太田述正コラム#11444(2020.7.31)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その19)>(2020.10.22公開)

 「・・・得宗の専制化と、内管領<(注55)>(御内人<(注54)>の筆頭)の専横は、冷遇・圧迫・干渉された人びとの反発を招き、それが<鎌倉>幕府滅亡の要因の一つにもなった。」(88)

 (注54)「みうちびと・・・「みうちにん」とも読み、学術概念としては「得宗被官」という。御内の被官の意。北条家本家(得宗家)の家人をさす。また北条氏一族の被官も含め北条氏勢力総体をさす場合もある。・・・北条氏の本領である伊豆の名主層出身の者,北条氏の発展に伴ってその支配を受けた諸国の出身者が仕えた。・・・
 将軍を頂点とする秩序からは、北条氏の陪臣にすぎないが、得宗勢力の伸張に伴って御家人を凌ぐ勢力となった。鎌倉中期以後、北条氏の庇護を求めて、所領を寄進して御内人になる御家人も多かった。御内人となったために、父から不孝の子として勘当される例もあり、武家の一族結合は大きく動揺した。全国に展開する得宗領の給主に任命されたため、商業活動に従事するものが多い。内管領(ないかんれい)の長崎氏<のほか>、尾藤氏や安東氏、諏訪氏、広沢氏などはとくに有力だった。・・・
 3代執権北条泰時の時,邸内に御内人の宅が置かれ,本格的に進出。身分は低かったが,北条氏の使者や代官となり政治活動を行い,また膨大な北条氏の所領を管理して経済力をつけた。各地の御家人との対立が深刻化,御家人層の離反を招き幕府崩壊を早めた。得宗と強い主従関係で結ばれ,北条氏に殉じて滅んだ。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%86%85%E4%BA%BA-138207
 (注55)「得宗家・・・の家司(けいし)<(執事)>。・・・北条氏得宗(当主)と執権の地位が分離すると,・・・<得宗家>の家臣を統轄するとともに幕府の侍所の所司<(頭人(とうにん))>(次官)を兼ね<、>・・・侍所別当<(長官)>の地位には執権がつくが,・・・得宗に直結して侍所を掌握した。<ただし>,検断沙汰等の実務に当たるのは奉行人と呼ばれる一般御家人中の吏僚で,外様であった。・・・
 13世紀末得宗貞時の時,初めて平頼綱(よりつな)が内管領と呼ばれ・・・貞時の乳母の夫として貞時を養育した関係もあって,大きな力を幕政に及ぼし,1285年・・・には政敵の安達泰盛を倒して,10年にわたって幕府の実権を握った。・・・
 得宗高時の時の内管領<の>・・・長崎高資・・・(たかすけ)は執権職をも左右した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E7%AE%A1%E9%A0%98-34755#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
 清盛–重盛–資盛–(盛国–国房–)盛綱–盛時–盛時–頼綱  –宗綱
                         ?–長崎光綱–光綱–円喜–高資
 「<平>盛綱については、・・・資盛の子、・・・資盛の曾孫<という二つの史料がある>が、そもそも資盛の子孫とする段階で、支持する説・・・と否定する説・・・とで意見が分かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E6%B0%8F
 「長崎光綱<は、>・・・平頼綱の近親者とされるが、系譜については、頼綱の弟(父は平盛綱または平盛時)とする説、・・・頼綱の甥または従兄弟とする説とあって確定していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%85%89%E7%B6%B1 ←家系図も
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%86%86%E5%96%9C ←家系図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E9%AB%98%E8%B3%87 ←家系図
 「平盛綱<は、>・・・鎌倉幕府執権の北条氏に家司として仕え、執権が別当を兼ねる侍所の所司を務め・・・北条泰時・経時・時頼ら3代の執権を助けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E7%B6%B1_(%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%85%B5%E8%A1%9B%E5%B0%89) ←家系図も
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E6%99%82_(%E5%BE%A1%E5%86%85%E4%BA%BA) ←家系図
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E6%B0%8F

⇒高橋は、幕府滅亡について、その諸要因のうち、「内管領の専横」だけを挙げて、全体を論じていませんが、山川出版社の高校教科書『詳説日本史』は、「1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。
3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせた」
の三つを挙げた上で、<「内管領の専横」も含むであろう(太田)>3)をもっとも重視している
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7627
ところ、私がもっとも重視しているのは1)である(コラム#省略)ことはご承知の通りです。
 でも、それよりももっと問題だと私が思うのは、3)か1)かということとも関連していますが、山本博文(注56)(コラム#11164)が、1)~3)等を紹介した上で、「後醍醐は、自らの皇統を伝えようとするあまりに、それまでの朝廷や幕府の合意をことごとく打ち破ろうとし<、>・・・それが受け入れられないと見るや、挙兵して実力でそれを実現しようとし<たが>、当時、朝廷にはなんら軍事力はなく、軍事はすべて幕府に委ねて<おり、>そうした状況で挙兵するというのは、どう考えても常識外れでした。しかし、時にはその<種の>常識外れが歴史を動かすことになります。」と記している(上掲)ことです。

 (注56)1957~2020年3月)。東大文(国史)卒、同大博士、同大史料編纂所助手、助教授、教授。『江戸お留守居役の日記』(1991年)で日本エッセイスト・クラブ賞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%8D%9A%E6%96%87

 この山本説への批判は、次の次のオフ会の時あたりに、日本通史の中で鎌倉時代を取り上げる際に、「講演」原稿内で行いたいと思います。(太田)

(続く)