太田述正コラム#11510(2020.9.2)
<高橋昌明『武士の日本史 序・第二章以下』を読む(その52)>(2020.11.24公開)
「最後に日本人がもともと武の面で勇敢な民族であるかのように主張する見解について、一言述べて本書を閉じたい。
⇒縄文人(人間主義者)は生命尊重で平和志向なのだけれど、人間主義者というのは他人に忖度する人でもあるので、攻撃されたら家族や共同体のためにシャカリキに戦うし、部隊の一員である時も戦友のためにやはり全力で戦うから、そういう意味では、確かに「武の面で勇敢な民族である」と言っていいでしょう。
(この点は、私のこれまでの主張を改めました。)
問題は、それだけでは、戦闘、戦争には勝てないことです。
勝つため、いや、太田コラム的に言えば、戦いの目的を達成するため、には、縄文的弥生人が不可欠なのです。(太田)
確かに今から70数年前、太平洋の島々で、アメリカ軍は日本の兵士たちに強い衝撃を受けた。
弾薬・食糧が尽き絶望的な状況になっても、降伏を拒否し死ぬまで戦いをやめない兵士たちに、である。
しかし、その「勇敢さ」が、日頃は非人間的な軍紀で絶対服従を強制され、戦死は名誉、降伏は本人にとっても家郷の家族・親類にとっても恥辱、捕虜は敵前逃亡とみなされる、という観念を徹底的にたたきこまれた結果であ<った。>・・・
⇒いずれにせよ、このような主張は誤りであり、どうして、そんな「マインドコントロール」が解けた敗戦後にも、日本の帰還兵に殆どPTSDが発生しなかった(コラム#省略)のかさえ説明できません。
自衛とアジア解放という、縄文人(人間主義者)にどんぴしゃの戦争目的を政府が掲げたことが、日本兵達に正戦意識を植え付けたからこそ、殆どPTDSが発生しなかった、というのが、私のかねてからの主張に人間主義的味付けをしたところの、私の最新の主張です。
私的制裁や捕虜刺殺「訓練」の黙認や奨励は、以上の私の最新の諸主張と矛盾するものではありません。
(戦争前、戦闘前、という意味での)「平時」において、縄文人(人間主義者)たる兵士達の背中を一押しして、彼らが本来備えている武のスイッチを入れるために極めて有効であった、ということでしょう。(太田)
当時、物質文明は欧米の方が優れているかもしれないが、精神文明では日本が優れている、だから日本が勝つ、という主張がなされた。
⇒それは、日本は、その大部分の構成員の人間精神が(人間主義者であるという核心において)本来的に優れている、という主張であったと受け止めることができるのであって、その主張は正しく、しかも、私がかねてから指摘しているように、戦争目的をことごとく達成したという意味で、日本は勝ったのですから、文字通りその通りだったわけです。(太田)
しかし、ある民族だけが特別に精神力に優れていて、ほかはそうではないと断言できる客観的な根拠はあるのか。
日本にやまとだましいがあれば、アメリカにはヤンキー魂があり、イギリスにはジョン・ブル魂がある。・・・
⇒人間主義の優位については、科学的な裏付けがある(コラム#省略)上、私の「改」主張では、人間主義者は「武」においても優位にある・・これについては、改めて科学的検証は必要ですが・・、というわけで、根拠は大いにありそうです。(太田)
日本海軍は「見敵必戦」<(注140)>をモットーとしたが、実際の攻撃は一、二の例外を除くと、ほとんどが淡泊で、目の前の敵を沈めると、長居は無用と引き揚げていった。
(注140)「19世紀になると世界の植民地化が進んだ結果、西欧列国海軍は大規模化し、したがって海戦も信号旗による統一指揮の下、戦術運動や片舷(へんげん)斉射などをもって戦われるようになる。しかし信号旗は天候や砲煙ですぐ見えなくなるから、戦闘の基本は依然として見敵必戦、独断専行であった。トラファルガーの海戦に臨むネルソン提督の命令には「私の信号が見えないときには敵のほうへ突っ込んで行け、そうすれば大きく誤ることはない」とある。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E6%88%A6%28%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E3%81%A7%E8%A1%8C%E3%81%86%E6%88%A6%E9%97%98%29-1515671
「角田覚治・・・の「見敵必戦」の信念が遺憾なく発揮されたのは、ミッドウェーの敗北から四カ月後に起こった南太平洋海戦である。機動部隊がぶつかり合う決戦の最中、第二航空戦隊司令官の角田は一時的に指揮権を譲られると、果敢に反復攻撃を試みて勝利をつかみとった。」
https://books.rakuten.co.jp/rb/6112117/
角田覚治(かくだかくじ。1890~1944年)は、「<海兵>入校時の席次は150人中102番。・・・148人中45番の成績で卒業。・・・最終階級は海軍中将。テニアン島で戦死。・・・
第三航空戦隊司令官<の時の>参謀淵田美津雄によれば「角田は砲術出身だったため砲術家通有の保守的で頑固なところはあったが、気性はさっぱりしていた。武将として最も優れた性格と思われるのはその攻撃精神が旺盛なところであった。見敵必戦のその闘志はかつてのコロネル沖海戦での英海軍のクラドック提督を思わせるものがあった。この猛将の性格は時には柔軟な作戦指導を要する航空作戦の性格上、何から何まで全て適役というわけではないけれども、ともすれば慎重に過ぎて、すぐ腰がくだける我が艦船部隊の多くの指揮官に比べて一異彩であった」という。
<また>、第四航空戦隊司令官<の時の>隼鷹分隊長阿部善朗は「角田は典型的な武人であり、見敵必戦の猛将であると言われたが、砲術出身で航空運用について無知な点が多かった。我々は彼を鉄砲屋と称していた」と語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E7%94%B0%E8%A6%9A%E6%B2%BB
⇒帝国海軍でも角田のような人物は例外でしたし、必ずしも高く評価されていたわけではない以上、「日本海軍は「見敵必戦」をモットーとした」は言い過ぎでしょう。(太田)
これを「一撃必殺」と称したが、この点では、米海軍の方がはるかに徹底しており、勝ちいくさになればかさにかかって攻めたて、敵を叩いた。」(265~266)
⇒「見敵必殺」(注141)の間違いではないでしょうか。(太田)
(注141)「帝国海軍<は、>・・・イギリス海軍に大きな影響を受けていたため、戦闘においては好戦的な姿勢を尊び「見敵必殺」を旨として積極的攻勢の風潮があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%B5%B7%E8%BB%8D
(続く)