太田述正コラム#11442(2020.7.30)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その18)>(2020.10.21公開)
「頼朝やその幕府が徳川幕府の源流であり、それがまた現実政治の規範や行為の準則であるとみなす政治観の歴史版ともいうべきものが、江戸中期の儒者であり政治家であった新井白石の『読史余論<(注52)(コラム#11368)>(とくしよろん)(公武治乱考)』だろう。
(注52)「新井白石(あらいはくせき)の著した史論書で、1712年・・・における将軍徳川家宣への進講案。摂関政治から徳川家康の政権獲得に至る(実際は豊臣秀吉の事業)までの政治史で、文徳天皇の世から建武中興までの公家政治に九つの変化を、源頼朝以後家康までの武家政治に五つの変化を認めて、有名な「九変五変観」をたてたのが特色。北畠親房の『神皇正統記』や林家の『日本王代一覧』『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』、師の木下順庵の説を大幅に取り入れ、「変」については慈円の『愚管抄』や『日本王代一覧』などから示唆を得たようであるけれども、随所に独創的見解を示している。明治になるや「破天荒」の史観といわれ、「明治以前唯一の政治史」と絶賛された。武家政治出現の必然性と徳川政権の正当性とを論証した手際は鮮やかであるが、徳川びいきに陥った短所もある。単に過去を論ずるだけでなく、当時の幕府政治に対し改善の方途をも示唆的に述べている点で林家史学と一線を画する。江戸時代後期から広く一般に読まれるようになり刊行もされて、明治時代には教科書的存在にまでなった。」(宮崎道生)
https://kotobank.jp/word/%E8%AA%AD%E5%8F%B2%E4%BD%99%E8%AB%96-104779
宮崎道生(1917~2005年)は、「当代文(国史)卒、弘前大、岡山大、國學院大、の教授を歴任。新井白石の研究者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%81%93%E7%94%9F
「白石は中世日本の政治史を、公家勢力と武家勢力の対立ととらえ、その上に儀礼的存在として天皇があるものと考えた。」(コラム#11368)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E5%8F%B2%E4%BD%99%E8%AB%96
それは、日本の歴史を、平安前期の藤原氏外戚の専横ぶりに始まり南北朝分立の王朝没落までの九段階と、頼朝の開府から当代(徳川政権)にいたる「武家の代」五段階からなる歴史として描き、武家政治の出現の合理と必然を説き、到達点としての徳川の治世を肯定する歴史書だった。・・・
⇒「平安前期の藤原氏外戚の専横ぶり」が単に白石の見解を紹介なのか、高橋も同意なのか、定かではありませんが、(次の東京オフ会「講演」原稿で明らかにしますが、)藤原氏のイニシアティブで摂関政治が実現したわけではないこと一つとってもかかる見解は誤りですし、「注52」中の「中世日本の政治史を、公家勢力と武家勢力の対立ととらえ、その上に儀礼的存在として天皇がある」については、摂関時代に引き続く院政時代には「その上に儀礼的存在として天皇、と、最高権力者として(公家勢力の一員とは明らかに言えないところの)上皇がいた」ので誤りである上、そもそも、「公家勢力」の中核たる藤原氏は、(過去コラムにおいて累次申し上げてきたように、)事実上、天皇家なので、その中核が藤原氏であったところの公家勢力、の外に天皇ないし天皇家が存在した、という認識それ自体が誤りです。(太田)
白石にあっては、貴族政治こそ地方政治の混乱を招き、武士の台頭をうながした根本の原因だった。
⇒武士の台頭は、復活天智朝の歴代天皇がトップダウンで実現した、という私の主張に照らせば、白石も、また、白石の主張に同意らしい高橋も間違っています。(太田)
そこでは「つねに都の内に住んで、公家の人びとと朝夕に親しむことが習慣になったので、武勇のことはことごとく打ち忘」れた平家や、「幕府を京に開」いた室町幕府の「大いなるあやまち」が手厳しく批判される。
⇒「武勇のことはことごとく打ち忘・・・れた平家」については、「清盛<は、>・・・平治の乱で複数の部隊を連携させた戦術で藤原信頼軍を撃破し、御所や市街地の被害も最低限に抑えることに成功しており「洗練された戦法(評:元木泰雄)」を得意とする優秀な武将でもあった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B
ところであり、その子の重盛も、「平治の乱<で、>・・・、源義平と御所の右近の橘・左近の桜の間で激戦を繰り広げ、堀河の合戦では馬を射られながらも材木の上に立ち上がって新たな馬に乗り換えるなど獅子奮迅の活躍を」している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B
ところ、それ以降の平家の時代には平和が続いたので、彼ら等が武勇を発揮する機会がなかっただけのことであって、言いがかりに過ぎませんし、「幕府を京に開・・・いた室町幕府の・・・大いなるあやまち」についても、「なぜ尊氏は幕府を京都に置いたの・・・か。それは室町幕府の成立当初、尊氏は自らの後ろ盾となる京都(北朝)の天皇家を吉野(南朝)の後醍醐天皇から守る必要があったから・・・。」
https://nihonshimuseum.com/muromachi-shogunate/ (←筆者は「山田」としか分からない。)
という説得力ある事情があった上に、足利将軍家よりも何よりも、足利将軍家の部下である「武将たち<が、南北朝時代の戦乱のうち続く地方にとどまるよりも、>便利で娯楽の多い京都の生活を好んでい・・・た」(亀田俊和(注53))
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/5912
という事情があったようなので、これまた、難癖でしかありません。(太田)
(注53)1973年~。京大文(国史)卒、同大博士、同大非常勤講師を経て、2017年8月から国立台湾代助理教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B0%E4%BF%8A%E5%92%8C
反対に頼朝にならって東国に幕府を定め、しかも鎌倉とは違い文事・武事が兼ね備わった地勢の江戸を、「御子孫万世の都城」とした家康の「神謀」が賞賛されてゆくのである。
同書が近代歴史学に与えた影響は極めて大きい。」(86~87)
(続く)