太田述正コラム#11697(2020.12.5)
<皆さんとディスカッション(続x4643)/第一次弥生モードの時代の曙>

<太田>

 コロナウィルス問題。↓

 <一体、どこの国のハナシじゃ?↓>
 「・・・死者は45人増えて計2305人となった。・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55811680Z10C20A2I00000

 それでは、その他の記事の紹介です。

 これ、ホントかなあ?↓

 ・・・The living is easy: Yakuza boss’s home. Photo: Wikimedia Commons.・・・
https://asiatimes.com/2020/12/yakuza-japans-armed-venture-capitalists/

 そりゃ、帝国海軍についてはその通りだあね。↓

 「戦時中、旧日本海軍の飛行予科練習生(予科練)に志願し、終戦直前には、米軍の上陸を食い止める「水際特攻」の訓練に携わった北九州市八幡西区の篠原守さん(91)・・・は「今にして思えば作戦や組織に不合理な部分があった。戦争は絶対にしてはいけない」と訴えた。
https://mainichi.jp/articles/20201204/k00/00m/040/297000c

 日・文カルト問題。↓

 <韓国の大大大大大勝利。だけど、日韓が同期を続けてらー。↓>
 「・・・死者は前日から4人増えて計540人となった。・・・
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20201205000200882?section=society-culture/index
 <なんで韓国紙が菅おじさんをべた褒めすんだよー。↓>
 「菅は安倍以上に手強いかも–永遠の「ナンバー2」だった菅首相–日本政府の宿願だった通信料金の値下げ問題を解決–並外れた実務能力とディテール、推進力–安倍以上に手強い相手・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/12/04/2020120480034.html
 <韓国人強制労役はなく、(半島住民を含む)日本帝国臣民の徴用があっただけよ。↓>
 「日本の軍艦島報告書、韓国人強制労役の件は依然として含まず・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/12/05/2020120580012.html
 「「軍艦島強制徴用」をぼかす日本…韓国外交部「暗い歴史に言及せず遺憾」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/273051
 <ご愛顧感謝。↓>
 「東野圭吾の新作小説 韓国含むアジア7カ国・地域で同時出版・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20201204003500882?section=japan-relationship/index
 <スウェーデンの店の話も出したのはよろしい。↓>
 「開店日20億ウォン売上のユニクロ韓国明洞中央店、1月に閉店へ・・・
 これに先立ち先月30日、スウェーデンのファッションブランドH&Mも国内1号店の明洞ヌーンスクエア店を閉店した。・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/273055
 <大規模猿芝居続く。↓>
 「検事総長の職務復帰 法相が裁判所の決定に抗告=韓国・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/12/04/2020120480210.html
 「尹錫悦検察総長「法相が懲戒委にかけておきながら、自ら懲戒委員まで選ぶのは違憲」–憲法訴願・効力停止仮処分申し立て–秋長官は裁判所の尹総長復帰決定に抗告・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/12/05/2020120580005.html
 <やっぱ、「岩盤」にぶっかったな。↓>
 「文大統領の国政支持率39%…また<別の世論調査でも>40%割れ・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/273037
 <米韓両国にとってアイゴーだわ。↓>
 「米議会「在韓米軍の規模維持」に合意、バイデン氏の意向を反映か・・・」
https://www.donga.com/jp/home/article/all/20201205/2262144/1/%E7%B1%B3%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E3%80%8C%E5%9C%A8%E9%9F%93%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E3%81%AE%E8%A6%8F%E6%A8%A1%E7%B6%AD%E6%8C%81%E3%80%8D%E3%81%AB%E5%90%88%E6%84%8F%E3%80%81%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%90%91%E3%82%92%E5%8F%8D%E6%98%A0%E3%81%8B

 私がスタンフォード留学時に学生のパーティで吸って(吸わされて)から半世紀近く経つ。
 マリファナに関しては、米国の歩みものろいな。↓

 「米下院は4日、マリフアナ(大麻)を連邦法で合法化する法案を史上初めて可決した。下院多数派の民主党議員の大半と、共和党議員の一部が賛成した。共和党が多数を占める上院を通過する見通しはないが、全米各州では州法で大麻を合法化する動きが広がり、「機運の高まり」(ワシントン・ポスト紙)は中央政界にも及び始めている。・・・
 36州で大麻の医療使用が認められ、15州では嗜好品として使うことも合法化されている。このほかに5州では11月の大統領選と同時実施された大麻合法化の是非を問う住民投票で賛成が多数を占めた。」
https://www.sankei.com/world/news/201205/wor2012050007-n1.html

 イスラエルの諜報能力には恐るべきものあり。↓

 Ex-CIA Chief: Israel Helped Kill Bin Laden・・・
https://www.haaretz.com/magazine/.premium.HIGHLIGHT.MAGAZINE-cia-john-brennan-israel-bin-laden-netanyahu-biden-1.9346592

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <定番。↓>
 「日本の美人ブロガーの食事を見た中国ネット民「食べ物がすべて『防腐剤』だ」・・・」
http://news.searchina.net/id/1694969?page=1
 <最近の間歇的定番。↓>
 「中国人が「インド高速鉄道を受注した日本」に感謝するワケ・・・中国の動画サイト西瓜視頻・・・」
http://news.searchina.net/id/1694952?page=1
 <その通りなんだが、日本が「好んで」そうしてることを習ちゃんはご存知だぜ。↓>
 「そういうことか! 優れた武器を作れる日本が「米国からも購入する理由」・・・
 「日本には軍事力や軍事産業の点で十分な独立性がない」からだと分析。つまり「米国が許さない」からだと論じた。日本の国防力は米国のアジア太平洋における軍事配置の一部に過ぎず、米国の「雑役」をしているだけだとしている。 
 このほか、日本は長く武器輸出を原則禁止していたため、自主開発した武器は自衛隊で使用するだけで市場が極めて小さく、そのためにコストが高くなったと指摘。資金不足が軍事産業の発展に影響を及ぼしたと説明した。民間の進んだ技術を応用することで、一部の部品やシステムは非常に優れてはいるものの、全体的な発展とは至らず、日本の軍事産業は「歪んだ発展」となったため、イージスシステムは作れないと主張している。」
http://news.searchina.net/id/1694956?page=1
 <新しい部分もある。↓>
 「日本人や韓国人は民族衣装を着ているのに! なぜ中国では着られないのか・・・
 中国メディアの快資訊・・・記事によると、結論から言えば「中国人は漢民族だけではないから」だという。・・・
 チャイナドレスは満州族の民族服がベースとなっている衣装であり、中国の伝統衣装とは言えない。中国人の大多数を占める漢民族の民族衣装である「漢服」は日本ではあまり知られていない」
http://news.searchina.net/id/1694968?page=1
 <新しい。↓>
 「・・・中国メディアの快資訊は・・・「日本では猫が特別扱いされている」と紹介し、日本人は世界で最も猫好きの国民ではないかと論じる記事を掲載した。・・・
 記事は、絵画など過去の芸術品を見る限り、中国で猫は「狩りをする動物」として扱われたのに対し、日本では「幸運を呼ぶ動物」と見なされ大切にされたと紹介。猫の神社・寺が多いのも、それをよく表しているという。また、猫の「癒し効果」も、日本人を猫好きにさせていると分析している。確かに、日本には非常に多くの猫カフェがあり、訪れる人を癒してくれている。」
http://news.searchina.net/id/1694957?page=1
 <同じく。↓>
 「中国のポータルサイト・百度<が>、新型コロナウイルスの感染者増続く日本において、新型コロナ以上に自殺者の増加が深刻になっていると報じた。・・・
 もともと日本社会に存在した高齢化、家庭内暴力、社会亭孤立といったネガティブな要素に、新型コロナが加わったことで、自殺者数が大きく増加したとの分析が出ていることを紹介した。
 さらに、特に女性の自殺者が急増している背景には、女性の多くがホテル、飲食業、小売店など、新型コロナによる大きな打撃を受けたサービス業界に従事していることが関係しているとする専門家の見方を伝え、サービス業界で大規模な人員削減が行われていることで、多くの女性が精神的な圧力を抱えている可能性があるとした。」
http://news.searchina.net/id/1694971?page=1
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 一人題名のない音楽会です。
 パガニ-ニ(Paganini)のヴァイオリン協奏曲の5回目です。

