太田述正コラム#11436(2020.7.27)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その15)>(2020.10.18公開)

 「・・・頼朝以後の鎌倉殿も、近衛府の次官(次将、中将・少将)になった上で征夷大将軍に任じられている。

 (注39)「近衛府(このえふ、こんえふ)は令外官のひとつ。・・・兵仗を帯して禁中(平安京では内裏の内郭、宣陽門・承明門・陰明門・玄輝門の内側)を警衛した。また朝儀に列して威容を整え、行幸の際には前後を警備し、皇族や高官の警護も職掌とした。平安中期以降朝政の儀礼化に伴い幹部は名誉職化、兵士は儀仗兵化した。六衛府(左右の近衛府・衛門府・兵衛府)の中では最も地位が高かった。・・・
 <近衛>大将<は、>・・・四等官の長官(カミ)に相当する。・・・左右に各1名(左近衛大将・右近衛大将)。・・・799年・・・に従三位相当に・・・定着した。・・・
 近衛中将・少将はともに四等官の次官にあたるために、近衛次将とも称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BA%9C

 二代目鎌倉殿の頼家は、・・・1199<年>・・・頼朝が死ぬと18歳で家督を継ぎ、・・・<その一週間後に>右近衛少将から左近衛中将に転じている。・・・征夷大将軍になったのは、3年後の・・・1202<年>・・・であるから、それ以前は、対外的には近衛の中将、ついで左衛門督<(注40)>として任務にあたっていたのである。

 (注40)「(左右)衛門府<は、>・・・大内裏の外郭のうち、建春門・建礼門・宜秋門・朔平門より外側で陽明門・殷富門・朱雀門・偉鑒門より内側を警備することが職掌だったが、後代にはこれが検非違使庁によって奪われた。検非違使庁も当初は衛門府内に置かれ、衛門府の官人が検非違使を兼務していたためである。左衛門の陣所は建春門に、右衛門の陣所は宜秋門にそれぞれあった。・・・
 督<(かみ)は、>四等官における長官「かみ」に当たり、・・・従四位下・・・。定員は左右各1名。
 佐<(すけ)は、>四等官における次官「すけ」に当たり、・・・従五位上・・・。定員は左右各1名。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E9%96%80%E5%BA%9C

 四代目の九条頼経(よりつね)、五代目の頼嗣(よりつぐ)も、右近衛少将に任じた上で、同日征夷大将軍になった。・・・
 異例は三代目の実朝で、・・・<1203年、>12歳で征夷大将軍に任じ、<一ヵ月半後に>右兵衛佐に就任している。
 翌年・・・には右近衛少将になり、1218<年>、27歳の時左近衛大将、同年右大臣に昇っている。
 頼家らが大将でなかったのは、当時大将の経歴は大臣になる条件であり、それになれるのは、摂関家以外では、藤原氏の閑院・花山院両家、村上源氏の久我(こが)家という摂関家に次ぐ最上流の貴族家(以上を清華家<(注41)>(せいがけ)という)の出身者だけ、という慣例があったからである。

 (注41)「最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する・・・主に7家(三条<(転法輪)>・西園寺<(閑院流)>・徳大寺<(閑院流)>・久我・花山院<(師実流)>・大炊御門<(師実流)>・今出川<(閑院流)>を指<し、>・・・摂家と清華家の子弟は、公達(きんだち)と呼ばれ<、>近衛大将・大臣を兼任し、最高は太政大臣まで昇進できる。・・・ただし、江戸時代の太政大臣は摂政・関白経験者(摂家)に限られ、清華家の極官は事実上左大臣であった。」
 村上源氏の久我家を除く6家は藤原北家。
 「また豊臣政権においては、五大老の徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成を果たしたとされ、清華家と同等の扱い(武家清華家)を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E8%8F%AF%E5%AE%B6
 
 年少の鎌倉殿では次将に止めざるをえない。・・・

⇒「清華家」のウィキペディア執筆者が、後段に「要出典」イエローカードを突き付けられてはいるけれど、「清華家の家格は大臣・大将に昇進できるということのほかに「娘が皇后になる資格がある」ということも見逃してはならない。平清盛・源頼朝はいずれも清華家の家格を獲得していたのであり、そのゆえにこそその子弟は大臣・大将(平重盛、源実朝など)となり皇后(平徳子)となることができた。」(上掲)という論理の方が説得力があります。
 この論理だと、源頼朝家なる清華家が実朝の代で断絶したため、それ以降の歴代将軍は近衛大将に昇任できなかったのであり、義家は、将軍の座に留まり続け年齢を重ねておれば、近衛大将に昇任できていたはずだ、と解すことになります。(太田)

 また六代宗尊(むねたか)親王以後の親王将軍が、近衛の次将を経験していないのは、皇族はむしろ近衛府によって護られる対象だからだろう。
 これらの例から、鎌倉殿は朝廷の官職である近衛の将官に就任の上で、征夷大将軍に就くという形式になっていたのがわかる。・・・
 なお室町期では幕府の体制が整った三代義満以降、・・・みな右近衛大将を経験し(若年で死亡した五代義量(よしかず)・七大義勝(よしかつ)以外)、それに先立つ左中将と征夷大将軍就任では、両者同日拝任もしくは多く征夷大将軍先行であった。
 同幕府では征夷大将軍不在の時期もあり、その位置づけは高くない。
 むしろ近衛大将任官のお礼を申し上げるために催される拝賀の儀式が、当主の代替わり誇示するものになっている。」(82~83)

⇒高橋は、巧まずして、前出の「征夷大将軍・・・名誉的な官」説を裏付けてくれています。(太田)

(続く)