太田述正コラム#11430(2020.7.24)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その12)>(2020.10.15公開)
「・・・鎌倉<幕府の>御家人に課された役には恒例と臨時の役があり、恒例の役は鎌倉殿にたいする奉仕が主だった。
臨時の役は鎌倉殿を直接の奉仕対象としない役で、幕府ないし鎌倉殿が果たすべき職務が、配下の御家人集団に転嫁されたものである。
そして鎌倉幕府にあっては、恒例の役よりも臨時の役の方が優先され、臨時の役中もっとも重んぜられたのが京都大番役<(注32)>だった。
(注32)「鎌倉期の内裏・院御所(いんのごしょ)諸門の警固番役で,御家人役の一つ。・・・鎌倉大番役・摂関家大番役などもあったが,一般に大番役といえば京都大番役をさす。平安後期にはすでに諸国武士による交替勤番制があり,大番の呼称も用いられていた。1185年源頼朝が京都に入ると,内裏・院御所の警固などは頼朝の管掌するところとなり,1192年ころから御家人の所役とし非御家人の勤仕を排除した。大番衆として在京中の御家人は初め京都守護の統轄下にあったが,承久の乱後幕府は六波羅探題を置き統制を強化,大番衆は六波羅探題・守護の統轄下に分番勤番した。また幕府の侍所は大番役全体を統轄し,結番(けちばん)(勤務の順番,期間などの決定),賦課のほか,関係訴訟の取扱いなどに当たった。勤仕手続きは結番表に基づき守護および御家人の家長あてに指令が出される。それを受け家長は管国内の御家人または一族に催促状を発して上洛させた。勤仕終了後,守護は覆勘(ふっかん)状(勤仕終了証明書)を発行,これは催促状とともに御家人であることの証拠資料として長く重用された。鎌倉幕府滅亡後,建武新政権も内裏大番役の制度を設けたが,新政の崩壊後,室町幕府はこの制度を踏襲しなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E7%95%AA%E5%BD%B9-52968#:~:text=%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%9C%9F%E3%81%AE%E5%86%85%E8%A3%8F(%E3%81%A0,%E5%A4%A7%E7%95%AA%E5%BD%B9%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%99%E3%80%82
「地方の武士にとっては負担が大きく、その期間は平安時代には3年勤務であったが、源頼朝が半年勤務に短縮し、公家に対して武家の優位が確定する鎌倉時代中期になると3ヶ月勤務と大幅に短縮された。
しかしながら、平安時代末期においては地方の武士が中央の公家と結び付きを持つ機会であり、大番役を通して官位を手にする事が出来た。つまり自らが在地している国の介・権介・掾に任命してもらう事で在庁官人としての地位を手にし、支配権を朝廷の権威に裏打ちしてもらうと言う利点があった。また、歌などの都の文化を吸収し、それを地方に持ち帰ることもあったようである。
逆に短所や不安材料として、こうした大番役は惣領に限らずその子が請け負う事もあったが、子が京にいる間に惣領が亡くなった場合、地元で弟・叔父などが勝手に惣領の地位を収奪してしまう、という事態が起きることもあった(例:上総広常)。また、惣領である父が京にあって子が地元にいる場合、地元で騒乱があっても迅速な対応が出来かねるということもあった(例:畠山重忠)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%95%AA%E5%BD%B9
「印東<(上総)>常茂は、平安時代末期の武士。上総氏5代当主。平常澄の次男。上総広常の兄。・・・兄・伊西<(上総)>常景が有していた上総氏及び房総平氏の惣領の座を、これを殺すことで強奪した。しかし、常茂が暴力的に惣領の座を得たことは上総氏及び他の房総平氏の間で激しい反発心を引き起こし、多くが常茂の許を離れて、その弟である<上総>広常の許に去った。そこで常茂は当時下総の国守であった藤原親盛を通じて、その姻戚関係にあった平家と結びつくこてで自己の地盤を固めようとした。実際、常茂は大番役として京に上洛している。常茂が上洛している間の・・・1180年・・・に源頼朝が伊豆国で挙兵した。頼朝挙兵に、上総広常・・・<は>賛同して兵を挙げている。常茂の子息達は父親に反して広常に加勢した・・・。・・・常茂は平維盛を大将とする頼朝追討軍に従事していたが、・・・富士川の戦いで広常に討ち果たされた。かくして、房総平氏は広常の許で統一されることになった。他方、父親と一線を画して源氏に加勢した常茂の子息達は御家人として存続することが許された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%9D%B1%E5%B8%B8%E8%8C%82
「畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、・・・多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に渡り忠実な家人として仕えた。・・・1180年<8月に>・・・頼朝が・・・挙兵した。この時、父・重能が大番役で京に上っていたため領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。23日に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走。相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇。合戦となり、双方に死者を出して兵を引いた。<その後、>重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡。重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取った(衣笠城合戦)。
9月、頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入った。10月、重忠は・・・頼朝に帰伏した。・・・重忠は先祖の平武綱が八幡太郎義家より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという。重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%87%8D%E5%BF%A0
⇒京都大番役、と、内裏で言えば滝口武者、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%8F%A3%E6%AD%A6%E8%80%85
院御所で言えば北面武士
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%9D%A2%E6%AD%A6%E5%A3%AB
(や、これに加えて後鳥羽上皇が創設した西面武士
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%9D%A2%E6%AD%A6%E5%A3%AB )
、との関係を少しでいいので説明して欲しかったところです。(太田)
御家人にとって主人である鎌倉殿を護る役より、京都の天皇を護る役の方が重いというある種奇妙な事実は、幕府が国家的な軍事・警察を職務とする権力であることを端的に物語っている。・・・
ところで、・・・平家の政権と鎌倉幕府には意外に多くの共通点がある。
すなわち・・・平家の家人も御家人と呼ばれ、京都大番役の先駆となる閑院<(注33)>内裏への大番役を交替で勤めさせ<られ>ていた。」(78~79)
(注33)「藤原冬嗣の邸宅。二条大路の南、西洞院大路の西にあり、平安時代末から鎌倉時代中期まで里内裏(さとだいり)となる。正元元年(一二五九)焼失。」
https://kotobank.jp/word/%E9%96%91%E9%99%A2-236210
⇒1160年の平治の乱の前年には既に閑院は消失しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1
「平家の政権」の時代は、天皇は内裏にいたのではないでしょうか。(太田)
(続く)