太田述正コラム#11484(2020.8.20)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その39)>(2020.11.11公開)
「このように鎌倉幕府にあっては、降人は直ちに処刑せず、多くは関係者に身柄を預けておき、審査の結果を待って許したり、流罪などの処分にとどめたりしている。
そもそも中世の武士は「弓馬に携わる者が、敵のために虜(とりこ)になるのは、必ずしも恥辱ではない」(『吾妻鏡』寿永3<(1184)>年28日条)「運が尽きて囚人となることは勇士の常である」(同文治5<(1189)>年9月7日条)などと主張しており、よく戦った上で捕虜となるのを恥とは考えていなかった。
だから『平家物語』は、一ノ谷の合戦で、平家の侍大将平盛俊<(注110)>が、組み敷いた源氏の猪俣則綱<(注111)>(いのまたのりつね)の「見苦しいですぞ、降人の首を取るということがあるものですか」との苦し紛れの言葉に惑わされて助命したため、隙を突かれてかえって首を取られた、という話を載せているほどである(巻九)。」(106~107)
(注110)?~1184年。「伊勢平氏に連なる有力家人<で、>・・・剛力の持ち主として有名で、平清盛の政所別当を務めるなど実務にも長じていた・・・。・・・<清盛死後>は宗盛の家人<となる。>・・・
<彼に>首を斬られかかった範綱は、盛俊の名を尋ね聞いてさらに「命を助けてくれるなら、貴方の一族を自分の恩賞と引き換えに助けよう」と命乞いを始める。それに盛俊は怒り「盛俊は不肖なりとも平家の一門、源氏を頼ろうとは思わない」と範綱の首に刃を立てようとしたところ、範綱に「降伏した者の首を掻くのか」と言われて、押さえ込んでいた範綱を放してやる。二人があぜ道に腰を下ろしていると、人見の四郎という源氏方の武者が駆け寄って来て、それに気をとられた盛俊は範綱に不意に胸を突かれて深い田んぼの中に倒されてしまう。泥濘で身体の自由が利かない盛俊は、このような騙し討ちによって範綱に首を取られてしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E4%BF%8A
(注111)?~1192年。「小野篁の末裔を称す<る>・・・猪俣党の頭領であり、四代の子孫である。保元の乱で源義朝に仕え、平治の乱では源義平の下で軍功をあげた十七騎の雄将として知られている。また源頼朝・源義経にも仕え<た。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E4%BF%A3%E5%85%9A
「小野氏<は、>・・・孝昭天皇の皇子である天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)を祖とする和珥氏の枝氏である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B0%8F
「孝昭天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87
「<盛俊の父親の>平盛国<は、>・・・1185年・・・3月の壇ノ浦の戦いで平家一門が滅ぼされると、捕虜となって宗盛と共に鎌倉に送られた。源頼朝は盛国の一命を助けて岡崎義実の元にその身柄を預けた。
その後、盛国は日夜一言も発する事なく法華経に向かい、飲食を一切絶って・・・1186年・・・7月25日、餓死によって自害した。享年74。頼朝はこの盛国の態度を称賛したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E5%9B%BD
⇒私の見立てでは、高橋も拠っているところの、鎌倉幕府1185年成立説に立った場合、猪俣則綱が平盛俊を「討ち取った」のは、幕府成立前の1184年ではあるけれど、猪俣則綱は既に源頼朝と封建契約関係にあったのに対し、平盛俊は平宗盛と私的雇用関係にあったという立場の微妙な違いこそあれ、捕虜の処分の権限は、それぞれ、頼朝と宗盛にあったという点では同じような立場であり、平盛俊について言えば猪俣則綱が捕虜になるとの宣言を行った以上、自分で処分することを躊躇したのに対し、猪俣則綱がウソを平然とついて平盛俊をだまし討ちしたのは、自分は、治天の君である後白河法皇の院宣を受けたところの、(自分が封建契約を結んだ)頼朝の命令を受けて、「犯罪」集団たる平家の討伐を行っているという意識があり、討伐目的に資する暴力を行使することが認められている以上、当然、討伐目的に資するウソをつくことも許されているという意識があった、ということでしょう。
『吾妻鏡』の記述、とりわけ、「事実」以外に係る記述、を鵜呑みにするのは、推測されるその執筆目的が執筆目的だけに(注112)、常に危険である、ということです。(太田)
(注112)「『吾妻鏡』は鎌倉幕府の正史ではなく、・・・「源氏に厳しく北条に甘い」という特徴を持つ。」
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=128 (山内昌之「「吾妻鏡」は鎌倉幕府の正史ではない 吾妻鏡(2)その執筆の意図を探る」より)
(続く)
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太田述正コラム#11650(2020.11.11)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その32)>
→非公開