太田述正コラム#11490(2020.8.23)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その42)>(2020.11.14公開)

 「・・・士道が武士として守るべき道の自覚を根本とするのにたいし、死のいさぎよさ、死の覚悟を根本とする思想の流れがあり、これが武士道で、代表する著作は『葉隠』<(注120)>(全11巻)である。

 (注120)山本常朝(やまもとつねとも。1659~1719年)が、「1700年<、2代>・・・藩主の<鍋島>光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て・・・藩主の菩提寺たる曹洞宗<の>寺の・・・和尚より受戒、剃髮して・・・出家した。・・・田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、1710年・・・のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E6%9C%9D
 田代陣基(1678~1748年)は、「19歳の時より鍋島藩3代藩主鍋島綱茂、4代吉茂のもとで祐筆役として仕えたが、・・・1709年・・・に御役御免となった。・・・同じく失意の中にあった常朝と語らい合う内に常朝の言葉の口述筆記を始め、7年後<に>・・・完成させた。5代藩主宗茂の時代の・・・731年・・・54歳で再び祐筆役となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%BB%A3%E9%99%A3%E5%9F%BA

 編著者は佐賀鍋島藩の田代陣基(つらもと)(陳基)で、同藩の山本常朝の思想的な影響下に成立。
 巻一・二は、常朝が語った武士たるものの心構えを筆録したもので、・・・1716<年>の成立といわれる。
 『葉隠』の思想は、近世において極めて孤立した主張で、鍋島藩の藩校のテキストにさえなっておらず、幕末に藩の要職にある人びとの間で会読・・・されたに止まり、佐賀県外に知られるようになったのは、じつに明治39年(1906)以降だったという。・・・

⇒高橋だけではなく、『葉隠』は、様々な人々が取り上げてきているけれど、そういうものである以上、一種のフィクション文学作品なのであって、歴史学者が史料として取り上げるには値しないのではないでしょうか。(太田)

 武士道に言及した書では、北条氏長や山鹿素行の弟子とされる兵学者大道寺友山<(注121)>(だいどうじゆうざん)の晩年作『武道初心集』<(注122)>(享保年間〈1716~36年〉成立)が、儒教的な士道に立ちつつも、戦国の武士の気風を踏まえ、それを活かした論が展開されており、『葉隠』よりずっと影響力が大きかった。」(181~182、190)

 (注121)1639~1730年。「安芸浅野家,会津松平家,越前松平家などで兵学を講じた。・・・晩年武州岩淵に住み,徳川家康の事跡逸話を中心とする《岩淵夜話》《落穂集》などを書く。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E5%8F%8B%E5%B1%B1-91682#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 
 (注122)「原著は56か条からなり、一部の人々に伝写されて読まれたにとどまったが、1834年・・・信州松代藩の家老恩田公準、鎌原桐山の両人が儒官小林畏堂の協力によって、44か条に刪修(さんしゅう)改編し、啓蒙書としての体裁を整え、同年11月江戸の和泉屋吉兵衛から出版した。ときに天保の改革期にあたり、士風の刷新が時代の急務とされたため、松代版の名で広く一般に普及するに至った。この松代版の特色は、原著にみられる神道的な表現や、同時代の『葉隠』に強調された戦国武士的な遺習などはこれを削除し、一方、治世の武士たちの官僚的・功利的傾向にも厳しい批判を加え、治乱両様に対応できる武士の日常のあり方を提示している。」(渡邉一郎)
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E9%81%93%E5%88%9D%E5%BF%83%E9%9B%86-125400
 渡邉一郎(1924年~)は、元鹿屋体育大学教授。
http://www2.lib.nifs-k.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BN02579859?hit=-1&caller=xc-search

⇒「ずっと影響力が大きかった」という高橋の記述は、「注122」に照らし、『武道初心集』が、「戦国の武士の気風を踏まえ、それを活かした論」を削除して出版された以上、趣旨的に間違いである、というべきでしょう。
 なお、この際、付記しておきますが、「武士道をテーマとした著作・文献は数多くあるが,最も有名なものに新渡戸稲造氏の『武士道』が挙げられる.しかし,新渡戸氏が指摘した武士道精神なるものは自身が幼少時より受けた道徳教育に根ざしたものであり,新渡戸氏の論が歴史的にも文献的にも実際の武士の実態に根ざしたものではなく,新渡戸氏の論を明治武士道或は新渡戸武士道といった形で区別することは武士道を専門に研究する人たちの中では常識化している」
https://www.juntendo.ac.jp/hss/sp/albums/abm.php?f=abm00007800.pdf&n=vol61_p167.pdf
ところです。
 こういう、(私見では、山鹿素行のものさえも含まれますが、)一連のまがいもの武士理念型論が、明治維新後、幅を利かせるに至ったということは、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を秘匿するという、天皇家/藤原家・・由来の武家群を含む・・の努力が成功を収めた証である、と言ってもいいでしょうね。(太田)

(続く)