Violin Concerto No. 5 in A minor(注) ヴァイオリン:Alexandre Dubach 指揮:Lawrence Foster オケ:Orchestre Philharmonique de Monte-Carlo
https://www.youtube.com/watch?v=s6xzTYE5TN8

(注)(No.6よりも早く、1830年に作曲された、パガニーニ最後のヴァイオリン協奏曲。オケ譜は書かれなかったのか、失われたのか、存在せず、1958年にFederico Mompellioによって作成された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Violin_Concerto_No._5_(Paganini)

(続く)
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             –第一次弥生モードの時代の曙–

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1 序に代えて–聖徳太子コンセンサス再訪

2 天皇家

[系図]
◎白河天皇(1053~1129。天皇:1073~1087年)
[源為義の河内源氏棟梁性]
[天下三不如意]
[院政–これまでの説と私の説]
[源氏物語の生誕]
〇堀河天皇(1079~1107。天皇:1087~1107年)
◎鳥羽天皇(1103~1156年。天皇:1107~1123年)
[藤原璋子について]
[鳥羽・後白河と平忠盛・清盛]
[白河・鳥羽・後白河、と、源為義・義朝そして源義康]
○崇徳天皇(1119~1164年。天皇:1123~1142年)
○近衛天皇(1139~1155年。天皇:1142~1155年)
◎後白河天皇(1127~1192年。天皇:1155~1158年)

3 保元の乱

4 平治の乱

[源頼朝の助命]
[荘園公領制と荘園整理令]

5 終わりに代えて
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1 序に代えて–聖徳太子コンセンサス再訪

 いつものことだが、溜まりに溜まった、學士會会報のバックナンバー群の頁を次々に繰っていたら、白石太一郎<(コラム#11164等)>「百舌鳥・古市古墳群の語るもの」(學士會会報March No.941 2020-II)が目に留まったので、その、私の関心事項に合致する部分をご紹介し、それに私のコメントを付すところからスタートしたい。
 
 「・・・戦後の古墳研究の進展の結果、・・・前方後円墳を中心とする古墳の造営は、「ヤマト政権」という汎日本列島的な広域首長連合の政治秩序と密接に関係していることが明らかになりました。
 ただし、1961年に初めてこの説を発表したのは、考古学者ではなく、古代中国史がご専門の西嶋定生<(注1)>先生でした。・・・

 (注1)にしじまさだお(1919~1998年)。東大卒、東方文化学院研究員、東大東洋文化研究所研究員、同大文東洋史学科助教授、教授、同大博士(文学)、名誉教授。「はじめ明・清の社会経済史を専攻したがのちに古代史に移り、中華帝国冊封体制論を唱え、邪馬台国北九州説に与した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B6%8B%E5%AE%9A%E7%94%9F

⇒考古学者でも日本史学者でもないけれど支那史の専門家ではあった西嶋と比較するのはおこがましいが、私が、日本史に口を出す罪の意識が少しは緩和されるというものだ。(太田)

 <さて、>4世紀後半になると、なぜか奈良盆地の東南部では大きな古墳が造られなくなり、奈良盆地の北部、平城山丘陵の南斜面を中心に、・・・後の平城京の北辺<に造られるようになり、>・・・さらに4世紀末から5世紀には大阪平野南部に移<るのですが、それは、一体、>・・・なぜ・・・<なの>でしょうか。・・・
 <そ>のヒントが『日本書紀』にあります。
 5世紀後半の雄略天皇の時代、倭国は朝鮮半島へ軍隊を送り、高句麗などと戦っていました。
 この時、大将軍を務めたのが紀氏の族長、紀小弓<(きのおゆみ)>宿禰です。
 彼は朝鮮半島で亡くなり、遺骸は・・・紀氏の本拠地の一部<である、>・・・和泉(大阪府)の最南端<の>・・・淡輪(たんのわ)に葬られました。・・
 もう一つ、例を紹介します。
 6世紀前半の継体天皇の時代、近江の豪族の近江毛野(おうみのけの)が朝鮮に派遣されましたが、・・・病気になり、帰途、対馬で亡くなりました。
 遺骸は船で運ばれ、・・・出身地である近江に葬られました。
 以上から、古墳はその政治勢力の本貫地(出身地)に造るのが原則だったと分かります。
 この原則を認める限り、大王墓が大阪平野南部に移動したのは、大阪平野南部の勢力がヤマト王権の盟主権を掌握したからだと考えられます。・・・
 ヤマト王権内のリーダーシップが、大和から河内の勢力に移った背景は、当時の東アジアの国際情勢をみると理解できます。
 4世紀の東アジアは・・・漢人<の>・・・南<と>・・・遊牧民<の>・・北<とに>・・・分裂<した>大混乱期だったのです。
 その影響は朝鮮半島にも及びました。
 342年、五胡の一つ、鮮卑の建てた<北の>前燕が高句麗を攻撃しました。
 当時の高句麗は朝鮮半島北部から<支那大陸>東北地方にかけて支配する大国でしたが、この攻撃で多くの土地と人民を失いました。
 以後、高句麗は北で失ったものを南で回復すべく、積極的に南下策を取ります。
 高句麗の南下は朝鮮半島南部の百済や新羅にとって、国家存亡の危機でした。
 新羅は強力な騎馬軍団を持つ高句麗には到底対抗できないと考え高句麗に降りましたが、百済はあくまでも武力で高句麗と対抗しようと考え、倭国に目をつけました。
 倭国は技術や文化では遅れていましたが、人口は多かったようです。
 倭国も鉄資源などを朝鮮半島に頼っていたので、百済と同盟し、朝鮮半島に出兵しました。
 このことは『日本書紀』にも書かれていますし、石上神宮に今でものこる「七支刀」が、その表裏に刻まれた60余字の銘文から、369年に百済と倭国の同盟関係の成立を祝い、百済王家から倭国王へ贈られたものであることが知られることからも、疑いありません。

