の支配下に組み込まれていった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%B0%E9%A0%AD-74346
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(続く)