太田述正コラム#12092006.4.30

<ネパールの危機>

1 始めに

 ネパール王制が存続の危機に立たされています。

 どうしてそんなことになったのかをふりかえってみましょう。

2 ネパールの危機

 1769年に、ネパールに現在まで続くヒンズー教を国教とするシャー王朝が樹立されます。

 初代の国王(Prithvi Narayan Shah)はヴィシュヌ神(Lord Vishnu)の化身と謳われました。

 爾来、ネパールはヒンズー教の上級カーストの支配するところとなり、彼らは古からの様々な特権を自分達のために制度化し、維持してきました。例えば、月経中の女性を牛小屋に閉じこめるという慣習が違法となったのは、つい昨年のことです。

 1960年代の初めに、現在の国王の父親のマヘンドラ(Mahendra)によって、一党独裁の体制(Panchayat regime)が構築され、それが約30年続きました。

 1990年に民主化をもとめる暴動が起き、数百人の人々が命を落とし、マヘンドラの息子のビレンドラ(Birendra)が新国王となり、立憲君主制がネパールに導入されます。

しかし、せっかく政治改革がなされたというのに、ネパールの政治家は無能で腐敗しており、しかも抗争に明け暮れたため、人々の生活は少しも楽になりませんでした。

 こうした中、1990年代半ばからは自称毛沢東派ゲリラが武装闘争を始め、やがてこのゲリラは田舎を中心に、ネパールの田舎の80%を支配するに至ります。これまでにこのゲリラによって13,000人もの犠牲者が出ています。

 2001年、悲劇がネパールを襲います。

 ビエンドラ国王の息子が、酔っぱらって、国王一家の団らんの場で小銃を乱射し、一家の大部分(国王・王妃・ほか7名)を射殺してしまうのです。

 この結果、不人気であったビエンドラの弟ギャネンドラ(Gyanendra)が即位します。ギャネンドラの息子がそれに輪をかけて人気がなかったこともあり、ネパール王国の行く手には暗雲が立ちこめます。

 即位したギャネンドラは、毛沢東派ゲリラ退治に全力を傾注し、2002年には議会を解散し、首相を馘首します。政治家達に愛想を尽かしていたネパールの人々は喝采を送り、不人気だったビエンドラ人気は浮上します。

 米国は小銃2万丁、インドも小銃2万丁、英国はヘリコプターを100機提供するとともに、資金援助も行い、ギャネンドラを支援します。しかし、ネパールの2,800万人の人々の半数は依然、電気も水道も、医療も教育もない生活を余儀なくされています。

ところが、2005年2月にはギャネンドラは絶対的権力を掌握し、直接統治に乗り出し、あらゆる反対意見の封殺を図り、逮捕・拘禁・行方不明者・死者の数は鰻登りに増えることになります。この10年間で、ネパールの治安部隊によって殺害された人々の数は、毛沢東派ゲリラによって殺害された数を上回る、という説もあります。

急速にギャネンドラから離れたネパールの世論を背景に、主要7政党は団結して反ギャネンドラ運動を開始し、昨年11月には毛沢東派ゲリラとの間で合意を取り結び、ゲリラは武器を放棄する代わりに国王から実権を剥奪するか王制を廃止する憲法改正を行うとの条件の下で議会議員選挙に参加することを約束しました。

そしてこの主要7政党は、毛沢東派ゲリラと提携しつつ、今年4月6日からゼネストに突入するとともに、首都カトマンズ(Kathmanduを中心に、大規模デモを開始したのです。

ギャネンドラの過ちは、このデモを強権的に弾圧しようとしたことです。

 この結果、21日に15人の死者と数百人の負傷者が出てしまいました。

 とりわけ致命的だったのは、警察の銃撃によって死亡したこのうちの1人の庶民の亡骸を、警察が国王の命で、彼の家族に告げることなく火葬にしてしまったことです。これはヒンズー教の精神にもとる蛮行であり、この瞬間、まだかすかに残っていた、ギャネンドラのヒンズー国王としての神聖さに対するネパールの人々の敬意は、完全に消え失せ、これを契機に、平和的であったデモは、暴動に転化してしまうのです。

 もはや警察、そして後に控えさせていた軍にも全幅の信頼を抱けなくなったギャネンドラは、4月24日、ついに7政党の要求に屈し、4年近く開かれなかった議会の28日招集を発表するのです。

 しかし、これを受けて、ゼネストもストもほぼ終わり、毛沢東派ゲリラまで、3ヶ月間の休戦を宣言したとはいえ、7政党が新しい首相に選んだのは84歳の、首相歴が何回もある長老議員(最大の政党たるネパール国民会議派党首)のコイララ(G.P. Koiralaであり、政治家達が、心を入れ替えて、まともに政治を行うのか、特に毛沢東派ゲリラをなだめすかして彼らを政治プロセスに引き入れることができるかどうか、心許ない限りです。

 いずれにせよ、ネパール王制はいまや、風前の灯火であると言って良いでしょう。

(以上、http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,1758808,00.html(4月22日アクセス)、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-nepal24apr24,1,6344736,print.story(4月25日アクセス)、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/04/25/AR2006042500566_pf.html

http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,1760502,00.htmlhttp://www.nytimes.com/2006/04/25/opinion/25upadhyay.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print(いずれも4月26日アクセス)、http://www.guardian.co.uk/international/story/0,,1763920,00.html(4月29日アクセス)、http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4953816.stm(4月30日アクセス)による。)

3 感想

 自由・民主主義がグローバルスタンダードとなった現代において、君主制を維持することはどこの国でも容易なことではありません。

 立憲君主制にし、更に実権のない君主制にするのは、現代において君主制を維持するための生活の智恵なのです。

 ギャネンドラ国王の場合、この生活の智恵にあえて逆らった上、彼はそもそも君主としての資質に欠けるところがあるときているのですから、ネパールの君主制の維持が困難になったのは当然であり、自業自得だと言うべきでしょう。