太田述正コラム#11514(2020.9.4)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その1)>(2020.11.26公開)

1 始めに

 今度は表記です。
 今まで書いてきたことの是正に追い込まれる箇所が出てくれば儲けもの、という狙いです。
 著者の大津透(1960年~)は、東大文(国史)卒、同大博士課程中退、山梨大、東大博士、東大人文社会系研究科助教授、准教授、教授、「律令法や国家財政を研究の中心としている。日本古代の律令制を東アジアの範囲に位置付け、日本固有の部分を明らかにするとともに、古代天皇制の特質を探求している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E9%80%8F
という人物です。

2 『律令国家と隋唐文明』を読む

 「・・・吉備大宰は、広域の行政官というだけでなく、新羅や唐に対する防衛を任務として、徴兵権をもつ軍事組織であった。
 そのことを雄弁に物語るのが、鬼ノ城<(注1)>の遺跡なのである。

 (注1)きのじょう。「岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた、日本の古代山城(神籠石式山城)・・・史書に記載が無く、築城年は不明であるが、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされている。
 鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置し、標高397メートルの鬼城山の山頂部に所在する。すり鉢を伏せた形の山容の7〜9合目の外周を、石塁・土塁による城壁が鉢巻状に2.8キロメートルに渡って巡る。城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタールである。城壁は土塁が主体で、城門4か所・角楼・水門6か所などで構成される。・・・
 吉備津の西方、約240キロメートルに那大津(港)の博多湾がある。吉備津は、東西航路のほぼ中間点に位置する。鬼ノ城の山麓一帯は、勢威を誇った古代吉備の中心部であり、鬼ノ城は吉備津から約11キロメートルである。
 鬼ノ城は、いにしえから吉備津彦命による温羅退治の、伝承地として知られていた。苔むした石垣が散在する状況から、城跡らしいと判断され、「キのシロ」と呼んでいた。「キ」は、百済の古語では城を意味し、後に「鬼」の文字をあてたにすぎない。「鬼ノ城」は「シロ」を表す、彼の地と此の地との言葉を重ねた名称である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E3%83%8E%E5%9F%8E
 「温羅<(うら/おんら)>とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされる。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、伝承によると吉備には・・・崇神天皇(第10代)<によって、>・・・吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣され退治されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%BE%85

 大宰府に設けられた水城(みずき)や大野城、あるいは対馬の金田城など、より大規模な山城遺跡があり、天智朝の対外的緊張感を物語るのであるが、これらはいわば中国・朝鮮に接する最前線である。
 吉備平野の北側、かなりの内陸部であるのに、鬼ノ城というこれだけの軍事施設が築かれたことは、当時の緊張感がいかに深いものかを物語っている。

⇒大津はその説に拠っていないようですが、白村江の戦いで敗れ、日本が短期間とはいえ唐に占領されたのです(コラム#省略)から、「緊張感」の「深」さは、それ以上のものがあったはずです。(太田)

 狩野<久(注2)>氏はさらにこれらの瀬戸内海沿岸地域には、国設置よりまえに軍政区としての「道」制(この場合は吉備道)がおかれ、それが天武朝に備前・備中・備後の国に分割されたと考えている。・・・

 (注2)1933年~。京大文卒、同大博士課程単位取得退学、奈良国立文化財研究所、文化庁、岡山大(教授)を経て、現在、京都橘女子大教授。「専門は日本古代史、木簡学、古代都城史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E4%B9%85

 律令国家の形成は、このようないつ唐・新羅連合軍が攻めてくるかもわからないという極度の軍事的緊張のなかでなされたのである。・・・

⇒私見とは、「律令国家の形成は」という点で全く異なるわけです。(太田)

 それは朝鮮三国にも共通する課題で、結果的に百済と高句麗は滅んでいったのである。」(vi~vii)

(続く)