⇒話は、白石の書いていることとは逆で、前燕によって高句麗が弱体化したので、百済が高句麗に侵攻した、ということであったようだ。↓
 「勢力を大幅に強めていた鮮卑の慕容氏もまた、319年には晋の平州刺史崔毖を破って遼東に勢力を拡張し高句麗と直接対峙するようになった。高句麗は撫順に移転していた玄菟郡を倒し、その地に新城(高爾山城)を築いて西方の拠点とした。しかし、慕容氏の慕容皝は337年に燕王(前燕)を称し、342年には大軍をもって高句麗に侵攻した。高句麗はこの戦いに敗れ丸都城が再び失陥した。高句麗王釗(しょう、故国原王。在位:331年-371年)は翌年、前燕に臣下の礼を取り王弟を入朝させることによって難局を乗り切ったが、高句麗は大きな打撃を受けた。350年代には前燕に人質を入れて戦争中に捕らわれていた王母を取りもどし、征東大将軍・営州刺史・楽浪公として冊封された。この頃、朝鮮半島中央部で新たに馬韓諸国が統合して形成されていた百済の近肖古王によって旧帯方地域が奪われた。故国原王は369年に百済攻撃に乗り出したが敗退し、371年にも大同江を越えて再び百済を攻撃したがこれにも敗れ、逆に平壌を攻撃した百済軍との戦いで流れ矢にあたり戦死した。
 国王戦死によって高句麗は混乱し、跡を継いだ小獣林王(在位:371年-384年)と故国壌王(在位:384年-391年)の兄弟は国制の立て直しに邁進しなければならなかった。小獣林王は前燕を滅ぼした前秦との関係強化に努めた。372年に秦王苻堅(在位:357年-385年)から僧順道や仏典・仏像が贈られ、375年には寺院が建立された。これが高句麗への仏教公伝である。また同じ年には教育機関として太学(大学)が設けられ、具体的な内容は伝わらないものの律令が制定されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97

 東アジアで激変が生じていた4世紀前半、日本列島では、大王墓が奈良盆地東南部(本来の大和の地)に営まれた時代でした。
 しかし、邪馬台国以来の宗教的・呪術的な性格が強い大和の王権では、激動の東アジアの国際情勢に適切に対応できませんでした。
 そこで、以前からヤマト王権の内部で朝鮮半島との外交や交易を担当していた大阪湾岸の和泉・河内の勢力が、外交や政治を主導するようになり、やがて王権そのものを掌握していったのは当然のことだと思われます。
 朝鮮半島に出兵するといっても、『魏志』倭人伝に「牛馬なし」とあるように、当時の倭国に馬はいませんでした。
 これでは高句麗の騎馬軍団と戦えません。
 そこで百済は多くの優れた技術者を倭国に送り、馬匹や馬具の生産技術、騎馬戦術を倭人に教えました。
 百済だけでなく、百済の影響下にある伽耶諸国も自国の存亡がかかわっているので、積極的に多くの技術者を倭国に送り、様々な技術や情報を伝えました。

⇒しかし、馬の去勢文化は日本に伝わらなかった。
 これは、日本が馬を軍事戦力化することを恐れて百済等があえて伝えなかったということではなく、恐らく高句麗自身、遊牧民の国ではなかった(典拠省略)ので去勢文化がなく、従って、百済等にもその文化が伝わっていなかった、という可能性も皆無ではないが、後述するように、そうではないだろう。(太田)

 その結果、大勢の渡来人が渡ってきました。・・・
 「韓式系土器」<(注2)>というのは、渡来人が持ち込んだ朝鮮半島の土で焼かれた土器と、それらが日本で破損した時に日本の土で焼き直した土器の両方を挿します<が、>・・・奈良盆地南部(現在の飛鳥地方)からも出土してい<るけれど、>圧倒的に多いのは河内湖周辺や和泉北部です。

 (注2)「韓式土器の時期は多くの場合5世紀代であり、中でも中葉前後から後半にかけて集中的にみられた。・・・渡来系遺物には、朝鮮半島に源流を求めるもの、朝鮮半島の中でも楽浪の地に比定出来るもの、さらに<支那>大陸に直接求められるものが存在する。」
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN00181569-19831200-1003.pdf?file_id=593

 これらの地域に、より多くの渡来人が定着していたと考えられます。・・・
 こうして4世紀後半から5世紀初めにかけて、遅れていた倭国もようやく東アジアの文明社会の仲間入りができました。・・・
 実は、大和にある4世紀に造られた王墓から馬具は全く出土していません。
 しかし、大阪平野の・・・古墳群からは見事な馬具が出土しています。
 この馬具こそ、倭国が東アジアの文明社会に仲間入りしたことを具体的に物語る考古資料にほかなりません。・・・
 <ちなみに、>古市古墳群で最大の誉田御廟山古墳<(こんだごびょうやまこふん)>は第15代応神天皇陵であり、百舌鳥古墳群<(もずこふんぐん)>で最大の大仙陵古墳は第16代仁徳天皇陵であるという宮内庁の治定は正しいのではないかと思います。」

⇒この白石の主張(白石説)には根本的な問題がある。
 彼は、日本の(私の言うところの)弥生化は4世紀後半から、百済の働きかけで始まった、と主張していることになるのだが、仮にそうだったとすると、日本の弥生化・・正しくは縄文的弥生性の獲得・・努力が聖徳太子によって、彼が皇太子となった推古元年(593年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
に始まるとした私の説には大幅な修正が求められることになるのだが、果してそうか。

