太田述正コラム#11494(2020.8.25)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その44)>(2020.11.16公開)
「・・・切腹は、・・・平安時代以降、自殺の一方法としておこなわれるようになったが、広まるのは鎌倉末期から南北朝期で、・・・1333<年>、近江番場(現滋賀県米原市)で六波羅探題の将士が集団自殺し<(注124)>、続いて鎌倉で得宗高時以下が大量自殺した<(注125)>時の衝撃がきっかけではないかと思われる。
(注124)「北条仲時<(1306~1333年)は、>・・・第13代執権である北条基時の子。・・・
1330年・・・11月、鎌倉を発って上洛する。12月27日、六波羅探題北方となる。
1331年・・・の元弘の乱で、大仏貞直、金沢貞冬ら関東からの軍勢と協力し、挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流する。さらに護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧を担当する。
・・・1333年・・・5月、後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとした。しかし、道中の近江国(滋賀県)で時益が野伏に襲われて討死し、仲時も同国番場峠(滋賀県米原市)で佐々木導誉が差し向けたとも言われる野伏に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族・・・と共に自刃した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%BB%B2%E6%99%82
(注125)「北条高時<(1304~1333年)は、>・・・第9代執権・北条貞時の<子>。・・・
第14代執権<だったが、>・・・1326年・・・には、病のため24歳で執権職を辞して出家・・・する。・・・3月には金沢貞顕が執権に就任するがすぐに辞任し、4月に赤橋守時が就任することで収拾する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E6%99%82
「<1333年、>新田義貞、足利千寿王(せんじゅおう)(義詮(よしあきら))らに鎌倉を攻められ、5月22日一門、御内(みうち)の者とともに北条氏ゆかりの<臨済宗>東勝(とうしょう)寺に入って自害、鎌倉幕府も滅亡した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E6%99%82-132155
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8B%9D%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82) (<>内)
『太平記』によれば、前者は432人、後者は873人が腹を切り、あるいは差し違え、またみずから首を掻き落としたという・・・。」(197~198)
⇒切腹のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E8%85%B9
にもコトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%88%87%E8%85%B9-87415
にも、元弘の乱の時のこの二大切腹事件への言及は全くなく、高橋が言及したことは評価したいと思います。(太田)
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[閑話–北条高時・足利尊氏と日蓮宗]
「鎌倉殿中問答<は、>・・・1318年・・・12月20日から19年・・・9月15日までの間、前後3回にわたって北条高時の御前で行われたといわれる日蓮宗と他宗派との問答。
問答は内管領(うちかんれい)長崎入道円喜(えんき)の邸内で行われ、加賀阿闍梨(かがあじゃり)十宗坊、樟曽根(くぬきそね)入道慧海(えかい)、伊羅護(いらご)律師道日(どうにち)らが日蓮宗を批判したのに対して、日蓮の孫弟日印(にちいん)がこれに反論し、諸宗堕獄と断じて彼らを屈伏せしめようとしたとされている。
鎌倉末期における日蓮宗と他宗派との関係をうかがうことができる事件である。
事件の内容は列席した日印の弟子の日静がこれを記録、『鎌倉殿中問答記』(1巻)として残っており、『改定史籍集覧』に所収。またこの注釈書として日達の『鎌倉殿中問答記略註(りゃくちゅう)』がある。」
https://kotobank.jp/word/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%AE%BF%E4%B8%AD%E5%95%8F%E7%AD%94-1518739
「これにより題目宗の布教を鎌倉幕府が許可したと<も>ある。但し吾妻鏡や鎌倉年代記などの史料にはこれについての記載はない。・・・
鎌倉幕府執権高時により日蓮の弟子の日朗に諸宗との問答対決の命を下され、高齢の日朗に代わっ<て>門下の日印が・・・問答を交わし<たもの。>・・・
<ちなみに、>日静<の>・・・父は上杉頼重(藤原北家系で室町時代に関東管領などの大名を出す上杉氏2代目)で、[<日静は、>尊氏の母・清子の実兄]である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8D%B0
「<この日静は、>松葉谷本国寺(本勝寺)を日朗、日印から伝えられ、のちに尊氏の助力で京都にうつし(本圀寺1345)、[弟子の日伝が、日蓮宗]六条門流という一大勢力をきずいた。」
https://kamakuratoday.com/suki/mochida/205.html
「<また、日静のもう一人の>弟子<の>・・・日陣<は>・・・<日蓮宗>陣門流<を開いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8D%B0 前掲
⇒足利尊氏が、北条家のDNA(コラム#省略)と共に、(伯父日静の縁もあってか、)北条高時の日蓮宗に対する好意的姿勢も受け継いでいたことには瞠目させられる。(太田)
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(続く)