太田述正コラム#11468(2020.8.12)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その31)>(2020.11.3公開)

 「・・・中央の権力者が、<1551>年前後、泉州堺・・・から鉄炮を入手し、南九州にも鉄炮が伝わった形跡があるので、種子島<の1543年>だけを鉄炮伝来の窓口とするには無理がある。

⇒現在でも1543年説が定説であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E7%82%AE%E8%A8%98
具体的な典拠を挙げずに高橋がこのような主張を行うのには「無理がある」と言わざるをえません。
 それはさておき、「鉄砲」に「鉄炮」という表記があり、「種子島久時が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(玄昌)に編纂させた、鉄砲伝来に関わる歴史書である・・・『鉄炮記』」(上掲)の表記がそうなっていたとは知りませんでした。(太田)

 西洋人が日本に伝えたとされるが、実際は当時東アジアの海域に活動した中国人倭寇の役割が大きいようだ。
 鉄炮が日本各地に広まったのは、それを愛好した第12代将軍足利義晴<(注89)>(よしはる)が贈答品として大名らに賜与したのと、職業的な炮術師(ほうじゅつし)が各地を渡り歩き、鉄炮の運用技術を教授して廻ったからである。

 (注89)1511~50年。将軍:1521~46年。「1546年・・・12月19日に嫡男・・・を元服させて・・・、翌20日には義輝に将軍職を譲った・・・
 普及し始めたばかりの鉄砲対策のため、城の防壁に石や砂利を敷き詰めるよう義晴自ら指示したといわれる・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%99%B4

⇒本筋を離れますが、足利義輝は、「1554年・・・には大友氏から鉄砲と火薬の秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れたり、・・・1560年・・・にはガスパル・ヴィレラにキリスト教の布教を許している。・・・1565年・・・、正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D
というのは、当時の武家筆頭の足利将軍家の義晴・義輝親子が、最新かつ強力な武器である鉄砲に強い関心を示すと共に、義輝が(恐らく)鉄砲を含む欧州由来の新技術等への関心からイエズス会に好意的に接したのに対し、天皇家は、神仏習合教の総勧進元として、キリスト教なる神仏習合教の敵、と、その背後にある欧州の東漸、に対して拒絶反応を示した、という構図ですね。(太田)

 鉄炮伝来の結果、ただちに戦闘技術と城郭の構造が一変したという軍事一辺倒の説があるけれど、初期の砲術秘伝書のなかには鳥獣への射法の記載がすこぶる多い。
 これは伝来後、鉄炮がまず狩猟の道具として広まったことを示している。<(注90)>・・・

 (注90)「狩猟は木材生産・製材や鉱山経営、炭焼きなど山の諸生業のひとつとして行われていた一方で、動物資源の利用だけでなく畑作物への獣害対策としても行われた。東日本では鉄砲(火縄銃)を用いた害獣駆除を目的とした狩猟が実施されていた。また、東北地方では職業として狩猟を行う人々はマタギと呼ばれ、独特の習俗があった。・・・中世や近世の日本における農民にとって鉄砲は農具であり、農耕と狩猟は密接な関係があったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E7%8C%9F

⇒このくだり、高橋には最低限の典拠を付して欲しかったですし、「注90」のウィキペディア執筆者には、16世紀末は中世かよ、と言いたいですね。(太田)

 紀州の根来・雑賀・・・ではいわゆる僧兵・地侍らが大量の鉄炮を装備し、傭兵として畿内諸国を転戦した。<(注91)>

 (注91)「根来衆<は、>・・・紀伊国北部の[新義真言宗<(コラム#11314)>の]根来寺を中心とする一帯・・・に居住した僧兵たちの集団である。雑賀衆と同様に鉄砲で武装しており、傭兵集団としても活躍した。・・・
 根来衆は信長には好意的で、信長の紀州征伐にも加勢し、京都御馬揃えにも参加していた。
 しかし信長の死後、小牧・長久手の戦いでは雑賀衆と共に大坂を攻め豊臣秀吉の心胆を寒からしめた。戦後<に>秀吉による紀州征伐・・・が起こり、・・・抵抗した<が、>・・・伊勢に逃れ、徳川家康に従い、・・・根来組同心として内藤新宿に配置される。関ヶ原の戦いの際<も>・・・活躍する。
 また、根来寺岩室坊院主であった田中一族は、・・・1600年・・・頃安芸の毛利氏家臣となり、「根来氏」を称して、長州藩士として続いた。末裔に幕末の家老職であった根来親祐やその子根来親保がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9D%A5%E8%A1%86
 「根来衆に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する。・・・
 <彼らは、>水軍も擁していたようである。・・・
 秀吉<の>・・・紀州征伐<で敗れると、>・・・滅びた土豪勢力として帰農したり、各地に散らばって鉄砲の技術をもって大名に仕え、集団としては歴史から消滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%B3%80%E8%A1%86 ([]内も)

 鉄炮は秀吉の朝鮮出兵時の主力兵器として威力を発揮し、大坂の陣の頃、技術的に頂点を極める。」(140~141)

⇒種子島への鉄砲伝来当時の現地の領主の種子島時堯の主君は島津貴久(1514~1571年)で、それを継いだのが貴久の子の義久(1533~1611年)ですが、当然、真っ先に鉄砲の情報を入手し、戦争の際にも鉄砲を導入して使っていたはずではあるものの、この二人の事績に、直接鉄砲を巡るものが見当たらない・・義久の場合、継室が時堯の娘でさえある・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
のが不思議と言えば不思議です。
 (義久の弟の義弘の関ヶ原の戦いの際の撤退戦は有名であるところ、兵員が少なかったこともあって、鉄砲隊はいなかったようですが・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98 )(太田)

(続く)