 まず、第一に、白石説が正しいのであれば、渡来人の主力は百済人を中心とした半島人だということになるはずだが、「3世紀末~6世紀、古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者や亡命者として<支那>大陸や朝鮮半島から人々が渡来した。・・・ヤマト王権に仕えた渡来人としては、・・・朝鮮半島ではなく<支那>大陸や中東諸国にルーツを持つ人物が多い」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA
というのは、渡来人全体についても言えることなのであろうところ、この点で、既に白石説は破綻している。
 そして第二に、これら渡来人の日本渡来目的は、「学芸、政務、外交、手工業、軍事、土木等あらゆる側面」にわたっており、
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN00181569-19831200-1003.pdf?file_id=593 (植野浩三「韓式土器についての予察」)
軍事はそのワンオブゼムに過ぎず、私見では、要は、新しい感慨技術や、支那の北朝を通じて支那の南部(江南)に伝わったところの、家畜としての馬や牛を使った、つまりは、動物力を使った開墾や運搬文化、を求めたヤマト連合王権中の先覚的な人々の需要に応じ、これらの技術や文化を引っ提げて渡来した、と、私は見ており、この点でも、白石説は間違っている。
 軍事がメインではなかったことの決定的根拠は、去勢文化(注3)が日本に伝えられることがなかった点だ。

 (注3)「ながい狩猟活動の経験のなかから去勢と搾乳という技術を確立することによって、遊牧は成立したのである。」(松原正毅)
http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2008/200804.htm

 高句麗(Goguryeo)は定住民によって構成される国家だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97 (←軍事に係る記述なし!)
が、その軍隊の中核は国王直轄の騎兵で、彼らの兜は中央アジアのスタイルのものであったこと等から、また、半遊牧民たる隷属民からなる歩兵を擁していたことからも、
https://en.wikipedia.org/wiki/Goguryeo
騎兵は去勢した馬に乗馬していたと思われる。
 だから、高句麗と接壌していた百済が、高句麗の軍事力、就中その中核たる騎兵、に騎兵で対抗しようとしたのなら、当然、去勢した馬を用いたはずだし、白石説のように、日本に馬/騎兵を創出した上でその日本の支援を得ようと思ったのだとすれば、当然、去勢技術も日本に伝えたはずだが、その形跡がないどころか、日本では、明治維新に至るまで、馬の去勢は行われずじまいだった!
 とまれ、渡来人渡来のおかげで、日本の稲作を中心とした農業生産量は飛躍的に増大したと思われる。
 (応神天皇が実在したという前提の下だが、)4世紀後半の応神天皇に至って、天皇家・・応神天皇家・・の、軍事力、つまりは経済力(農業生産力)、の卓越を背景として、ヤマト王権が連合国家から単一国家へと進化を遂げた可能性は大いにありうる。
 ちなみに、井上光貞は応神を、「「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」としている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところだ。
 (なお、白石説とほぼ同じ説を蒲池明弘が唱えている。↓
 「馬の繁殖に必要なのは、馬のエサが豊富な天然の草原だ。肝心の草原が朝鮮半島には乏しかったのだ。その結果、大きな馬産地は成立しなかったと考えられる。
 朝鮮半島で戦争が続き、馬への需要が高まったとき、朝鮮半島あるいは大陸から馬の専門家が続々と日本に渡来したといわれている。考古学の知見によって示されていることだが、文字記録がほとんどないので、その背景はわかっていない。
 東アジアにおける草原分布をふまえて想像をめぐらすならば、朝鮮半島南部の人たちが、日本列島に注目したのは、そこに馬の飼育にふさわしい草原的な風景が見えたからではないだろうか。
 日本の歴史を考えるうえで、きわめて重要であるにもかかわらず、従来、軽視されていたことがある。それは、日本には「草原の国」としての一面があることだ。一説によると、縄文時代は列島の三割を草原的な環境が占めていたともいう。<支那>東北部からモンゴルに至る大草原をのぞけば、東アジア、東南アジア地域のなかで、日本は有数の草原のある国であり、それを背景とする馬産地が関東、東北、九州などに形成された。・・・」
 朝鮮半島と日本列島は同じような緯度に位置し、双方とも国土の大半を温帯が占めている。それにもかかわらず、日本列島には草原の環境が目立ち、各地に馬産地ができたのに対し、朝鮮半島はそうならなかった。なぜなのだろう。
 最大の原因は、火山の有無だと思われる。・・・
 火山のまわりに草原ができやすい第一の要因は、土壌の薄さにある。・・・
 樹木が根をはり、十分な水分、栄養分を得ることは難しい。・・・
 火砕流を基盤として形成される土地は、透水性が高く、雨水は地下深くに移動する。そのため、樹木が十分な水を得て成長することができない。・・・
 日本列島は台風、集中豪雨などまとまった雨が多いうえ、火山活動やプレートの運動による圧力によって、急傾斜の山がたくさんできている。そのため、流域の安定しない急流の川が多い。河川の氾濫<も>樹木が育つことを阻害する・・・
 <にもかかわらず、>日本<で>・・・馬の普及が遅れた<のは、>・・・たぶん朝鮮半島側で・・・安全保障上の理由<から、>・・・技術流出を恐れていたから<、と思われる。>」(蒲池明弘(注4)「「馬」の伝来が歴史を変えた!」より)
https://books.bunshun.jp/articles/-/5265 

 (注4)1962年~。早大卒、読売新聞社勤務を経て、桃山堂株式会社を設立。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784166611225 

 この蒲池説に対しても、白石説に対するのと同じ批判が基本的に当てはまるが、それはそれとして、蒲池説で参考になるのは、日本列島が馬の飼育に朝鮮半島よりも向いていたという、もっともらしい話だ。
 蒲池は馬にしか触れていないけれど、同じことが牛についてもあてはまると思われる。
 日本には水田や畑もあるが、その山地以外の多くが草原に覆われているという話を聞いた、朝鮮半島を含む大陸の人々中、支那北部の圧迫を受けた江南の人々は、支那北部からの圧迫から逃れて、自分達の祖先の弥生人と同様に、直行して、或いは朝鮮半島南部を経由して、日本列島に、自分達の稲作文化マークII・・動物力を活用した稲作・・と共に渡来したのではなかろうか。)
 更に第三に、(これは、太田の用語に馴染みがないところの白石や蒲池向けではなく、馴染みのある太田コラム読者向けだが、)ヤマト王権は、結果として統一国家の成立に成功し、国力も充実したことから、朝鮮半島南端のヤマト王権の勢力圏を拠点に、4世紀末から5世紀初にかけて、(恐らくはこの拠点から出動する形で、)高句麗に対し、累次の攻勢的防禦作戦を取ったと思われるところ、そのいずれもがヤマト王権側の敗北に終わったようである
https://pornl.com/en/asami%20ogawa/
ことから、日本が縄文的弥生性を帯びることに成功した、とは到底考えられないという点だ。
 にもかかわらず、高句麗が海を渡って日本列島に反攻しなかったことはもとより、朝鮮半島南端のヤマト王権の勢力圏を征服しようとした気配すら窺えないのは、その1世紀半超後の663年の白村江の戦いでの敗北の時と同様、「倭国軍は豪族軍の寄せ集めで、地方豪族が配下の農民を徴発して連れて行っただけだった」
https://biz-journal.jp/2019/01/post_26492_2.html
ためだろうが、それでも、倭の動員可能な兵力量は相当なものであり、しかも、兵士達が死を恐れずに戦った・・ずっと後の時代だが、「南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠<(はなはだ)>、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。・・・」と述べ、また元朝の文人・呉莱は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。・・・」<と述べている。>」(コラム#11375)・・ことから、躊躇した、と、私は想像している。(太田) 

