太田述正コラム#11520(2020.9.7)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その4)>(2020.11.29公開)

 「・・・川上麻由子<(注11)>氏の研究によると、隋に先立つ南朝の時期、梁の武帝期を中心に仏教色の濃い上表文を伴う仏教的朝貢と呼びうる国際関係が成立していた。

 (注11)北大卒、九大博士(文学)、奈良女子大准教授。
https://koto10.nara-wu.ac.jp/profile/ja.e5dce46e95323f44520e17560c007669.html

 <隋の>文帝は、まさに菩薩戒を受けた天子(「菩薩天子」)であり、梁の武帝とならぶ崇仏を行ない、しばしば「重興仏法」という表現を好んでおり、・・・第二回遣隋使<に持たせた>・・・国書<中の>・・・「菩薩天子が重ねて仏法を興していると(聞いて)」とは、その文帝の歓心を買おうとして考えられた表現だった。<(注12)>

 (注12)「『隋書』「東夷」伝の倭国<に>、つぎの記載<があ>・・・る。
 大業三年、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す、使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。
 ここで大業三年(六〇七)は、『日本書紀』の推古十五年、すなわち、聖徳太子が小野妹子らの遣隋使を派遣した年に当っている。倭国の王多利思比孤は、太子をさしているものとみて差支えないと思われるが、倭国の使者の言う、海西の菩薩天子は、北周の廃仏毀釈から仏教を再興させた篤信の高祖文帝にふさわしいが、ここで 重ねて、、、 と言っているのは、現皇帝もまたさらに、という意味に解するならば、やはり、煬帝をさしているものとみてよいであろう。
 たしかに、悪名高い煬帝ではあるが、反面きわめて熱心な仏教・道教の篤信者でもあった。とくに仏教に対しては晋王広と呼ばれていた頃から、後に天台宗の開祖となった智顗をはじめ多くの高僧を遇し、また揚州総管であった時代には、慧日・法雲の二仏寺に多くの人材を集め、とりわけ慧日道場には江南の仏教界の長老である嘉祥寺の吉蔵らを迎えている。さらに皇帝となるや、訳経の事業にも、すこぶる熱意を示し、これまで文帝が大興城の大興善寺を中心に訳経をすすめてきたのに対して、煬帝は洛陽の上林園にも翻経館を置き、西域から来た達摩笈多をして訳経にあたらせているのである。」(上原和「聖徳太子の遣隋使」(1993年)より)
https://www.gakushikai.or.jp/magazine/archives/archives_798.html
 かず(1924~2017年)は、九大法文学部(美術史)卒、同大院でも学ぶ。宮崎大を経て成城大(この間、九大博士(文学)。同大定年退任し名誉教授。亀井勝一郎賞受賞。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%92%8C

⇒「歓心を買おうとし」たかどうかはともかく、遣隋使の派遣の最大名目として仏教の更なる勉強を掲げており、実際、それが(明らかにはできないところの)主たる目的でこそなくても従たる目的ではあったのですから、そのような表現を使ったのは不思議ではありません。(太田)

 さらに東野治之<(注13)>氏によれば、有名な「日出づる処」「日没する処」も、『大智度論(だいちどろん)』に「日出づる処は是れ東方、日没する処は是れ西方」とあるように仏典に基づく表現であり、東・西を指すとする。
 
 (注13)はるゆき(1946年~)。大阪市立大文卒、同大修士、奈良大、阪大(この間、東大博士)を経て奈良大文教授、同大定年退職。浜田青陵賞、角川源義賞、毎日出版文化賞、受賞。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%87%8E%E6%B2%BB%E4%B9%8B

 しかし、三年前・・・に文帝は没し、煬帝が即位していた(煬帝による弑害説もある)。そしてこの国書は受け取った煬帝の怒りに遭うことになる。・・・

⇒第二回遣隋使の国書の名宛人について、大津は、上原説を採っていないわけですが、その旨、一言、書き足すべきだったと思います。(太田)

 問題は、倭が「天子」と名のったことだった。
 中華思想では、天子とは天帝の天命をうけて、天の子として世界(天下)を統治する者であり、世界の中心であり、一人しかいないのである。
 もう一人いれば革命になってしまう。
 しかも辺境の蕃夷の首長が使ったのだからとうてい認められるはずはなかった。
 倭は、隋と対等という主張をしたのである。
 なお聖徳太子は中国と対等外交を行なったといわれることもあるが、遣隋使にせよ遣唐使にせよ、それは朝貢使であるので、対等な関係ではないことは前提である。<(注14)>」(8~10)

 (注14)「朝貢は、主に前近代の<支那>を中心とした貿易の形態。<支那>の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。なお、周辺国が貢物を捧げることを進貢(しんこう)、皇帝がその貢物を受け入れることを入貢(にゅうこう)という。・・・
 朝貢には実質的な臣属という意味はなく、その点で冊封とは区別される。・・・
 753年・・・の朝賀において、日本が新羅と席次を争い、日本側の言い分を通した事件があり、少なくとも唐からは新羅同様の朝貢国とみなされていた事がわかる。唐から朝貢国として扱われている事実は、日本側でも周知の事であった。しかしながら冊封国である突厥や渤海が同様に席次を争った事例では、唐は要求を却下しており、日本は他国よりは上位とみなされていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2

⇒「注14」からも、大津が通説を記していることは確かですが、進貢(入貢)した品やそれに対して下賜された品についての記録が、日本、支那、のどちらにも残っていないことから、果して本当に朝貢貿易が行われたのだろうか、と、以前から、私は気になっています。(太田)
 
(続く)