太田述正コラム#11474(2020.8.15)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その34)>(2020.11.6公開)
「・・・四代将軍家綱の頃から、幕藩政治がいわゆる武断政治から文治政治へと転換した。<(注98)>
(注98)「文治政治<は、>・・・語句としては古く《礼記(らいき)》にも見えるが,日本ではとくに・・・江戸中期,4代将軍徳川家綱から5代綱吉・6代家宣 ・7代家継までの儒教的徳治主義に基づいた幕府の政治体制<を指す。>幕府創設期の武力を背景に大名らを制圧する武断政治に対する語。家綱の襲職は1651年で,すでに関ケ原の戦いから50年が経過し,世代の交代で戦国の遺風も薄れ,武士も文官的要素が重んじられるなど時代の転換期を迎えていた。このような中で新生活倫理として儒教の徳治主義が登場,武断政治で強化された将軍権力を文治政治の権威づけでいっそう高揚することになった。慶安事件後の処置として牢人の再就職斡旋をとりあげ,末期 (まつご) 養子の禁を緩和している。大名の改易が激減し,殉死を禁じたのもその現れである。綱吉も儒学奨励策で将軍の権威づけにつとめ,家宣・家継の正徳の治では新井白石が参政,最高潮に達したが,形式主義に陥り8代吉宗の享保の改革で武断的傾向に復帰した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E6%B2%BB%E6%94%BF%E6%B2%BB-623430
文治政治とは、幕府の支配と身分制秩序を、法令や制度の整備、儀礼の尊重、人民教化の重視などにより維持しようとする政治をいう。
家綱をうけた五代将軍綱吉の時代になると、幕藩体制の基礎も固まった。
綱吉は、・・・1683<年>、代初めの武家諸法度を発し、第一条でそれまで「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」とされていたものを、「文武忠孝を励(はげま)し、礼儀を正すべき事」に改めている。
綱吉は、武功によって上昇を図ろうとする戦国時代以来の武士の論理と価値観を、社会全体から追放しようとしていた。
それで出されたのが、犬だけでなく生あるもの全般の殺生を禁じた生類憐みの令<(注99)>(1687年から1708年までくり返し発令)、それと裏表の関係にある死を忌み嫌い、血のケガレを避ける服忌令<(注100)>(ぶっきれい)(1684年発令、これも何度も追加補充令が出た)である。
(注99)「1682年・・・犬の虐殺者を死刑に処したのに始まり、85年・・・馬の愛護令を発して以来、法令が頻発された。綱吉の意図は社会に仁愛の精神を養うことにあったが(1694年・・・10月10日訓令)、将軍の強大な権威に迎合する諸役人によって著しく増幅され、また綱吉生母桂昌院が帰依した僧隆光が、戌(いぬ)年生まれの綱吉に男子が育たないのに関して犬の愛護を勧めてから、いっそう極端に走り、人民を悩ます虐政へと発展した。愛護の対象は犬馬牛に限らず、・・・在村の鉄砲を統制<する目的もあって、>・・・鳥獣にも及んだ。鶏をとった猫を殺した者、うたた寝中体に駆け上がった鼠を傷つけた者などが入牢させられ、釣り舟の禁止、蛇使いなど生き物の芸を見せ物にすること、さらには生鳥や亀の飼育が禁ぜられ、金魚は藤沢遊行寺(ゆぎょうじ)(清浄光寺(しょうじょうこうじ))の池に放たしめられた。1695年・・・には江戸郊外の中野に16万坪の土地を囲って野犬を収容し、その数は最高時4万2000頭に達し、費用も年間3万6000両、これは江戸や関東の村々の負担となった。1709年・・・綱吉死去に際し、この令のみは死後も遵守せよと遺言したが、6代将軍家宣はこれを廃止した。」
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(注100)「近親の死に際して喪に服すべき期間を定めた法。ほかに触穢(しよくえ)に関する規定も付されていることが多い。服忌令と称するものは,中世伊勢神宮その他の神社で作成されたのが初めであるが,それらは基本的には喪葬令服紀条と仮寧(けによう)令を組み合わせ,喪に服するものが与えられる休暇たる仮(か)を,死穢を忌む期間としての忌に変えたものであった。江戸幕府では,これらをもとにして5代将軍徳川綱吉の1684年<、>・・・儒者林鳳岡(ほうこう),木下順庵,神道家吉川惟足(これたり)らの参画の下に,服忌令を制定公布,その後数次の改正の後,1736年・・・最終的に確定した・・・
忌の期間中は門を閉じて出仕せず、魚肉を食べず、髭髪をそらず、神社への参詣をやめるなどした。」
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「幕府は、・・・一定の範囲の親族・・・を・・・基本的な親族・・・と認め、かつそれらの間に服忌の日<数>の差を設けることにより、親族間の<関>係をも秩序づけたのである。・・・
服忌令は、・・・江戸幕府の統治方針たる儒教的支配の一つのあらわれでもあって、その<点>でも重要な意味をもつものである・・・。」(林由紀子「服忌書の成立と系統」より)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalha1951/1967/17/1967_17_75/_pdf
林由紀子(1937年~)は、早大文(社会)卒、同大修士(法)。松山東雲女大助教授、愛知女短大教授。
https://books.google.co.jp/books?id=NMc4AAAAIAAJ&q=%E6%9E%97%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%AD%90;%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%AD%A6&dq=%E6%9E%97%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%AD%90;%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%AD%A6&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi21J6JlZrrAhVJc3AKHaF7Af4Q6AEwB3oECAcQAg
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後者は戦場において討ち取った敵将の首を前に論功行賞をした武家の社会には、本来存在しなかったものだった。」(151~152)
⇒高橋は「本来存在しなかった」という説を唱えている・・という説に拠っている?・・わけですが、「神龍院梵舜から豊臣秀頼、徳川家康、金地院崇伝に「神祇道服忌令」が贈られていること、これにもとづいて金地院崇伝が本多正純、酒井忠世らに服忌に関する指示を出していることから、<武断政治の>家康から家光までの<服忌の>期間は「神祇道服忌令」による服忌制度が用いられていたが、<文治政治の>家綱から綱吉までの間の服忌日数はそれとは異なっていることなどから、その間には神祇道服忌令ではなく「天海系服忌令」が用いられていた」とする研究結果もある
http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/105233/S18817165-332-P121-TAN.pdf
こと、かつまた、そもそも、武士が喪に服すのは(味方である)親族や主君筋の死の際であって、(首実験の対象になるような)非親族や味方ではない親族の死の際には服さなかった、と考えられること、から、高橋のこの説は誤りではないでしょうか。(太田)
(続く)