2 天皇家

 では、本来のテーマに入ろう。
 まず、第一次弥生モードの時代の曙の時代の主役たる歴代天皇を振り返るところから始めよう。

—————————————————————————————–
[系図]

 【系図1:天皇家】

 白河-堀河-鳥羽-崇徳
        -後白河-二条-六条
            -以仁王
            -高倉-安徳
               -後鳥羽
  -近衛

 【系図2:藤原氏】

                              後三条天皇
                               |
-茂子-白河-堀河-鳥羽☆
(妹)      |-崇徳天皇
                     (閑院流)     ——苡子 |-後白河
                       -公季-実成-公成-実季-公実-待賢門院   /
                        ↑         ※ -三条実行  二条
                        弟          -西園寺通季
             -長良         ↑(九条流)     -徳大寺実能
藤原房前-真楯-内麻呂-冬嗣-良房-基経-忠平-師輔-伊尹-義懐-延円-義綱-娘       
(北家) (中関白家) |
     -兼家-道隆-隆家-良頼-良基-隆宗-宗兼-池禅尼-平頼盛
                                   -宗子*         (中関白家)                                        -経輔-師家-家範-基隆-忠隆-信頼
                       -道兼
-道長-頼通-師実-師通-忠実-忠通-近衛基実
                      (御堂流)           -松殿基房
      -能信     -頼長-師長
                                 公実※                                        (妹)|
             (冬嗣流)  (勧修寺流)       -光子(堀河/鳥羽乳母) 
             -良門-高藤-定方-朝頼-為輔-宣孝-隆光-隆方-為房-顕隆-顕頼
-清河(唐で客死)                     ☆鳥羽(顕頼母が乳母)
                            (善勝寺流)  |   
-魚名-末茂 -総継-直道-連茂-佐忠-時明-頼任-隆経-顕季-長実-美福門院-近衛天皇
      (末茂流)                   -家保
|—家成-成親→四条家等
                               宗子(崇徳乳母)
                               -友実-能兼-範季→高倉家
武智麻呂-貞嗣-巨勢麻呂-高仁-保蔭-道明-尹文-永頼-能通-実範-季綱-実兼-信西
(南家)(貞嗣流)                          |
                                  紀伊局(後白河乳母)
                        -季兼-季範-由良御前
                                   |-源頼朝
                                  源義朝

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC ←ここから出発し、
 https://rekishi.directory/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%97%E5%85%BC と
 https://rekishi.directory/%E5%BB%B6%E5%86%86 を参照した。次いで、(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E9%95%B7 ←から遡った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E9%A0%BC ←から遡った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%AE%9F ←から遡った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BE%97%E5%AD%90 ←から遡った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90 ←から遡った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%A5%BF ←から遡った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AD%A3%E7%AF%84 ←から遡ったが、
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AD%A3%E5%85%BC-1137744 ←も参照した。
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F%EF%BC%88%E5%8D%97%E5%AE%B6%E8%B2%9E%E5%97%A3%E6%B5%81%EF%BC%89 ←も参照した。

 【系図3:平家】
   藤原実季-公実-季成———-成子
         -待賢門院    |-以仁王
    |——後白河
    鳥羽 |-高倉-安徳※
                     | -後鳥羽
                               |
-建春門院(滋子)(異母妹)
   (堂上平氏) -時忠(時子の同母弟)
    -高棟王-惟範-時望-直材-親信-行義-範国-経方-知信-時信-時子(二位尼・二条乳母)
                                |-宗盛
                        |-知盛
                        |-建礼門院(徳子)-安徳※
葛原親王-高望王-国香-貞盛-維衡-正度-正衡-正盛-忠盛———–清盛
                             |-重盛(長男)
                                 |
    藤原直道-有穂-連茂-佐忠-時明-頼任-隆経-顕季-家保-家成-経子
       |
                            宗子(崇徳乳母)               ———–経盛(母は源信雅の娘)
———–頼盛(母は池禅尼)

 典拠は省略。
                            

 【系図4:清和源氏】

           (美濃源氏)
           (弟)     -土佐局(鳥羽寵妃。二条天皇乳母?)
     (摂津源氏)-国房-光国-光保x-光宗x
経基王-満仲-頼光-頼国-頼綱-仲政-頼政-仲綱-有綱(義経麾下)
                  -頼兼(大内守護職を父から引き継ぐ)
                  -広綱→→太田道灌
             -明国-行国-多田頼盛-行綱

              (弟)
     (河内源氏)  -義国(荒加賀入道)→新田氏・足利氏
      -頼信-頼義-義家-義忠=為義-義朝x-義平(鎌倉悪源太。母不詳)x
             -義親-為義X   -朝長(松田冠者。母波多野氏)x         
              (兄)     -頼朝○-頼家-公暁
           -義綱(義忠殺害容疑冤罪死) -実朝
           -義光-盛義-義信
            ↑ (平賀氏)
          (義忠殺害真犯人)  -義門○x     母は遊女
                     -希義○(土佐冠者)↓
                     -範頼(蒲冠者。存在秘匿。養父は藤原範季※)
                     -全成●(今若丸。悪禅師)→阿野氏
                     -義円●(乙若丸)→愛知氏
                     -義経●(牛若丸)
                     -坊門姫○-九条良経-道家-藤原頼経-頼嗣
                  -義賢y-義仲-義高
                  -義広(志田三郎先生)
                  -頼賢X
                  -頼仲X
                  -為宗X
                  -為成X
                  -為朝X(鎮西八郎)
                  -為仲X
                  -行家(新宮十郎)

