太田述正コラム#1202(2006.4.25)
<英国の政治家の質の高さ>
1 始めに
英国の政治の先進性について、改めて振り返ってみることにしました。
登場するのはグラッドストーンとチャーチルです。
2 グラッドストーンのディズレイリ批判
引退していたグラッドストーン(William Ewart Gladstone)は、1878年に保守党のディズレーリ(Benjamin Disraeli)の対外政策に反対すべく、自由党党首の座に復帰します。
グラッドストーンが1879年11月27日に行ったディズレーリの対外政策批判演説は特に有名です。
グラッドストーンが述べた第一は、良い内政、とりわけ財政的安定でした。「最初に行うべきことは、本国で正しい法制と経済を行うことで帝国の力を涵養すること」でした。
第二は、対外政策の目的は、世界の諸国の間で平和の恵沢を維持することである」でした。
第三は、「良い意図を持っていても、やり方が余りにも悪いためにすべてを台無しにしてしまうようなこと」がないようにすることでした。
第四は、持てる力以上のことはしないことでした。「もし力を増やすことなく、やることばかり増やすようなことがあれば、力は減衰し、ついには力がなくなってしまう」というのです。
第五は、「もしあなたが独善的にも<自分の国が他の国々>より上位にあると主張するようなことがあれば、他国の人々のあなたの国に対する評価と敬意の基礎が掘り崩されてしまい、あなたは自分自身に対して取り返しの付かない自傷行為を犯すことになろう。」
そしてグラッドストーンは、「英国の対外政策は、常に自由への愛によってかきたてられたものでなければならない」としめくくったのでした。
あの英国生まれの米国の歴史学者のニール・ファーガソンは、グラッドストーンの以上の言を紹介した上で、ブッシュの対外政策が、あらゆる点で非グラッドストーン的な落第外交であることを指摘しています。
(以上、http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-ferguson6mar06,0,5008838,print.column?coll=la-home-commentary(3月7日アクセス)による。)
3 チャーチルの鉄のカーテン演説
1946年3月5日、チャーチル(Winston Churchill)はもはや英国の首相ではありませんでしたが、名誉博士号を受けるため、米国のミズリー州フルトンのウェストミンスター・カレッジを訪問し、後に「鉄のカーテン演説」と呼ばれることになった演説を行いました。
聴衆の中には、1,000マイル離れたワシントンからかけつけたトルーマン(Harry Truman)米大統領もいました。
チャーチルは1930年代にナチスドイツによる戦争の脅威を説き、英国の人々の嘲笑を浴びましたが、正しかったのはチャーチルの方でした。ここで、チャーチルは再び同じようなことを試みたのです。
チャーチルは、「バルト海のステッテンからアドリア海のトリエステまで、鉄のカーテンが大陸を横切って降りてしまった。この線のかなたに中央と東欧州の古い国々の首都すべてが横たわっている。ワルシャワ・ベルリン・プラハ・ウィーン・ブダペスト・ベオグラード・ブカレスト・ソフィアだ。これらの有名な都市とそれを取り巻く住民はことごとくソ連圏と呼ぶべきものの中に横たわっているのだ。」と語ったのです。
チャーチルは、ロシア軍の占領下に置かれた中東欧において、スターリンの命令に従い、ロシア人が共産党政権による全体主義支配を押しつけつつあることを自覚するよう米国の人々に呼びかけたのでした。
スターリン(Joseph Stalin)は、この演説に激怒し、チャーチルを「戦争屋」と非難し、この演説文をソ連内で発禁処分にしました。
米国の人々は長きにわたって、ソ連の本質から目を背けてきたのですが、翌1947年にようやくトルーマン政権は、ソ連に対する封じ込め政策を決定し、1989年まで続く米ソ冷戦時代が始まるのです。
(チェコスロバキアでの共産党政権の樹立とベルリン封鎖によって、ソ連の本質が誰の目にも明らかになる1948年の1年前のことでした。)
(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4776444.stm(3月6日アクセス)による。)
チャーチルに比べると、トルーマンの前任者のフランクリン・ローズベルト(Franklin D Roosevelt)米大統領のソ連観は話にならないほどお粗末なものでした。
1941年にローズベルトはチャーチルに「私はあなたの外務省やわが国務省より個人的にスターリンの扱い方を心得ていると思っています・・スターリンは英国の指導者の面々のど根性(guts)には辟易しているようで、彼は私の方を好んでおり、彼が今後ともそうあることを望んでいます。」という手紙を送っています。これに対し、チャーチルは、「スターリンは尋常ならざる男です。大変やっかいなことが起こることでしょう。」という返事を寄越しています。
(以上、http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,1722907,00.html(3月4日アクセス)による。)
4 感想
それにしても、英国の政治家に比べて米国の政治家は遜色がありますね。
繰り返します。
こんな米国の保護国であることは一刻も早く止めましょう。
ルーズベルトのスターリン観だけをもって「米国の政治家は遜色がある」とするのは無理があると思うんですけどね。多分、独ソ戦の後、真珠湾奇襲の前ですよね。その手紙の内容は単に「私だったらスターリンをうまく操縦できますよ」ぐらいの意味だと思いますよ。実際、我が帝国のほうが第三帝国よりも諦めが悪かったわけで、ルーズベルトが日本に勝つためにソ連の力が必要だと考えるのは自然だと思いますけど。いつも先生が力説する現実主義ってやつじゃないですか。実際、ソ連参戦は少しは対日戦勝に役立ったと思いますよ。ヤルタ会談のすぐ後からですよね、二人の関係がおかしくなるのは。原爆投下にはソ連を牽制する狙いもあったことが公開された米公文書からも裏づけられたようですし、別にスターリンを気の置けない友人と考えていたわけでもないと思いますよ。日本領土の一部というアメを与えつつ、原爆で脅しをかける。うまい駆け引きだと思いますけどね。それともトルーマンの手柄ですかね。ヨーロッパと太平洋、両方でアメリカを勝利に導いたんですからルーズベルトみたいな指導者が日本にもほしかったですよね。我々としては権謀術数のせいで原爆落とされたり北方領土を分捕られたままだったりなのがいい迷惑ですけどね。
つくづく思うんです。米英同盟は強固だなって。これアメリカが本格的に参戦する前ですよね。米英の指導者が忌憚なく、相手国を揶揄するような内容をやり取りしている。対する日独はイギリスを負かしてくれるかも、ソ連を挟み撃ちできるかも、ぐらいのもんで結局どちらも起こらずたいした役に立たなかった。同盟の成否が戦勝国と敗戦国を分ける一因にもなったと思います。日米にいたっては、歴史的な意義はともかく、今のところ、何のための同盟かという議論を置き去りにしてもっぱら金勘定で論じられることが多いですね。それが私には残念です。