太田述正コラム#11460(2020.8.8)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その27)>(2020.10.30公開)
「・・・秀吉は政権成立当初より農民の「喧嘩(自力救済)」を停止する法令<(注77)>を出した。
(注77)「豊臣秀吉が制定した喧嘩停止令<(けんかちょうじれい)>は、様々な文献からの「判例」という形で、そうした法令が存在していた事実を示すに留まっており、具体的にどのような法令でいつ制定されたのかに関しての詳細はわかっていない。こうした判例が用いられた最も古いものは1587年・・・の春であり、1588年・・・に制定された刀狩令や海賊停止令よりも前に成立していた可能性がある。
秀吉の刀狩令には全ての農民の武器を没収することが表明されていたが、実際には武器の所持を禁じたというよりも帯刀権や武装権の規制という形が主で、村々には多くの武器が留保されていた。武力を行使した騒乱の可能性は内在したままであり、そうした前提のもとに騒乱を禁止する目的法として喧嘩停止令が制定されていたと考えられている。
徳川秀忠の喧嘩停止令が制定されたのは1610年・・・2月で、・・・秀吉の喧嘩停止令を成文法として継承したものであったと考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%A7%E5%98%A9%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
刀狩<(注78)>り令はそれに連動する措置で、村と百姓が武装権(帯刀と人を殺す権利)を行使することを禁じたものだった。
(注78)「僧侶や農民の保有する武器を没収すること。鎌倉時代,すでにその記事がある。・・・1228・・・年,北条泰時が高野山僧侶の乱行停止のために行なったのが初見。戦国時代には諸大名によって行われ,・・・1576・・・年には柴田勝家が加賀で,同・・・<1585>年には豊臣秀吉が高野山や多武峰 (とうのみね) など寺院の武装解除のために実施している。最も著名なのは,・・・<1588>年7月の刀狩令で,諸国百姓の「刀,脇差,弓,やり,てつはう」などを,京都東山方広寺の大仏殿建立のための釘,かすがいに用いると称して没収した。・・・
<これは、>数年間にわたって、陸奥から薩摩・・・まで広く実施され、朝鮮侵略のための武器調達も行われたとみられる。・・・しかし、刀狩の実施には多くの例外措置が講じられていた。「町人、田畠作り申さず候者には、人指しにて、以来は刀・わきざし御もたせあるべき」として、特定の町人には刀の所持を許し、また「神事の時ばかり、かし遣わされ候様に」といい、武器ではなく祭器として保管することを許可したり、「しし(鹿・猪)おおく候あいだ、則(すなわち)やり十本ゆるし置」といい、害獣駆除の農具として村ごとに免許したり、治安の状況によっても認可した。すなわち、大名による免許制の形をとりながら、さまざまの名目で、農村や民衆の間に刀や脇指・鉄砲をはじめ多数の武器の保有が公認された。
このように、原則として被支配階級の武器所持を禁止したうえで展開される、帯刀を中心とした広範な身分別・用途別の武器所持の免許制のあり方こそは、身分法令としての刀狩令の特質をよく現している。」
https://kotobank.jp/word/%E5%88%80%E7%8B%A9-44956
また、帯刀(携帯)権を原則として武士だけに限った。
もちろん、刀狩令の「本心は(百姓の)一揆を停止するため」(『多聞院(たもんいん)日記<(注79)>』天正16年7月17日条)という面は重要である。・・・」(108)
(注79)「奈良興福寺の学侶<の>多聞院英俊(えいしゅん)らの日記。原本は散逸したが、興福寺所蔵四十六巻本など多くの写本が現存する。1478年(文明10)から1618年(元和4)にわたるが、『文明(ぶんめい)十年記』『文明十五、十六、十七年記』は学賢房宗芸(がっけんぼうそうげい)、『天正八、九、十年記』は妙喜院宗英(みょうきいんそうえい)の別会五師方記(べちえごしかたき)であり、『永正(えいしょう)二、三年記』など筆者不明の部分もある。主要部分は英俊の日記で、1534年(天文3)から96年(慶長1)にわたっている。内容は、興福寺内外の情勢を中心として、大和、山城などの事件にまで及んでおり、中世から近世に至る転換期の重要史料である。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E8%81%9E%E9%99%A2%E6%97%A5%E8%A8%98-94466
英俊(1518~1596年)は、「大和の豪族で興福寺大乗院方坊人の十市氏の一族として・・・生まれた。・・・唯識<等の>・・・学問を修めて多聞院主となり、法印権大僧都に昇進。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%BF%8A
坊人(ぼうじん)は、「門跡・院家の院主に奉公し、その法門に門徒として属する僧侶。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9D%8A%E4%BA%BA-2081876
「大和では永享大和合戦以降は戦国乱世に突入したといえる<が、>北大和の筒井氏,古市氏,南大和の十市氏,越智氏が四強といわれ,衆徒・国民らが国衆(くにしゆう)として大小名化を競ったが,平和要望の郷村にその活動は制約され,いぜん社寺の領主的権威にすがって保身をはかったため,強力な戦国大名は出現しない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E5%B8%82%E6%B0%8F-1377723
⇒喧嘩停止や刀狩は、鎌倉時代から、僧侶に対するものから始まり、それが農民にまで及ぼされた、ということのようですね。
また、徳川幕府は、中央集権化を目指したところの、豊臣政権、のあらゆる施策について、その到達点を、その方向性は無視して凍結した形で継承した、という印象を改めて持ちます。(太田)
(続く)