太田述正コラム#1188(2006.4.17)
<裁判雑記(その5)>
この種の思いこみ、または勘違い、記憶違いは、もしくはミスプリは、人間にはつきものであって、完全に排除することは不可能だ。
本や雑誌の場合、時間的余裕があるので、何度も校正等を行うことによって、このようなミスを発見し是正することが相当程度できるし、新聞やTV・ラジオの場合なら、時間的余裕がなくても、複数の人間がチェックすることでこのような誤りを発見・是正することがある程度はできる。
しかし、私のように、たった一人で、現在では毎日おおむね二篇弱のコラムを執筆・上梓し、コラム#195当時でも既におおむね毎日一篇のコラムを執筆・上梓しているような場合、最低一度は読み返すものの、ミスを発見・是正することは容易ではない。
(もとより、ミスを読者から指摘されれば、ネット掲載文書の性質上すみやかに、遡って訂正したり、訂正文を上梓する形で対応することが可能であるし、実際そうしてきたところだ。しかし、コラム#195については、上梓以来、二年半弱の間、創価学会員云々についてはもとより、いかなるミスの指摘もなく、読み返したことすら一度もなかった。)
よってこれだけでも、コラム#195に係る私の思いこみによるミスには、不法行為を成立させるような故意過失はなかった、と言えそうだ。
より重要なのは以下の点だ。
私が典拠とした本の主旨が、第一に、原告らに「警察官<等>としての職務能力、中立性、忠実性などを疑わせる」(訴状より)作為不作為があったことを指摘するとともに、第二に、原告らの作為不作為の陰に創価学会ないし創価学会員の姿が見え隠れしていることを示唆するところにあることは、私が既に引用した箇所からだけでも明らかであろう。
そうである以上、私によるこの本の要約紹介は、部分的にミスはあったものの、本の主旨に基本的に沿ったものであったと言えよう。
よって、私のミスには、不法行為を成立させるような故意過失はなかった、と考える。
5 真の論点
以上、この裁判に関し、名誉毀損に係る一般論と、私が典拠とした本の要約紹介に係る問題とを記してきたが、この裁判の真の論点は、この本が記述するところの、原告らに「警察官<等>としての職務能力、中立性、忠実性などを疑わせる」(訴状より)作為不作為があったとの指摘、を私がコラムで紹介したことが、「原告の職務遂行についての社会的評価をいたく低下せしめた」(同じく訴状より)かどうかであろう。
結論的に言えば、ノーだ。
1995年9月に朝木市議転落死事件が起こって以来、私が典拠とした本が出版され、これを受けて私がコラム#195を上梓した2003年11月までの8年余だけをとっても、この本に言及されているだけで、TBSの『ニュースの森』(1995年10月)(190頁)、米『タイム』誌(95年11月20日号)(196頁)、『週刊新潮』(96年4月26日号)(203頁)、『月刊宝石』(95年9月号)(217頁)、『週刊朝日』(217頁)、『週刊現代』(95年9月23日号)(244頁)が、この本と同じ主旨で転落死事件(と万引き事件)を報じているほか、95年11月7日の前出の衆院での質疑応答があり、2002年3月28日には、原告の言い分に沿った記事を掲載した『潮』(95年11月号)をめぐる、前出の裁判の東京地裁判決が出ている。
その上、1996年5月には、私が典拠とした本とほとんど瓜二つと言ってよい、これまた前出の乙骨正生「怪死―東村女性市議転落死事件」(教育史料出版会)が出版されている。(この本の253頁から、前出の『文藝春秋』が、1995年11月号であるらしいこと、及び、この『文藝春秋』掲載の記事も、私が典拠とした本と同じ主旨の記事であったことが分かる。)
現在調査中だが、当然1995年9月以降、ネット上でも盛んに本事件が取り上げられ、その多くが、私が典拠とした本と同じ主旨のものであったであろうことは、想像に難くない。
つまり、「原告らに「警察官<等>としての職務能力、中立性、忠実性などを疑わせる」・・作為不作為があったとの指摘」は、あらゆるところでなされてきており、2003年11月時点では、既に公知の事実になっており、「原告<等>の職務遂行についての社会的評価<は既に>いたく低下せしめ<られてい>た」、と言うべきだ。
そうである以上、私のコラム#195は、単に、既に公知の事実となっていたところの、「原告らに「警察官<等>としての職務能力、中立性、忠実性などを疑わせる」・・作為不作為があったとの指摘」を行う媒体がもう一つ新たに出現した(出版された)ことをネット上で知らしめた、というだけの意味しかないのであって、「原告の職務遂行についての社会的評価をいたく低下せしめた」ことなど、全くないと言うほかない。
裁判雑記(その5)
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