   -満政-忠重-重宗-重実-重成(平治の乱後、義朝の身替りになって自刃)

 X:保元の乱がらみで死亡
 x:平治の乱がらみで死亡
 y:源義平によって殺害
 ○:由良御前(藤原季範娘)の子
 ●:常盤御前(素性不明)の子
 ※:有能な行政官・政治家でありながら、平清盛に滅ぼされた源義朝の遺児である範頼を育て、九条兼実の家司でありながら兼実とそりの合わない後白河院の院司を兼ね、源義経が頼朝に追われた際には義経を支持し、奥州藤原氏の滅亡後に藤原泰衡の弟・高衡を匿う等、当時の権力者の意向に背く危険な選択を選び続けたため、アナーキー性の持ち主だと評価されることもある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F ←をベースにした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E9%96%80%E5%A7%AB_(%E4%B8%80%E6%9D%A1%E8%83%BD%E4%BF%9D%E5%AE%A4) ←参照した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E4%BF%9D ←参照した。
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◎白河天皇(1053~1129。天皇:1073~1087年)

 「母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信<(よしのぶ)(コラム#11557)>の養女である藤原茂子・・・
 1072年・・・、後三条から譲位され、20歳で即位する。関白は置いたが、・・・1073年・・・の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、・・・摂関家の権勢を弱めることに努める。・・・
 父・後三条上皇と<同上皇>の母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁<(さねひと)>親王、更にその弟の輔仁<(すけひと)>親王に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反摂関家の貴族の意志もあり(白河天皇は関白の養女・賢子<(けんし)>を中宮としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。

⇒白河天皇の母は閑院流藤原氏出身である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%8C%82%E5%AD%90
のに対し、実仁親王と輔仁親王の母は三条源氏出身の源基子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B_(%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%94%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
とは言っても、この源基子の母親は藤原北家中関白家の藤原良頼の娘であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%9F%BA%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E9%A0%BC
白河とこの2人の違いなど五十歩百歩だったと言えよう。(太田)

 しかし・・・1085年・・・に実仁親王は薨去し、これにより・・・1086年・・・11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁<(たるひと)>親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。なお、堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した中宮・賢子は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。
 ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、師実も争いを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。

⇒頼通の子(、すなわち、道長の孫)の師実は、奉還された権力の行使に手慣れない白河天皇を積極的にサポートした、ということだろう。
 白河が、後三年の役後10年にわたって干されていたところの、清和源氏の嫡流の義家を、院政開始後の1098年に救った(受領功過定を下ろさせた)(コラム#11412)(後述)ことは、桓武天皇構想の総仕上げに向けての重要な第一歩だった。(太田)

 上記の通り早々に退位したのは実子・善仁親王への譲位が目的であり、善仁親王の母親は[時の内覧・藤氏長者の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%AE%9F ]
師実の養女・賢子であり、後三条天皇の在位期間を例外として、再び2代続けて藤原氏が天皇家の外戚となり、これは実際には摂関政治への回帰だったと言える。

⇒賢子の実父は村上源氏の右大臣源顕房、母は醍醐源氏高明流の源隆俊の娘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B3%A2%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A1%95%E6%88%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9A%86%E4%BF%8A
であることから、到底、「摂関政治への回帰だった」とは言えまい。(太田)

 中宮となった賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前で白河天皇と関係を持っていたと記録に残る女性は、女御となった道子の他は典侍・藤原経子程度であり、数は必ずしも多くない。
 [賢子を非常に寵愛した白河天皇は、賢子が重態に陥った時も宮中の慣例に反して退出を許さず、ついに崩御した際には亡骸を抱いて号泣し、食事も満足に取らなかった。これを見かねた権中納言・源俊明が、天皇は穢れに触れてはいけないからと遷幸を勧めると、「例はこれよりこそ始まらめ」と反論した。白河天皇の嘆きはひとかたならず、・・・1086年・・・円光院を建て遺骨を納め、毎月仏像を造り、さらに円徳院・勝楽院・常行堂などを建てて供養した。・・・

⇒白河は、ある意味、信長の顔色を無からしめるような「近代人」であったと言えよう。
 白河は、自分が背負わされた重荷を、準天皇家出身の賢子・・他方、道子は藤原北家中御門流の藤原能長(よしなが)の娘だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%AD%90_(%E5%A5%B3%E5%BE%A1)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%83%BD%E9%95%B7
・・にも支えて欲しいと願っていたからこそ、その死に衝撃を受けたのではなかろうか。(太田)

 堀河天皇が成人すると、<同天皇は、白河>上皇の政治介入に反発する関白・藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや、後述のように出家したこともあって、白河法皇もこれを許容していた。
 それが大きく転換したのは、師通の急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御、その皇子で白河法皇の孫である第74代鳥羽天皇の即位が契機であったと考えられている。摂関政治の機能停止に伴って、父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政(藤原忠実)の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。・・・

⇒院政の出現は、「結果的に」起こったものではない、と、再度、強調しておこう。(太田)

 <その上で、>1113年・・・に発生したとされる永久の変<(注5)>において、なお期待されていた輔仁親王を没落に追い込んだ。

 (注5)「1113年・・・10月3日(<ないし>4日)に白河法皇の3女で鳥羽天皇の准母である令子内親王の御所に落書が投げ込まれた。そこには「主上を犯し奉らんと構ふる人あり」と書かれ、続いて醍醐寺座主勝覚に仕える千手丸という稚児(童子)が鳥羽天皇の暗殺の準備をしているとの密告が書かれていた。驚いた内親王は父・法皇に落書を見せた。白河法皇は直ちに検非違使を派遣して千手丸を捕縛して厳しい尋問を行った。千手丸は自分に天皇暗殺を命じたのは勝覚の実兄で法皇の異母弟・三宮(輔仁親王)の護持僧を務めていた仁寛(三宝院阿闍梨)であったこと、仁寛が9月の<鳥羽>天皇の病気の際に天皇の崩御とそれに伴う輔仁親王への皇位継承を期待して呪詛を行ったものの、一向にその気配を見せないために千手丸に命じて天皇の暗殺を謀ろうとした、と供述した。そのため、6日には仁寛が検非違使に捕縛されて訊問を受けた。仁寛は無実を主張した。
 白河法皇は摂政藤原忠実をはじめ、源雅実・藤原宗忠・藤原為房ら有力公卿を集めて審議したが、左大臣源俊房とその子供達は招集されなかった。実は仁寛・勝覚兄弟は源俊房の息子であったためである。・・・10月22日、千手丸は佐渡国、仁寛は伊豆国に流罪とする判決が下された。一方で実父である源俊房や勝覚らは、暗殺計画とは無関係であり罰するべきではないとする藤原為房の進言によって連座を免れた・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%B9%85%E3%81%AE%E5%A4%89

