太田述正コラム#11524(2020.9.9)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その6)>(2020.12.1公開)

 「石母田正氏は、この時期に唐の圧力<(注16)>のもとで朝鮮三国に起きた権力集中の三つの型に注目している。

 (注16)「<唐の>第2代皇帝<の>・・・太宗<(598~649年)は、>・・・629年・・・突厥討伐を実施する。・・・630年・・・には突厥の頡利可汗を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し、太宗に天可汗の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗よりさらに上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。さらに640年・・・、西域の高昌国を滅亡させ、西域交易の重要拠点のこの地を直轄領とした。・・・
<→北方の騎馬遊牧民達の間で、唐が騎馬遊牧民系の王朝であるとの認識があったからこそ、彼らは、太宗に「天可汗の称号を奉上する」ことに違和感がなかったのだろう。(太田)>
 644年・・・、高句麗へ遠征(唐の高句麗出兵)が行われるが失敗に終わ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%94%90)

 一つは百済型で、641年に即位した義慈王(ぎじおう)の専制君主的性格で、弟の王子や重臣を追放することで権力を集中し(太子を廃された豊璋<(注17)>と妻子たちは643年に倭国に渡ってきた)、官司制<(注18)>がささえた。

 (注17)扶余豊璋(ふよほうしょう。641~660年)。「660年、唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)が急に百済を滅ぼしたという知らせが届いた。百済を征服した唐軍は大部分が引き上げ、1万の駐留軍が残るだけだったので、百済の佐平・鬼室福信らが百済を復興すべく反乱を起こしたという知らせも来た。当時、倭国の実権を掌握していた中大兄皇子(後の天智天皇)は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することを決定、都を筑紫朝倉宮に移動させた。662年5月、斉明天皇は豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵5,000と軍船170艘を添えて百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれた。663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害した。これにより百済復興軍は著しく弱体化し、唐・新羅軍の侵攻を招くことになった。
 豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待ったが、8月13日、城兵を見捨てて脱出し、倭国の援軍に合流した。やがて唐本国から劉仁軌率いる7,000名の救援部隊が到着し、8月27、28日の両日、倭国水軍と白村江(韓国では白江、白馬江ともいう)で衝突した。その結果、倭国・百済連合軍が大敗した。いわゆる白村江の戦いである。豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、その高句麗も内紛につけ込まれて668年に唐に滅ぼされた。豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、高句麗王の宝蔵王らは許されて唐の官爵を授けられたが、豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされた。
 豊璋の弟については、『日本書紀』によれば百済王善光(『続日本紀』では徐禪廣)といい、豊璋と共に人質として倭国に渡り滞在したが帰国はしなかった。白村江の戦いの後、百済王族唯一の生存者として持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99%E8%B1%8A%E7%92%8B
 (注18)「百済<の>・・・中央官制としての甲佐平等と官司二十二部」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjwjebOq9vrAhUYVpQKHW4EDYsQFjAAegQIAxAB&url=https%3A%2F%2Fopera.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D7988%26item_no%3D1%26attribute_id%3D19%26file_no%3D1&usg=AOvVaw3WLqeix0wWoDpOvkblaOeg
の全体を指しているのだろうか。

 第二は高句麗型で、642年に権臣泉蓋蘇文(せんがいそぶん)は国王を殺して、宝蔵王(ほうぞうおう)を擁立し、諸大臣以下を惨殺して自ら「莫離支(ばくりし)」となった、
 宰臣が権力を独占する形である。
 第三の新羅型は、王族金春秋(後の武烈王)にみられ、王位に就く資格のある王族の一人に権力が集中され、王位には善徳女王・真徳女王という権力を持たない女帝をつけ、貴族の評議で国家の大事を決定する機関である「和白(わはく)」が重要な役割を果たしたとする。

⇒前にも記した(コラム#省略)ように、これは、日本の推古-厩戸皇子体制に倣ったものでしょうね。(太田)

 倭でも、蘇我入鹿が専制体制を布いたのは、百済や高句麗の政変の報をうけて、権力強化をめざした高句麗型の専制体制の試みであり、それを滅ぼした中大兄皇子は万機総摂による新羅型の権力集中を行なったと、大化改新から斉明朝を位置づけている。
 大化改新は、唐太宗の厳しい圧力に対抗するための、朝鮮三国と共通する国家機構をつくる試みであった。」(26~27)

⇒以上、(私見とは相反するところ、)興味ある主張ではあるのですが、理解できないのは、この石母田・大津の主張が、どうして「唐の圧力」に対する日本や朝鮮半島三国の対応、という語り口になるのか、です。
 「611年、<隋の第2代皇帝の>煬帝は文帝がやりかけていた高句麗遠征を以後3度にわたって行なった。612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであり、来護児や宇文述らが指揮官として高句麗を攻めた。しかし1回目の遠征は大敗し、更に兵糧不足もあって撤退する。613年には煬帝自身が軍を率いて高句麗を攻めるが結果は得られず、614年に行なわれた3度目の遠征では高句麗側も疲弊していたこともあって煬帝に恭順の意を示したが、煬帝が条件とした高句麗王の入朝は無視され、煬帝は4回目の遠征を計画する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
は「隋の圧力」とまでは言えず、それに対する上記諸国の対応など、論ずるに値しないとでも言うのでしょうか。(太田)

(続く)