太田述正コラム#11530(2020.9.12)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その9)>(2020.12.5公開)

 「・・・30年以上の空白をおいて派遣された・・・第7次遣唐使は、大宝元年(701)正月に任命され・・・翌年6月に出発する。・・・

⇒遣唐使の回数については、12、14、15、16、18、20回説に分かれているようで、遣唐使の邦語ウィキペディア執筆者は20回説に立ち、この回を第8次としています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF (太田)

 『旧唐書』には、倭国伝と日本<(注25)>伝が<それぞれ>おかれていて、別の国家だと認識されている(『新唐書』は日本伝のみ)。

 (注25)「『新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている」ことと、「これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中<共>で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC

⇒「注25」を踏まえ、私は、厩戸皇子の気持ちを汲んで、天智天皇が「日本」国号を定めた、と見ています。(太田)

 前者は・・・648<年>までの、後者は…703<年>、つまりこの遣唐使以降の記事を載せている。・・・
 大宝の遣唐使は、日本国号を承認してもらうという任務を帯びていたのである。・・・
 では国号を変えることの意味は何だったのか。
 ・・・7世紀後半の唐と倭国との緊張した関係を、日本という新たな国だと主張することで、清算しようとしたのだろう。
 白村江の戦い以来、倭国と唐は半ば戦争状態が続いており、その後国交が途絶えていた。
 そこで新たな平和的・安定的な関係を構築することをめざしたのだろう。

⇒結論には私も同感ですが、「日本」国号の件については、それが白村江の戦いの前に既に選定されていた、と、「注25」を踏まえて、私は見ている(上述)ので、違うのではないかと思います。(太田)

 8世紀になると、20年前後の間隔で、遣唐使が派遣されるようになる。
 東野治之<(前出)>氏は9世紀に<支那の>天台山国清寺僧・・・が、「二十年一米の朝貢を約す」(『唐決<(注26)>集』)、<日本の>延暦寺円澄<(注27)>の疑問に答え、台州刺史に許可を求めた書状)と述べていることを指摘し、唐は日本と20年に1度派遣の約束を結んでいたことを明らかにした。

 (注26)「「唐決」とは、一般的に、寛永三年(一六二六)刊や正保三年(一六四六)刊の『唐決集』に収載される七篇の問答集を指す。それぞれ「問答十箇条 最澄在唐日問 邃座主決議」(伝全所収の『天台宗未決』)、「光定疑問 宗頴決答」、「慧心疑問 知礼決答」(『答日本国師二十七問』)、「徳円疑問 宗頴決答」、「円澄疑問 広修決答」、「疑問箇条同上 維蠲決答」、そして答家不明の「答修禅院問」を指す。
 最澄をはじめ、平安時代初期の日本天台草創期に活躍した比叡山の学匠(源信の場合、時代も事情も異なるが)は、<支那>に源流をもつ天台教学を正しく理解・受容するために、<支那>の天台諸師に疑問を提出し、その答えを求めたのである。この往復書簡ともいえる遣り取りは、その後の日本天台の学匠の経典注釈や論義等に発展する嚆矢となり、また得られた「決答」は、一方で権威ある見解と敬いつつ、他方では日本天台独自の教学開展の基礎となっていった。」
https://www.tais.ac.jp/wp/wp-content/uploads/2015/07/kenkyu2016_04.pdf
 (注27)772~837年。「最澄の弟子<で、後に>・・・天台座主。寂光院,西塔院をたてた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%86%E6%BE%84-1059286

 それはおそらくこの大宝の遣唐使が結んだのだろう。
 8世紀以降、日本は冊封を受けない「不臣」の外夷という地位を認められ、唐と平和的な交流が行なわれるが、それは・・・<今次>遣唐執節使<の>・・・粟田真人たちの努力の成果だったのである。」(59~60、62、64~65)
 
 (注25)あわたのまひと(?~719年)。「古くは和珥(和邇とも書く)氏の同族氏族である。・・・筑紫大宰<を経て>,文武天皇の時代には大宝律令の編纂にも参加した。・・・701・・・年・・・民部尚書の職にあ<った時、>遣唐執節使に任命されたが,この年は天候に恵まれず翌・・・年6月唐へ出発した。同行者には僧道慈や万葉歌人の山上憶良らもいたという。翌・・・年,唐の長安(西安)に至って則天武后に謁見,経史をよく読み,容姿温雅だとして司膳員外卿に任命されたという。・・・704・・・年に帰国,その功績によって大和国(奈良県)に水田20町,穀1000石を与えられた。<709>年中納言に任命され,政局に参加。・・・708・・・年に大宰帥」
https://kotobank.jp/word/%E7%B2%9F%E7%94%B0%E7%9C%9F%E4%BA%BA-28983

⇒この遣唐使が派遣されたのは、690年に唐から周(武周)へと王朝が変わったので、日本が白村江の戦いに敗北し一時的に占領されるという屈辱を味わされたため、国交断絶状態にあった唐が、この時点で「滅びた」とみなして、天武朝が、新たに(遣唐使ならぬ)遣周使を派遣した、というのが私の見方です。
 なお、705年に平和裏の禅譲によって唐が復活するわけですが、今度は武周が唐へと名前を変えただけ、ということにして、武周当時の則天武后と交わした20年に一度使いを送るとの約束は履行し続けた、ということではないでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9 (但し、年号のみ) (太田)

(続く)