太田述正コラム#11462(2020.8.9)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その28)>(2020.10.31公開)

 「・・・<江戸時代の>大名の支配する領域とその支配機構を藩<(注80)>と呼ぶ。

 (注80)「当時の江戸幕府は、大名領は領分(りょうぶん)、大名に仕える者や大名領の支配組織は家中(かちゅう)などの呼称が用いられていた。いずれも、その前に大名の苗字もしくは拠点(城・陣屋所在地)とする地域名を冠して呼んだ。・・・
 幕府からの命令は藩主個人名(例えば長州藩の場合は「松平大膳大夫殿」)に宛てて出されており、各藩側も自藩と他藩の区別さえできれば良かったので「当家」「他家」などの呼称で十分だったと考えられている。藩士についても「○○藩士」とは呼ばれず、例えば「仙台藩士」であれば公的には「松平陸奥守家来」と称された。また、「藩主」よりも封地名に「侯」をつけて呼び現されることが多かった。例えば「仙台侯」、「尾張侯」、「姫路侯」といった具合である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9
 「江戸幕府開府以降、徳川氏は松平氏と血縁関係のない有力大名にも松平の名字を名乗る許可を与えた。これらの大名は公的な場では松平姓を名乗り、本来の名字は使用しなかった。ただし、松平姓を名乗ったのは当主と将軍家への披露が済み、叙位任官を受けた世子に限られ、披露前の世子や一族は本来の名字もしくは別の名字を名乗った。慶応4年の新政府命令により、これらの一族は本姓に復した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F

 しかし藩は公称ではなく<(注81)>、将軍が大名にたいして所領を宛行う文書を領知朱印状<(注83)>というように、当時は「領知」と呼ばれていた。<(注82)>

 (注81)「「藩」の名は幕府による公称ではなく,江戸時代中期頃に漢学者が<支那>,周の封建制度になぞらえて大名を藩屏 (はんぺい) としたことに由来する。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A9-117798
 (注82)「当時の大名領は〈領知〉あるいは〈知行所〉とよばれ<た。>」(上掲)
 「大名の所領を領知,旗本・御家人の所領を知行所と呼んで区別した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%A0%98%E7%9F%A5-659432
 (注83)「領知朱印状(りょうちしゅいんじょう)とは、江戸時代において将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給する朱印状のことである。
 徳川家康・秀忠の時代には黒印状で所領安堵が行われる事例があるなど書式が不定であったが、徳川家綱の時代に所領に関する書札礼が確立されるようになる。家綱の時代に行われた。寛文印知以後は将軍の代替わりの際に出されるのが慣例となり、これを継目安堵(つぎめあんど)と称した。それ以外にも所領の安堵・寄進・加増・転封・村替など所領の内容に変更が生じた際に発給された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%98%E7%9F%A5%E6%9C%B1%E5%8D%B0%E7%8A%B6
 「日本において(花押の代わりに)朱印が押された公的文書・・・のことである・・・印判状は<、>朱印状・黒印状ともに幼少で花押を記すことが困難であった今川氏親が[、1487年に、]発給文書に[黒印状を]用いたのが最初と言われている。最古の朱印状は・・・1512年・・・に氏親が<、>西光寺の棟別銭を免除するために発給した文書である。以後、印判状<が>織田氏・武田氏・上杉氏・北条氏・里見氏など東国の有力戦国大名の間で用いられ<るようになっ>た。
 <そして、>印判状は民政・軍事両面で多くの公文書発給に迫られた大名領国制の元で花押署記の手間を省く手段として用いられ<ることとなっ>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%8D%B0%E7%8A%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%8D%B0%E7%8A%B6 ([]内)
 「日本において印章が本格的に使われるようになったのは、大化の改新の後、701年の大宝律令の制定とともに官印が導入されてからであると考えられる。・・・律令制度下では公文書の一面に公印が押されており、奈良時代に勃発した藤原仲麻呂の乱では双方で印の確保や奪回が行われるほどであったが、次第に簡略化されるようになり、平安時代後期から鎌倉時代にかけては花押(意匠化された署名)に取って代わられた。しかしながら、室町時代になると宋から来た禅宗の僧侶たちを通じ、書画に用いる用途で再び印章を使う習慣が復活することとなり、武家社会へと伝播していく。戦国時代には花押にかかる手間を簡略化するため、大名の間で文書を保証する用途に、略式の署名として印章が使われるようになる(織田信長の「天下布武」の印など)。
 江戸時代には行政上の書類のほか私文書にも印を押す慣習が広がるとともに、実印を登録させるための印鑑帳が作られるようになり。これが後の印鑑登録制度の起源となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E7%AB%A0

 藩の語が行政単位として公式に使用されたのは、明治元年(1868)、維新政府が旧大名領を藩と呼んだ時から、三年後の廃藩置県までの短い期間である。・・・
 <ところで、江戸時代における>蔵米知行への移行は、武士の城下への集住と同じく、確乎たる政策的意図をもって推進された結果かどうかわからない。
 というのは、徳川の初期三代と五代の綱吉将軍の期間、多くの大名が改易された。
 改易は、士分以上の者の籍を除き、その知行・俸禄・家屋敷を没収することをいう。
 ほかに減封、転封(てんぽう)(国替(くにがえ)、移封(いほう)とも)、役の召放(めしはなち)などもおこなわれた。
 この結果多くの武士が知行を失い、また度重なる転封によって、もともとの本拠との関係を失い、新たな地で地方知行を再建できなかったからである。」(107、110)

⇒「確乎たる政策的意図をもって推進された結果かどうかわからない」のは、徳川幕府の諸「施策」全般について言えるような気がします。
 にもかかわらず、例えば、大量改易「施策」の結果、日本全体として、中央集権化が若干なりとも進展した、というところが面白いですね。(太田)

(続く)