太田述正コラム#11454(2020.8.5)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その24)>(2020.10.27公開)
「・・・一般的な中世武士の社会経済的実体は、在地領主といわれる。
彼らは農村を中心として自分の所領たる地域を支配する領主である。
発達した中世在地領主支配の構造を、所領・所職(しょしき)(職務に付随する権利)の内容面からモデル化すれば、(A)支配権がもっとも強力に貫徹する本拠としての屋敷地、(B)屋敷地周辺に広がる直営の田畠で、荘園領主や国衙への公事(くじ)・雑役(ぞうやく)(土地を対象とする租税・年貢にたいし人間を対象とする賦課、地域の産物や労働力など)<(注66)>の納入を免除された地、(C)さらにその外部に展開する郡・郷(ごう)・保<(注67)>(ほ)などの地域単位、という同心円的な二重構造が描ける・・・。
(注66)「鎌倉時代以後の荘園制下では雑税を意味する。公事と称したのは,それまでの田租が私 (荘園領主) 収入であったのが,公 (幕府) 収入と変ったことに伴う。荘園の賦課を大別すると,年貢 (所当) と公事に分けることができる。年貢は田租であり,令制の租にあたるのに対し,公事は調,庸,雑徭の系統をひくものである。公事はさらに夫役 (ぶやく) と雑公事 (ざつくじ) に区分できる。
夫役には,勤仕の期間によって長日夫役と日役夫役の区別があ<り、>・・・佃 (つくだ。荘園領主の直営地) の耕作に<も>あてられた。
一方,地頭,荘官以下の名主の収取する夫役もあった。彼らは給田のほか幕府や荘園領主から公事免または雑免 (ぞうめん) の地を獲得して,これを荘民の夫役によって経営する方法も講じた。雑公事には,主として地域的な特産物がこれにあてられ,それは 30種にも及んだ。したがって雑公事の種類に応じて賦課方式も異なり,日別公事,月別公事,反別公事などの区別があった。雑公事は元来現物納を原則としたが,次第に代銭納 (→銭納 ) に変り,公事銭,公用銭,公事役銭などと呼ばれた。荘園制の崩壊期には,田租も公事も大名領主の収入となっていった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E4%BA%8B-55178
「雑公事<は、>・・・本来は律令制の調,庸,雑徭 (よう) と同じように人頭税として名主の負担であったが,名田の面積,種類に応じて賦課することも多かった。ぬか,わら,むしろなど耕作の副産物,野菜,漆,紙,麻,綿,糸,絹のような日用の特産物をはじめ,正月や節供のための用品も含まれた。鎌倉時代以後,「…銭」という名で銭納化されるようにな<った。>」
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E5%85%AC%E4%BA%8B-69168
(注67)「平安後期から現れる所領単位。〈ほう〉とも読む。公領周辺の未墾地・荒廃地の開発申請に基づき,国守が認定して立保。申請者は保司(ほし)として官物(かんもつ)徴収権を与えられ,雑公事(ざつくじ)を得分とした。官物を国衙に納める国保(こくほ)と,中央官衙または権門勢家(けんもんせいか)に納める京保(きょうほ)がある。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%9D-131492
⇒なんともイメージが湧きません。
高橋には、具体的な例を、少なくとも一つ、示して欲しかったところです。(太田)
(A)の内部や(B)に居住する庶民が下人<(注68)>(げにん)・所従<(注69)>(しょじゅう)と呼ばれる人びとであり、一番支配力の弱い(C)には、自立した百姓・一般農民が在住するとともに、ほかの在地領主の同様の所領・・・も点在していた。
(注68)「奈良時代の奴婢(ぬひ)あるいは家人(けにん)に系譜を引くと言われる隷属民。時代により性格は変化し,同時期でも存在形態は一様ではなかった。平安時代においては寺家,貴族,武士,名主(みようしゆ)等に隷属する家内奴隷的存在で,農耕,雑役,軍役等に駆使された。所領田畠や家屋,家畜と同様に譲与,売買,質入れの対象とされたが,所従と異なり土地を給与されることはなかったようである。・・・
主人の屋敷内に住むのが普通であったが,中世後期には一戸を構えて自立経営を行うものも多くみられた。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E4%BA%BA-59818
「奴婢<は、>・・・古代の賤民(せんみん)。奴(やっこ)は男,婢(めやっこ)は女。律令制では官有の公(く)奴婢と民有の私奴婢に分け,前者は口分田(くぶんでん)を良民なみ,後者は口分田を良民の1/3とした。総数は良民の10%以下,後者が大半と推定される。10世紀ころにはほぼ解放。・・・
奴婢は所有者により資財と同様に扱われ、相続・贈与・売買され、牛馬と同様に、生まれた子は所有者のものとなり、また所有者を異にする奴婢の間に生まれた子は婢の所有者のものとなった。
所有者は奴婢に罪あれば届け出て殺すこともできた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A5%B4%E5%A9%A2-111011
「家人<は、>・・・主人の戸の成員として家口の一部をなし,良民の3分の1の口分田を班給され,不課口であり,相続の対象とされるなど,奴婢と共通の性質をもつが,家族をもつことができ,原則として売買が禁止され,主人は交代に家人を使役して家人に休養を与えるなど,奴婢より高い地位を示す面もあった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B6%E4%BA%BA-59817
(注69)「奈良時代の家人(けにん)に系譜を引くと言われる隷属民。寺僧,貴族,武士,上層百姓に従属して賦役雑事に従事した。所領,家屋,牛馬等と同様に財産の一つとして譲与,売買の対象となった。反面,自立農民としての性格ももち,主人より土地を給付されて農業に従事する者もあった。訴訟に際しては主人に従って,あるいは主人の代りに出廷したり,時には主人とともに原告の一人となったりすることさえあった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%89%80%E5%BE%93-80402
⇒「注68」において、日本では、奴婢ですら、「10世紀ころにはほぼ解放」された、とする説がある一方、中世前期までまだ「譲与,売買,質入れの対象とされた」人々がいたとする説もあるわけで、高橋は後者に拠っているようですが、その理由を記して欲しかったところです。
いずれにせよ、「注68」で、奴婢・家人の総数は良民の10%以下であったとしており、それが正しいとすれば、日本では、少なくとも奈良時代以降、奴隷的な人々は極めて少数なまま推移した、ということになりますね。(太田)
下人・所従は領主のイエに付属する財産視された世襲的従者で、主人に四六時中奉仕すべきものとされた。
主人が武士の場合、補助的な戦闘員や人夫として戦場にも出なければならない。
これにたいし百姓は在地領主に一反(たん)(1200平方メートル弱)あたり五升(約9リットル)程度の加徴米(かちょうまい)(国衙領・荘園で本来の租税・年貢に加えて徴収した米。租税・年貢は荘園領主や国衙に、加徴米が在地領主に納入された)を納めるという、比較的ゆるやかで自由度のある関係を基本にしていた。」(93~94)
(続く)