太田述正コラム#11448(2020.8.2)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その21)>(2020.10.24公開)

 「後醍醐天皇を支持する南朝方は各地で北朝方と戦ったが、多数の国人<(注59)>(南北朝期以降の在地領主の呼称)に支持された北朝方に圧倒され、しだいに諸国の拠点を失っていった。

 (注59)「国衆,国民ともいわれる。南北朝~戦国時代を通じての地方の荘官,地頭,名主など在地領主,在地土豪,地侍などをいう。もと国衙支配下の人の意であったが,鎌倉時代末期以降,自立して荘園制の枠をこえて1郡,1国の規模の行動範囲をもち,それだけの力を結集でき,しかもそれによって守護大名らと対抗できる存在となった。室町時代には各地で領主化しようとして,あるいは守護の被官となり,あるいはこれと対抗する集団の主導力となった。そして下剋上の過程において戦国大名となったり,またその家臣団に組入れられたりした。安土桃山時代には,兵農分離の進展に伴い,城下町に結集されるにいたった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E4%BA%BA-64164
 「国一揆<は、>・・・室町時代、国衆・国人とよばれていた小領主や農民が、荘園領主や守護に抵抗して一郡ないし数郡の規模で起こした一揆。・・・(1)一定の政治的意図をもって上から組織されたもの(九州探題今川了俊が南朝側勢力討伐のためにその軍事力として編成した面をもつ1377年・・・の南九州国人一揆など),(2)新任の守護に軍事的に対抗したもの(1400年・・・信濃国人が守護小笠原氏と戦ったもの,後述の安芸国人一揆など),(3)山城国一揆のように,畠山氏両軍を追放して国人層による国内支配をおこなった事例,などがある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86-55696#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8

 内乱はあしかけ57年の長きにわたったが、南朝側に実体があり強力だったからではない。
 長びいたのは、武士たちのなかで、王朝貴族や大寺社の経済的基盤である荘園公領<(注60)>への侵略をためらわない急進的な在地領主たちと、王朝貴族らの利害に配慮する保守派の対立が続いたからである。

 (注60)「荘園公領制・・・とは、日本の中世における、荘園<(寄進地系荘園)>と公領<(国衙領)>を土台とした、重層的土地支配構造のことである。・・・網野善彦が提唱した。11世紀中後期から12世紀初期にかけて成立し、院政期を通じて発展し、鎌倉時代前後に最盛期を迎えた。その一方で、鎌倉時代には地頭による侵食を受け、室町時代には守護(守護大名)によって蚕食されるなど、武士の進出に伴って次第に解体への道を進み、戦国時代頃までにほぼ形骸化した。最終的には太閤検地で完全に消滅する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92%E5%85%AC%E9%A0%98%E5%88%B6

⇒私は、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想は、武家を創出し、その武士を担い手として、日本に封建制をもたらそうとした、と見ているわけです(コラム#省略)が、その封建制が、支那の封建制・・武士不在!・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6
とイコールではなかったのは明白であるところ、では、一体、いかなるものだったのか、そして、日本史の現実の進行は、もたらそうとしたものといかなる乖離があったのか、或いはなかったのか、に、現在、関心を持っています。
 この関連で、「注60」のような、武士による荘園公領侵食/蚕食なる説明ぶりに、私は、甚だ違和感を覚えています。(太田)

 それは内には武士を支配し、外には統治をおこなうという幕府権力の両面を、兄弟で役割分担していた尊氏・直義(ただよし)兄弟の不和となって現れ、観応(かんのう)の擾乱<(注61)>(1349~52年)という大きな騒乱を招いた。

 (注61)一三四九<年>七月、先に直義と不和になった高師直・・尊氏の執事・・は、直義討伐を企てて尊氏邸を囲み・・・直義派の・・・上杉重能らを罪した。次いで翌・・・年一〇月、尊氏と不和になった直義は、大和に走って南朝方に降り、挙兵して尊氏と戦った。翌年二月、尊氏と直義はいったん和睦、師直・同師泰は直義方に殺害された。同八月、直義は再び尊氏と争って北国に走り、鎌倉に逃亡。一一月、尊氏は・・・南朝と和議を結び,直義追討の綸旨を得て・・・直義討伐の軍を率いて東下し、直義の軍をうち破った。翌三年正月、鎌倉にはいった尊氏は、二月直義を殺害。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A6%B3%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%93%BE%E4%B9%B1-49450
 高師直(?~1351年)。「正式な名乗りは、高階師直(たかしなのもろなお)。・・・天武天皇の孫長屋王の子孫である皇族の峯緒王が・・・臣籍降下し、高階峯緒を名乗ったのが高階氏の始まりである。11世紀、・・・に武士化して源義家に臣従し、氏に略記の「高」も用いるようになった・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E7%9B%B4
 上杉重能(しげよし。?~1350年)は、「勧修寺道宏の子として誕生。後に母・加賀局の兄弟である上杉重顕・憲房の養子となる。・・・足利尊氏・直義とは従兄弟である。・・・直義の執事的存在」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%87%8D%E8%83%BD

 南朝方は延命の手がかりをつかみ、擾乱で没落した保守派の旧直義党が多く南朝方に加わったため、三度も京都が南朝方に奪回される事態が起こった。
 それ以来幕府に弓を引く武将たちは、南朝に降って南朝方を自称し幕府と戦うというパターンがくり返される。」(89~90)

(続く)