太田述正コラム#11488(2020.8.22)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その41)>(2020.11.13公開)

 「・・・中世・戦国期<の>・・・軍師<(注117)>とは、・・・陰陽師に近い存在なのである。・・・

 (注117)「日本では、中世に軍師と呼ばれる人々が現れたとされるが、中世に軍師という呼称やそれに相当する役職はなく、実際に存在したのは陰陽道の影響を受けた占星術、易などの占術を学び、合戦における縁起担ぎを取り計らう軍配者であったと言われる。戦国時代が終焉して江戸時代に入ると、太平の時代風潮からかえって戦国大名が戦場で用いた戦法を研究する学問として軍学が生まれ、軍学者によって甲斐国の武田信玄に仕えた山本勘助、越後国の上杉謙信に仕えた宇佐美駿河守定行、駿河国の今川義元に仕えた太原雪斎、豊後国の大友宗麟に仕えた立花道雪などの伝説的な武将が軍学の始祖として称揚された結果、戦国大名家には軍師の職制が存在し、彼らが実際に活躍した軍師であると信じられるようになった。
 また、江戸時代には戦国時代の合戦を取り上げる軍記物が数多く書かれて戦国大名に仕える名参謀たちが描かれ、さらに明治以降には軍記物が講談や歴史小説の題材に取り上げられて、豊臣秀吉の軍師竹中半兵衛などの軍師のイメージが一般に広まった。秀吉が竹中半兵衛を迎えるために七度彼の庵に通ったという有名な物語が劉備と諸葛亮の三顧の礼の逸話に基づくことが明らかであるように、日本の軍師のイメージは、多くは<支那>の歴史物語に範をとって江戸時代以降に作り出されたものであると言える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%B8%AB

⇒ここは、高橋、まんざら間違ってはいないようです。(太田)

 武家勢力は六波羅幕府(平家政権)以降、幾つかの段階を経て、文官貴族に代わって政治的に優勢な地位を占めるようになっていった。

⇒平家が封建契約網を張り巡らそうとした、かどうかについては、改めて検証する必要があるけれど、そうは思えない、ということもあり、「六波羅幕府」という表現には違和感を表明しておきます。(太田)

 このため、武士はただの戦士ではなく、為政者的性格も併せ持ち始め・・・奔放かつ私欲むき出しの風潮を矯正し、人心を引きつける指導者的徳性(道徳心)を見につけようとした。・・・

⇒人間主義史観で行くと、話は逆で、非武士とは違って、武士は弥生性を発揮することで人間主義性(縄文性)・・徳性(道徳心)!・・が毀損されるので、それを回復するように努めなければならない、というだけのことなんですが・・。(太田)

 治者としての道徳的意識を重んずる伝統は、近世社会においては儒教と結びつく。
 このような武士のあり方を説く立場は、一般に士道(しどう)と呼ばれ、近世の武士社会において主導的な役割を果たした。
 これにたいし戦士としての心がけの伝統をひくものが武士道と呼ばれた。・・・
 近世の士道論を代表するのは、江戸前期の兵学者・儒者の山鹿素行である。
 『山鹿語類』(1663年成立)<の>・・・士道篇(巻二一)・・・で強調されているのは、「おのれの職分<(注118)>(職業的な存在理由)を知る」ということであった。

 (注118)「江戸時代の社会的義務観念。武士・百姓・町人はそれぞれ自己に与えられた役割=「職分」があり、その役割を遂行する義務を負っているという言説が、江戸時代には広く流通し・・・た。・・・
 素行や徂徠が武士の立場からの職分論であったに対して、西川如見や石田梅岩は、道徳的な平等性をもとに、町人の積極的な役割を強調した職分論を唱えている。江戸後期になると、国学者は、それぞれの職分の義務をはたして家業・家職に精励することが、天皇への忠誠になるとする家職奉公論を説いた。」(『日本思想史辞典』より)
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/3S/si_shokubun.html

 農は耕し、工は造り、商は交易に従事し、それぞれ額に汗して働いている。
 それに比べ武士は「耕さず造らず沽(う)(売)らず」で、もし何ら努めず衣食するとすれば、それは「遊民(ゆうみん)」であり「天の賊民」である。
 だから武士は、武士の職分とは何かとみずからに問うべきだ。・・・
 それによって自覚されるべき武士の職分とは、人倫(儒教では、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の間の道徳的秩序としての人間の倫理)の道を天下に実現することであった。」(178~179)

⇒「山鹿素行<が>・・・朱子学をはじめ老荘思想や仏教を、実用や実社会への影響力という観点から批判<し、>・・・中国とは異なる本朝(日本)としてのアイデンティティを支えるのが、日本独自の「武」「武士」であると論じた<点が、>・・・のちに吉田松陰や乃木希典が賞賛するところとなった」
https://core.ac.uk/download/pdf/144431124.pdf (谷口眞子(注119)「武士道と士道–山鹿素行の武士道論をめぐって–」より)
ところ、素行は、聖徳太子コンセンサスが生み出した日本文明のアイデンティティが、縄文性を主、縄文的弥生性を従、とするものであることに気付いていなかったわけですが、素行が、武士がその弥生性を発揮する機会を殆ど奪われることとなる長年月にわたる泰平の時代において、縄文的弥生性(縄文性と弥生性)を維持するために、職分論なるイデオロギーを、とにもかくにもひねり出してくれたこと・・その後、職分論は縄文性だけの担い手たる非武士達全般にまで普及することとなる!(「注118」参照)・・に対し、日本人を始めとする非欧米の人々は感謝しなければなりますまい。(太田)

 (注119)1960年~。早大第一文学部卒、同大博士(文学)、同大准教授、教授。「近世日本の法・規範意識、武士の心性などを研究」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E7%9C%9E%E5%AD%90

(続く)