太田述正コラム#11504(2020.8.30)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その49)>(2020.11.21公開)

 「・・・さらに深刻な問題は、近代の軍人による軍の立場からの架空戦史の誕生が、近代の士道的軍人の思考と志向を縛り、史実とかけはなれた「戦訓」をもとに、現実の戦争を構想させ実際に実行する、という愚を犯させたかも知れないことである。
 著名な例だが、日米開戦必至の状況のなかで、ハワイ真珠湾奇襲の必要を主張した連合艦隊司令長官山本五十六は、海軍大臣嶋田繁太郎に宛てた昭和16年(1941)10月24日付書簡で「結局桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せおこなうの、やむをえざる羽目に追い込まれる次第にござ候」と、みずからの立場を説明している。

⇒山本五十六が『日本戦史』を読んで奇襲重視主義者になったかのようなくだりですが、そもそも、『孫子』に「兵とは詭道なり」とある
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3115357030052018000000
ように、奇襲は詭道の最たるものであって、奇襲を重視して何が悪い、と高橋に言いたくなりますが、まず、桶狭間の戦いは、最新の彼我兵員数を用いても、2.5倍の敵に対して、正面から戦いを挑んで大勝利を収めたところ、それは奇襲だったからこそですし、山本がそれを知っていたかどうかはともかく、いわゆる鵯越の逆落としの部分が仮に神話であったとしても、一ノ谷の戦いそれ自体が、後白河法皇が一枚噛んだ戦略的奇襲ではあった(注134)よう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%83%8E%E8%B0%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
なので山本が奇襲たる鵯越の逆落としが史実であったと思い込んでいてそれに言及したとしても、それが誤りであるとまでは言えませんし、川中島の戦い・・通常、川中島第四次合戦を指す・・に至っては、夜陰や霧を利用したところの、単純明快な(!)奇襲でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 従って、ここで、高橋が一体何を言いたいのか、私にはさっぱり分かりません。(太田)

 周知のように、帝国陸海軍は奇襲を多用したが、それは実際には戦理に合っていないから、情報収集、索敵と防禦の手段にすぐれた米軍によって、ほとんどは事前に察知され、惨たる敗北に終わった。

⇒ですから、「奇襲の多用」が「戦理に合っていない」という高橋の認識は誤りであるところ、そのことと、米軍が帝国海軍に比して「情報収集、索敵と防禦の手段にすぐれ」ていたこと、とは、全く別の話です。(太田)

 加えて川上操六が明治32年(1899)に亡くなったあと、公刊日清戦史の編さんは、参謀本部第四部(戦史部)長の大島健一<(注134)>に受けつがれたが、大島は批判的研究を否定し、軍の威信の保持を重視するなど、川上の編修方針を変更したといわれる。

 (注134)1858~1947年。「陸軍中将。・・・美濃国岩村藩(現岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)の藩士の子・・・陸軍士官学校(旧4期)卒業。ドイツ留学を経験。・・・日清戦争。山縣有朋の信任を受け、第1軍の副官を務める。・・・1902年(明治35年)・・・参謀本部第4部長事務取扱。」以後、日露戦争中の大本営勤務を挟み、1909年(明治42年)に参謀本部総務部長になるまで、事実上、第4部長(戦史部長)と務め、>参謀次長、陸軍次官、陸軍大臣。「1919年(大正8年)- 予備役に編入。・・・陸軍中将、駐ドイツ大使の大島浩は長男」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E5%81%A5%E4%B8%80

⇒「いわれる」では、心許ない限りですし、そもそも、典拠も付されていないので、ここはスルーすることとして、むしろ驚いたのは、大島健一が、やや大げさに言えばほぼ戦史部長だけを務めて次官、大臣にまで上り詰めたことから推察できるところの、帝国陸軍の当時の戦史重視の姿勢です。(太田)

 戦史を重視したモルトケ<(注135)>もこの点例外ではなく、「わが軍勝利のために貢献した人びとにたいしては、その名誉を毀損してはならない。これ国民の義務である」との戦史編さんへの訓令を出している。

 (注135)モルトケ(1800~1891年)は、プロイセン陸軍大学を卒業してから、配属された師団の師団学校の測量と製図の教官となり、その後、参謀本部で地図の作成に当たり、次いで、フリードリヒ大王の戦史の編さんにあたっている。その後、オスマントルコの国軍の軍事顧問となり、帰国後に『トルコの内部崩壊とその後の政治形態』や『1828〜29年のロシア・トルコ戦争史』を著している。・・・
 ナポレオン時代を代表する軍事学者アントワーヌ=アンリ・ジョミニ<は、>戦力が集中する内線が有利と説いていた。しかしモルトケはこのナポレオン時代の常識を覆して、いまや鉄道と電信の登場で分散進撃しても攻撃時のみ集中させることが可能となっている以上、外線が有利であると主張した。・・・しかし当時の未熟な技術では鉄道や電信が故障や事故など不測の事態を起こすことも多かった。それでもスムーズに分散進撃や包囲集中攻撃を行うため、モルトケは現場指揮官の自主性を大事にした。現場指揮官には全体的な目的を承知させるための訓令を出すにとどめ、彼らの独断を奨励した(訓令戦術)。ナポレオンの軍隊の将軍がほとんど自主権を持たなかったこととは対照的であった。もちろん・・・(・・・普仏戦争緒戦の・・・事例のように)・・・現場指揮官の独断によって全体の計画が破たんする場合もあり得るが・・・、モルトケはそれを批判するより、利用する戦略修正に全力を挙げるべきと考えていた。そしてモルトケはそれが巧みな人物だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%B1

 結果として、モルトケのプロイセン=フランス戦史には多くの誤りや隠匿があり、自戒すべき戦訓を、輝かしい勝利の陰に押し隠したといわれている。」(230~231)

⇒このくだりについても、典拠が示されていませんが、「注135」のような背景があった・・モルトケについては、そのキャリアが戦史編さんから始まったと言っても過言ではなく、また、戦史に係る本も公刊していて、自分の考案し、かつ実践したところの、戦略、の下では、本来的に部下が犯した失敗は咎めるべきではないと考えていた・・以上、このくだりの高橋の記述には強い疑問符を付けざるをえません。(太田)

(続く)