 <さて、>政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。特に叙位・除目に大きく介入し、人事権を掌握する。鳥羽天皇践祚後最初の除目である<1108>年正月の除目では、近習の多くを実入りの多い国の受領に任じた。
 ・・・<白河が>早々に退位し<て上皇になっ>た<後のことだが、>・・・賢子の死後は正式な后や女御を入れず、側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持った。晩年の寵妃となり権勢を持った祇園女御<(注6)>など、下級貴族の生まれでも公然と寵愛した。

 (注6)「氏素性<も>・・・生没年<も>未詳。女御の宣旨は下されなかったが、居住地にちなんで祇園女御、または白河殿と呼ばれた。・・・身辺には平正盛が早くから仕えていて、・・・1113年11月11日・・・に正盛が建立した六波羅蜜堂で一切経供養を行っている。待賢門院(崇徳天皇・後白河天皇の生母)を養女としていた。・・・
 ・・・祇園女御の食事に鮮鳥を差し出すことを平忠盛に命じられた加藤成家が、主人からの処罰を逃れるためにあえて白河法皇の殺生禁断令を破った話が伝えられている。祇園女御は、妹の子である平清盛を猶子にしたとされる。清盛が通常の尉ではなく左兵衛佐に任官されたのも、祇園女御の後押しがあったためといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%A5%B3%E5%BE%A1
 「清盛が忠盛の正室の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれないがその死後である)にもかかわらず嫡男となった背景には、後見役である祇園女御の権勢があったとも考えられる。・・・
  <なお、>高橋昌明は・・・清盛の母を祇園女御の妹とする説を否定している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B

 加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。
 また奔放な女性関係と併せて男色<(注7)>も好む傾向があり、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重、平為俊はいずれも男色関係における愛人出身といわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

 (注7)「奈良時代にはめぼしい男色の記録はないが、「万葉集」には大伴家持らの男性に宛てたと思われる和歌が収められている。また、奈良時代後期には孝謙天皇の皇太子に立てられていた皇族・道祖王が「先帝(聖武天皇)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなし、先帝への服喪の礼を失した」などの理由で廃嫡に追い込まれたとの記録がある。
 平安時代末期には男色の流行が公家にも及び、その片鱗は、例えば複数の男色関係を明言している藤原頼長<(1120~1156年)>の日記『台記』に伺える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%8C%E6%80%A7%E6%84%9B

⇒久方ぶりに天皇家が国の権力を行使することになった上、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を完結させなければならない、という重責に白河は押しつぶされそうになって、精神に変調をきたし、性依存症になった、ということではなかろうか。
それでも、白河は、気力を振り絞り、武家総棟梁の指名に向けて、その布石を打ち続ける。
 以下、源義家とその孫である為義の事績を通じて、それを明らかにしたい。
 まず、義家の事績から。(太田)↓

 「<それまで、東国で「活躍」していた>源義家<(1039~1106年)だったが、>・・・1079年・・・8月に美濃で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉・源重宗(清和源氏満政流4代)を官命により追討<させた>。

⇒「1073年・・・の<父>後三条上皇の病没後・・・父同様に親政を目指し」院政実現を期した白河天皇は、権威、と、権力の大宗、を掌握し、失敗したら全責任を負わなければならない状況下で、早くも武家総棟梁指名を期して、河内源氏の棟梁、源義家の重用を開始したわけだ。(太田)

 ・・・1081年・・・9月14日に検非違使と共に園城寺の悪僧を追補・・・。同年10月14日には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と2人でそれぞれの郎党を率いてを護衛したが、この時本官(官職)が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。・・・
 12月4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。この段階で・・・官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。後の「北面武士」の下地にもなった出来事である。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。

⇒今度は、官職もない義家の中央での重用を開始したわけだ。(太田)

 ・・・1083年・・・に陸奥守とな<った。>

⇒満を持し、ついに義家に官職を与えたわけだ。(太田)

 <ところが、義家は、その長が義理の弟であった>清原氏の内紛に介入<する羽目になり、>後三年の役が始まる。ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではない。朝廷では・・・1087年・・・7月9日に「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定した事実も有る事から、『後二条師通記』にはこの戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされている。・・・

⇒親の心子知らず、「肉親」の情と、紛争の種を探し、場合によってはでっち上げてまでして、武家としての軍事技術の錬成を図ってきたという、清和源氏の「家風」から、官職ある立場でありながら、義家は後三年の役にどっぷりと介入してしまった、というわけだ。(太田)

 <1087>年11月に義家は出羽金沢柵にて清原武衡・清原家衡を破り、12月、・・・後付けの追討官符を要請するが、朝廷はこれを下さず、「私戦」としたため恩賞はなく、かつ翌・・・1088年・・・正月には陸奥守を罷免される。
 何よりも陸奥国の兵(つわもの)を動員しての戦闘であり、義家自身が国解<(注8)>の中で「政事をとどめてひとえにつわもの(兵)をととのへ」、と述べているように、その間の陸奥国に定められた官物の貢納は滞ったと思われ、その後何年もの間催促されていることが、当時の記録に残る・・・。

 (注8)こくげ。「律令制で、諸国の国司が太政官(だいじょうかん)または所管の官庁に提出した公文書。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E8%A7%A3-499155

 当時の法制度からは、定められた官物を収めて、受領功過定<(注9)>に合格しなければ、新たな官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれた。・・・

 (注9)ずりょうこうかさだめ。「平安時代中期に太政官において行われた任期を終えた受領に対する成績審査。除目や叙位の際に参考資料とされた。・・・受領功過定は参加者全員一致によるものとされた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E9%A0%98%E5%8A%9F%E9%81%8E%E5%AE%9A

⇒後三年の役中の1086年に、満を期して院政を開始した白河にして、義家を庇いきれず、処罰をせざるをえなかったわけだ。(太田)

 義家は後三年の役から10年後の・・・1098年・・・に・・・白河法皇の意向と正月に陸奥守時代の官物を完済したこともあり、やっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許された。しかし、その白河法皇の強引な引き上げに、当時既に形成されつつあった家格に拘る公卿は反発し<た。>・・・。

⇒ようやく、義家を復活させた白河だったが、公卿達は、そのほぼ全員が聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想など知らされていなかったことから、どうして白河が義家を特別扱いするのかが全く理解できず、反発したわけだ。(太田)

