太田述正コラム#1176(2006.4.11)
<フランスとタイの政治的混乱の結末(その1)>
1 始めに
タイとフランスのいずれにおいても、政治的混乱が収束に向かっています。
「現在のフランスの政治状況は、現在のタイの状況(コラム#1120、1121)と二重写しに見える。いや、・・フランスの政治の方がタイより、アングロサクソン流の民主主義からの逸脱度<が>一層大きい、と言えそうだ。」と前に(コラム#1139で)指摘したところですが、両国における政治的混乱の収束の仕方を見て、改めてフランスの政治の後進性を痛感させられています。
2 タイ
タイでは4月3日に、主要三野党がボイコットしたまま総選挙が実施され、約4,500万人の有権者のうち約2,800万人しか投票せず、1997年憲法下の最低投票率を記録した上、約1,000万人が白票を、約300万人が無効票を投じました。
しかしその翌日、タクシン首相は、与党(Thai Rak Thai Party=Thais Love Thais)は1,600万人の支持を得た(注1)と述べ、引き続き首相の座にとどまる、と言明しました。
(注1)ただし、得票率は57%であり、14ヶ月前の前回の総選挙の時より減った。
ところが、その更に翌日の4月5日、タクシンは、プミポン国王に拝謁した後、66日後に迫った国王即位50周年記念日まで現在の混乱を続かせるわけにはいかないので首相を辞任する、しかし議員は辞職しないし(圧倒的多数の議席を獲得した)与党党首の座にもとどまる、と言明したのです。
この国王拝謁のイニシアティブをとったのが国王側なのかタクシン側なのか、定かではありませんが、国王がタクシンに引導を渡した、という話が全く聞こえてこないことからすると、私はタクシン側だと思います。
タクシンは、国王即位50周年にひっかけて自発的に首相を辞任する、というストーリーの信憑性の引き立て役に国王を使わせていただきたいと国王に陳情し、国王がこれを認めた、ということだと思うのです。
タクシンは、首相の座という名を捨てて、政治の支配という実をとるとともに、首相の座という名についても、あくまでも自発的に捨てたのであって、デモやストに屈したわけでも、国王に命令されたからでもないことを示唆することによって、タイの議会制民主主義をぎりぎり守ったわけです。
反首相派は、なお、タクシンによる政治の支配の打倒まで戦い続けると言っていますが、議会の全議席が確定した暁には、勢いが失われる可能性が高く、1??2年後には行われることになると思われる次の総選挙には、参加せざるを得なくなるのではないか、と私は見ています。
(以上、特に断っていない限り、http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,1746813,00.html(4月5日アクセス)、並びにhttp://www.taipeitimes.com/News/editorials/archives/2006/04/08/2003301637及びhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/04/08/AR2006040800892_pf.html(どちらも4月9日アクセス)による。ただし、私見を付け加えた。)
(注2)候補が1人の場合は有権者数の20%以上の得票が必要だが、反首相派の棄権ないし白票投票の呼びかけで、38選挙区で与党候補が法定得票に届かなかったため、4月23日に再投票が行われるが、今度は与党候補者1人の選挙区は6選挙区まで減っており(http://www.asahi.com/international/update/0410/012.html。4月10日アクセス)、再投票を繰り返していけば、全選挙区で議員が確定する可能性が高い。
3 フランス
4月10日、フランス政府は、初雇用契約制度に係る法律を撤回する、と発表しました(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4895164.stm。4月10日アクセス)。
何週間にもわたった、暴動を伴ったところの学生と労組によるデモ・ストに全面的に屈したことになります。
(続く)