太田述正コラム#11450(2020.8.3)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その22)>(2020.10.25公開)
「だが・・・1362<年>以降、幕政は安定に向かい、軍事情勢も北朝軍優勢のまま小康状態が続く。
執事(管領)細川頼之<(注62)>(よりゆき)は、武士の荘園侵略を既成事実と認めるが、それ以上の侵害は許さないという形で、権門貴族・大寺社と国人・守護権力双方の権益をそれぞれ一定程度保護し、それが室町幕府の土地政策の基調になった。
(注62)1329~1392年。「観応の擾乱では将軍(足利尊氏)方に属し、・・・[直冬党と戦う]。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、2代将軍義詮の執事だった清氏[<が>南朝に降った<のを>・・・攻め滅ぼし<た。>]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E4%B9%8B
「<1367>年,室町幕府将軍足利義詮の死去に際しては,幼少の義満の補佐を託され幕府管領となる。頼之は,これまで足利氏の家宰的存在であった執事職を管領として幕府政治の中枢にまで高め,半済法<(はんぜいほう)>を施行するなど幕府権力の拡充に努めた。<1369>年,南朝方にあって講和を主張し孤立していた楠木正儀を降誘し,河内・和泉守護に任じて南朝の切り崩しを謀ったが,正儀優遇策を快く思わない諸大名は正儀の河内平定に協力しなかった。そのため頼之は管領職を辞し隠遁しようとしたが,このときは義満自ら<出向い>てこれを慰留した。しかしその後も有力大名との軋轢は深まり,自立を図る義満にも疎まれ,・・・1379・・・年,管領職を斯波義将にとって代わられる(康暦の政変)。頼之は・・・領国讃岐に帰り,しばらくは治政に専念する。しかし,のちにこれを悔いた義満<によって>・・・再び京都に召還された頼之は,養子頼元を管領とし自らも義満の政治を補佐した。明徳の乱鎮圧後の3月,病死。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E4%B9%8B-14980 ([]内も)
足利直冬(ただふゆ。1327?~1387?/1400?年)は、「足利尊氏の落胤。尊氏に実子として認知されず、尊氏の同母弟・直義の養子となる。観応の擾乱を機に尊氏と徹底して対立・抗争を繰り広げて南北朝時代を激化させたが、尊氏の死後は勢力が衰え、・・・消息不明となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E5%86%AC
楠木正儀(まさのり。?~?年)は、「父<正成>・兄<正行>と並ぶ南北朝時代最高の名将で、南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、鑓(槍)を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和から、室町幕府管領細川頼之を介し北朝側に離反。外様にも関わらず左兵衛督・中務大輔等の足利将軍家や御一家に匹敵する官位を歴任した。三代将軍足利義満に仕え、幕府の枢要河内・和泉・摂津住吉郡(合わせてほぼ現在の大阪府に相当)の二国一郡の守護として、南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。頼之失脚後、南朝に帰参、参議に昇進・・・して和睦を推進、和平派の後亀山天皇を擁立。没後数年の・・・1392年・・・に南北朝合一が結実。二つの天下に分かれ約56年間に及んだ内戦を終結させて太平の世を導き、その成果は「一天平安」と称えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E5%84%80
「観応の擾乱・・・<下、室町幕府は>、軍費・兵糧調達のため、激戦地であった近江国(守護:六角直綱)・美濃国(守護:土岐頼康)・尾張国(守護:土岐頼康)の本所領(荘園)を対象として、その年の収穫に限り、守護に年貢半分の徴発を認めた。その対象となった荘園・公領を特に「兵粮料所」と呼んだ。
周辺国の守護も半済の適用を求め、翌8月には、河内国(守護:高師直)・和泉国(守護:細川顕氏)・伊賀国(守護:仁木義長)・伊勢国(守護:仁木義長)・志摩国(守護:仁木義長)へと半済が拡大した。
1355年・・・、幕府は半済の拡大を防ぐため、戦乱の収まった国の半済を停止するとともに、戦乱国においても、守護が年貢半分を直接徴収するのではなく、本所(荘園領主)から守護へ納入させることとした。しかし、守護及びその傘下武士たちは、半済を既得権として、荘園・公領へ不当な介入を続けた。当時の流動的で争乱の続く状況の中で、幕府は、武士層だけでなく貴族・寺社層も存立基盤としており、貴族・寺社層の権利保全を図るため、武士による半済の抑制に努めることとなった。
1368年・・・6月、幕府は総括的な半済令(応安の半済令)を発布した。皇族・寺社・摂関領などを例外として、全ての荘園年貢について、本所側と守護側武士(半済給付人という)とで均分することを永続的に認めるものであった。この法令により、守護は荘園・公領の半分の支配権を主張することとなり、各地で荘園・公領が分割され、守護の権益が拡大していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%B8%88
この前後、従来朝廷が行使していたさまざまな支配を、幕府が分担や肩替わりしてゆき、京都市政なども幕府侍所に握られてゆく。」(90)
⇒「1362<年>以降、幕政<が>安定に向かい、」1392年には南北朝合一がなった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
とはいえ、室町時代は戦乱がうち続くことになるわけですが、私見では、そういう事態になることを懸念したこともあって、摂関時代以来の日本政府における権威と権力の分立を止めて天皇親政を実現し、大陸に侵攻して元を討つことを目論んだ後醍醐天皇を排除して室町幕府が成立した以上、それは必然的な結果であった、と言わざるをえません。
そして、初期的仮説の段階にもかかわらずあえてここで書いておきますが、このことによって、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想が意図していた封建制・・それは、恐らく、西欧の封建制に極めて似通ったものだった・・が完成する前に、日本は、再中央集権制化過程に入ってしまうのです。
(鎌倉時代までは封建制化過程における許容範囲内の小戦乱時代、室町時代は再中央集権制化過程における許容範囲を超えた大戦乱時代、というのが、私のイメージです。)
なお、既に言及したことがあるように、この再中央集権制化過程を中途で凍結したのが、徳川家康だった、というわけです。(太田)
(続く)