太田述正コラム#11458(2020.8.7)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その26)>(2020.10.29公開)
「中世の荘園公領制のもとでは、一つの耕地に複数の権利や負担が重なり合っていたが、太閤検地はこうした錯雑した状態を整理し、一片の耕地には一人の工作者とする一地一作人<(注73)>の制が実施された。
(注73)「太閤検地施行以前の荘園体制のもとにあって、土地所有・保有関係は一つの耕地に、荘園領主―名主(みょうしゅ)―作人―下作人など、各階層の収取権利が重なり合っていた。太閤検地は、この重層的な収取関係を「作合(さくあい)」(=中間搾取)否定政策を通じて排除した。たとえば、1587年・・・豊臣秀吉の奉行浅野長政が若狭国(福井県南西部)に公布した法令には次のように記されている。
一、おとな百姓として下作に申つけ、作あいを取り候儀無用ニ候、今まて作り仕(つかまつ)り候百姓直納仕るへき事
一、地下(じげ)之おとな百姓、又は荘官なとに一時も平之百姓つかわれましき事
この方針により、検地帳に書載された一筆ごとの耕地に現実の耕作者1名を登録し、彼に耕作権を保障して年貢負担の義務を負わせ、これまで名主やおとな百姓などが収取していた「作合」を排除した。これを一地一作人の原則という。
この結果、これまで長百姓(おとなびゃくしょう)に隷属していた零細な直接耕作者農民も年貢を負担する一人前の百姓とする小農民自立政策が推し進められ、領主と農民は耕地を媒介として単一の支配・隷属関係をもつようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%9C%B0%E4%B8%80%E4%BD%9C%E4%BA%BA-434373
「9世紀(平安時代中期)以降の日本の朝廷では、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること、すなわち昇殿を許されるかが身分制度として重要な意味を持つようになった。
昇殿を許された者・・・を殿上人と言うのに対し、許されない者を地下といった。・・・
地下は朝廷の位階や官職を持たない人を指す語としても使われた。14世紀頃から、庶民を指す語として地下や地下人の語が見られる。これは凡下や甲乙人とも重複する呼称で、「しもびと」にも相当する。特に荘園では、支配者側の地頭に対する立場として、名主や百姓を地下人と呼んだ。
また、戦国期の郷村においては有力層を指す「地下人」の呼称が存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E4%BA%BA
この結果、農民は自分の田畑の保有権を認められたが、同時に年貢負担と耕作への専念が義務づけられた。
百姓は、身分にともなう役として築城や兵糧運搬の労役を提供する義務も課せられる。
秀吉は、・・・1591<年>、朝鮮出兵にあたり軍役動員数決定の基準として全国の大名に、その両国の御前帳<(注74)>(ごぜんちょう)(国郡別に表高を記載した支配の基本帳簿)と郡絵図(こおりえず)(郡単位に描かれた絵図、国絵図(くにえず)とも)の提出を命じている。
(注74)「御前帳の作成は秀吉が関白のときに企図されたものであるが,<その次の関白となった>・・・秀次・・・によって<実施された。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%89%8D%E5%B8%B3-1166418
また同年のいわゆる「身分統制令」により、武家奉公人(足軽・中間・小者など、士と百姓の中間的存在)が町人や百姓に、百姓が商人・職人になることが禁じられた。
さらに翌・・・1592<年>人掃令<(注75)>(ひとばらいれい)が出て、職業別に戸数・人数を調査・確定する全国的な戸口調査がおこわれる。
(注75)「六十六か国人掃令、家数人数改(いえかずにんずうあらため)ともいう。朝鮮侵略の遂行のため、豊臣(とよとみ)政権が関白秀次(ひでつぐ)の名で日本全国に出した緊急の戸口調査令。伝存するのは地方の施行細則や実施例だけで、基本法令そのものは知られない。発令と実施は1592年(天正20)春とみられ、その細則は、村落の家数・人数を領主・給人単位で、村ごと・家ごとに、身分(出家、社家、奉公人、職人、町人、百姓など)別に、男・女を分け、老人・子供を区別して調査し、「家数人数帳」にまとめ、村代表の起請文(きしょうもん)=誓約書を添えて提出すべしというものであり、帳簿と起請文の雛型(ひながた)も示された。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E6%8E%83%E4%BB%A4-1198789
これも同年から始まる朝鮮での戦争を遂行するための労役人夫確保を目的にしていた。
秀吉政権が発した諸政策によって、支配身分としての武士(兵)と、被支配身分としての百姓(農など)が区別され、武士が他のすべての者を支配する体制が始まった。
これが兵農分離<(注76)>である・・・」(100~101)
(注76)「太閤検地は・・・武士と農民の関係を次のように整理した。第一に、武士は農業生産そのものに直接かかわることなく、個々の武士が個々の農民を個別的に支配することはしない。第二に、武士は農村から離れて城下町に集住し、支配階級としてまとまり、農民から連帯責任制などの経済外強制を通じて、米を中心とした生産物地代を搾取する(米納(べいのう)年貢制)。第三に、年貢米(生産物地代)を取り立てた大名は商人を通じてそれを換金し、必需物資を購入したり、家臣団の維持費を捻出する。以上の体制全体を兵農分離という。
次に兵農分離が貫徹される過程をみると、兵農分離は畿内・近国における惣村(そうむら)や在地領主制の解体によって体制化された。畿内・近国では、生産諸力の先進性を基礎とし、長百姓、有力名主、地侍などとよばれる小領主層の手作(てづくり)経営地が縮小し、それにかわって、平(ひら)百姓の自立化に基づく請作経営地が広まった。これにより、小領主層は、事実上生産過程から遊離し、小農生産に寄生するようになる(加地子(かじし)領主化)。豊臣秀吉はこれら小領主層の農民支配権を奪い、彼らを家臣団に組み入れ、武士身分として確定した。この方式を秀吉は太閤検地の全国的施行のなかで推し進めた。これに対し、九州や東北では、在地領主層が農民支配の特権を奪われることに反対し、配下の農民まで率いて一揆を起こすこともあった。秀吉はこれを鎮圧するとともに、1588年・・・刀狩令を出し、農民の武器所持を禁じ、農民は農業に専念すべきものとした。かくて武士と農工商身分は分離され、身分間の移動は禁止されることとなった。それとともに秀吉は、国内統一戦争と朝鮮侵略を通じ、長期長途の戦いに耐えうる兵農分離した武士団の創出を諸大名の領国に強制した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%B5%E8%BE%B2%E5%88%86%E9%9B%A2-129004
⇒「侵略」という言葉はさておき、秀吉自身は「唐入り」と称していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
というのに、それがどうして「「朝鮮」侵略」なのでしょうね。
とまれ、兵農分離に繋がった一連の秀吉の施策が、唐入りのための兵力、人員、資金を、(私見では中央集権的に)確保するためのものであった的な高橋の指摘は、現在の通説なのでしょうが、改めて秀吉の唐入りにかける意気込みの強烈さが伝わってくる、というものです。(太田)
(続く)