太田述正コラム#11438(2020.7.28)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その16)>(2020.10.19公開)

 「・・・『平家物語』・・・では富士川の戦いを目前にして、平家の陣営内で斎藤別当実盛が東国武者の強弓と勇猛果敢ぶりを語ると、周りの武士は震えあがった話などがあり、平家の公達も多くは優雅であるが気力に欠ける貴公子として造形されている。・
 しかし典型的な鎌倉武士とされる畠山重忠<(前出)>や熊谷直実<(コラム#9363、11048)>が、内乱勃発時には平家方で行動していたという事実が示すように、両者の武士の力量にとくに大きな差があったとは思えない。・・・

⇒そもそも論もさることながら、重忠も直実も、平氏・・直実については確定的ではないが・・ではあるものの、かつては(頼朝がその嫡流であるところの)河内源氏の郎党だったのが、(平氏ならぬ)平家(注42)の時代にやむなく平家に従っていたという点で共通しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F ←直実
例として悪過ぎます。(太田)

 (注42)「武家平氏<中、>・・・いわゆる平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F

 徳川家康は、・・・1611<年>上洛し、豊臣秀頼を臣下として従わせるため、3月二条城で対面の式をおこない、4月には在京の大名に三ヵ条の誓いを記した誓詞<(注43)>を書かせた。

 (注43)条文。
https://core.ac.uk/reader/198397360 の97~98頁

 その第一条には「右大将家(頼朝)以後代々の公方<(注44)>(将軍)」が定めてきた「法式(掟)」を奉じ、江戸の将軍秀忠の禁令を堅く守る、とあった(『御当家令条』<(注45)>巻一)。

 (注44)「鎌倉幕府において<は>・・・1283年・・・頃より、執権北条氏の得宗・御内人・御内御領に対抗して、皇族将軍を「公方」・御家人を「公方人々」・関東御領を「公方御領」と呼称する規定が成立する。これは、皇族将軍と執権北条時宗を擁して幕政改革に乗り出した安達泰盛が、北条氏の私的権力の幕政への介入を抑制するために、幕府の主権が征夷大将軍とその主従関係下にある御家人にあることを示すために採用したといわれている。
 南北朝時代、室町幕府を開いた足利尊氏が朝廷より公方号を許された・・・。しかし、尊氏は多分に朝廷や公家の称としての意味合いが強かった公方号を素直には喜ばなかった。尊氏は公方の号を賜ると甲冑をまとうことができないと述べ、辞退するが、朝廷も一旦授けたものを撤回できず、尊氏が預かる形となった。
 以降、2代将軍となった義詮の時代になっても用いられることはなかった。しかし、3代将軍義満以降、将軍の敬称として公方号が積極的に称されることとなった。当初、関東管領として鎌倉府に在った足利基氏も、将軍家が公方を称するようになると鎌倉公方と称するようになった。以降、幕府の主宰者たる将軍や、鎌倉公方を称した関東足利氏一族により、公方号が世襲されることとなる。鎌倉公方はさらに古河公方、堀越公方両家に分裂し、古河公方はさらに小弓公方と分裂する。・・・
 江戸時代には王権をほぼ全て掌握する将軍の別称として完全に定着し、「公方」と言えば徳川将軍だけを意味するようになる。幕府の主宰者たる武家の棟梁は、征夷大将軍を宣下されて後、敬称が上様から公方様に転化することとなり、公方は朝廷の代行者という意味が強かった。
 ただし、古河公方・小弓公方の子孫である喜連川氏については、非公式ながら公方と名乗ることを認められていた。喜連川氏は徳川将軍家との間に明確な主従関係が存在しないという、極めて特殊な存在であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%96%B9
 (注45)「《令条記》《令条》などの書名でも伝わり,37巻から成る。1597年(慶長2)9月から1696年(元禄9)10月まで100年間の,主として江戸幕府の法令約600通を収め,ほかに慶長以前の数通を含む。1711年(正徳1)藤原親長の序文があり,彼が編纂者と目されるが,どのような人物であったかは未詳。成立は1711年とも考えられるが,1696年から1700年の間である可能性が強い。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%BD%93%E5%AE%B6%E4%BB%A4%E6%9D%A1-1166720

 これは徳川将軍中心の政治制度が、鎌倉以来の武家政治の正統な継承であることを承諾させようとした文書でもある。<(注46)>

 (注46)「徳川幕府が制定発布する諸法令なるものは、幕府が任意に定めたものを諸大名側に一方的に強制するものではなく、あくまで鎌倉・室町両幕府の伝統と先例に依拠したものであり、歴代源氏将軍家の発布法令の部分修正版に他ならないという擬制をもって、諸大名にその遵守を誓約せしめている」(笠谷和比古「徳川家康の斉大将軍任官と慶長期の国制」より)
https://core.ac.uk/reader/198397360 前掲

⇒信長は征夷大将軍就任を望んでいたのか、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%81%B7%E6%8E%A8%E4%BB%BB%E5%95%8F%E9%A1%8C
秀吉は本当に就任を断ったのか、断ったとして、その理由の一つとして、「足利家の家職化し<てい>た将軍を朝廷は<足利義昭を>積極的に解官せず、・・・豊臣政権の初めに<義昭が>辞官するまで<義昭が>将軍職だった」ことがあるのか、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
・・これが、家康に豊臣氏の権力を簒奪する法空間を与えた・・
https://core.ac.uk/reader/198397360 前掲
といったことには、私としても、興味があるところです。(太田)

 この時は西国有力大名を対象としたが、翌17年には東国大名にも同様の誓詞を書かせている。
 しかし秀頼はこれに署名していない。」(84~85)

(続く)