 ・・・1101年・・・7月7日、<義家の>次男<だったが、長男が若くしてなくなったので嫡子になっていた>対馬守・源義親が、鎮西に於いて大宰大弐・大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す・・・。しかし義家がそのために派遣した郎党の首藤資通(山内首藤氏の祖)は<、>翌・・・1102年・・・2月20日、義親と共に義親召問の官吏を殺害してしまう。12月28日ついに朝廷は義親の隠岐配流と資通の投獄を決定する。

⇒それなのにそれなのに、義家の嫡子の義親が重罪を犯してしまい、白河のそれまでのせっかくの布石は水の泡に・・。(太田)

 ・・・1104年・・・10月30日に義家・義綱兄弟<が>揃って延暦寺の悪僧追捕を行っているが、これが義家の最後の公的な活躍となる。

⇒それでも、白河は、義家にチャンスを与えた、ということ。(太田)

 ・・・1106年・・・には<義家の>別の息子の源義国(足利氏の祖)が、叔父で義家・義綱の弟<である>源義光等と常陸国において合戦し、6月10日、<この>常陸合戦<に関し、>義家に<息子の>義国を召し進ぜよとの命が下される。

⇒ところが、今度は、義家のもう一人の子供が悪さを行ったときた。(太田)

 義国と争っていた義光、平重幹等にも捕縛命令が出る中で義家は同年7月15日に68歳で没する。・・・
 死後は三男の源義忠が<河内源氏嫡流の>家督<を>継承し、河内源氏の棟梁となった。

⇒義家自身が亡くなってしまい、止む無く、今度は、義忠を引き立てよう、と、白河は考えたことだろう。(太田)

 翌年の・・・1107年・・・12月19日、隠岐に配流されていた源義親が出雲国目代を殺害し、周辺諸国に義親に同心する動きも現れたため、白河法皇は因幡国の国守であり院近臣でもあった平正盛に義親の追討を命じる。翌年の・・・1108年・・・1月29日に正盛は義親の首級を持って京に凱旋し、正盛が白河院の爪牙として脚光を浴びる。この凱旋に対して、藤原宗忠は『中右記』に「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記す。

⇒ところが、ところが、ここで、義親が、悪行の上塗りをやらかしてしまい、白河は、緊急避難的に義親の近傍に赴任していた伊勢平氏(平家)の平正盛に対処を命じ、正盛がもともと近臣でもあったこともあり、正盛を引き立てざるをえなくなってしまった。(太田)

 <そんなところへ、>・・・1109年・・・、<今度は、>義忠が郎党の平成幹に暗殺される事件が発生。犯人は義綱と子の源義明とされ義親の子(義忠の弟とも)・源為義が義綱一族を追討、義綱は佐渡島へ流され義明は殺害された(・・・1132年・・・に義綱も追討を受け自殺)。

⇒悪いことは重なるもので、義忠まで殺されてしまい、白河による武家総棟梁指名は無期限延期に・・。(太田)

 家督は為義が継いだが、義光・義国や義忠の遺児・河内経国、為義の子・源義朝などは関東へ下り勢力を蓄え、玄孫で義朝の子・源頼朝が鎌倉幕府を築く元となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6

 次に、為義の事績からだ。(太田)↓

 「源為義<(1096~1156年)は、>・・・1106年)に義家が死去すると義忠が家督を継ぐが、・・・1109年・・・に暗殺された(源義忠暗殺事件)。義忠の叔父・源義綱一族が嫌疑を受けて追討の対象になると為義は美濃源氏の源光国と共に追討使に起用され、義綱を捕縛して京へ凱旋した。この功により、為義は14歳で左衛門少尉に任じられた。
 初期の為義は院との関係が深く、・・・『愚管抄』には白河法皇が「光信、為義、保清の三人を検非違使に任じ、即位したばかりの鳥羽天皇を警護させた」とあり、永久の強訴や・・・1123年・・・の延暦寺の強訴では平忠盛と並んで防御に動員されるなど、院を守護する武力として期待されていたことが分かる。為義の最初の妻も白河院近臣・藤原忠清の娘で、長男の義朝を産んでいる。・・・1124年・・・頃には検非違使に任じられた。しかし、同い年で任官もほぼ同時だった忠盛が受領を歴任したのに対して、為義は一介の検非違使のまま長く留め置かれ、官位は低迷することになる。
 為義が昇進できなかった最大の原因は、本人と郎党による相次ぐ狼藉行為だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9

⇒三度目の正直、と、白河は、為義の指名準備を始めるが、本人とその関係者のオウンゴール連発でお手上げ状態に・・。
 それでも諦めるわけにいかない白河は、今度は、為義の子の義朝に入れ込むことになる。(太田)

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[源為義の河内源氏棟梁性]

 「義忠の死後、<河内源氏の>家督・・・が為義、義朝、頼朝と継承されたとするのは、頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く前後あたりからのことであり、為義在世中は<為義が>棟梁として存在していたかは定かではない。一部に義家が後継指名をしていたとする史料があるが、後世の作で当時の史料からは確認できない。また為義と同じく、長兄の源義信や、義忠の次男の源義高、義家の三男の源義国らも当時、河内源氏の勢力の一部を継承しており、義忠後継を自任していたことがわかっている。また、実際には河内源氏および<その他の>清和源氏はそれぞれの系統が独自の道を歩み、為義の時点では各系統の上に立つ「嫡流」というものは存在しなかったという見解もある。
 為義と同時期に勢力のあった河内源氏の一族<として、>
源義国…従五位下加賀介。義家の三男。新田氏・足利氏の祖。義重・義康の父
源義信…従四位下左兵衛佐。義親の長男
源経国…義忠の長男
源義高…従四位下左兵衛権佐。義忠の次男
源義光…従五位下刑部少輔。義家の三弟
源義時…<六位>左兵衛尉。義家の六男。河内源氏本拠地の石川荘を相続
<がいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9

⇒義国に、京での、あるいは、京からの指示を受けた活動を行った形跡はないし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%9B%BD
義信には、「武士として目立った活動は見られない」し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BF%A1
経国は、[関東に下った<が、>]官職すら定かではないし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%B5%8C%E5%9B%BD
義高は、「兄に経国がいるが、・・・義高は都に住し、平家が勢力を強めるに従って順調な官途を進んだ。・・・義高の子孫は代々北面武士で河内国に領地を持つ武士として続いた」ものの、武士として目立った活動が見られない上、地方・・河内は地方とは言えない!・・に本拠を持たないし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E9%AB%98_(%E5%B7%A6%E5%85%B5%E8%A1%9B%E6%A8%A9%E4%BD%90) (すぐ上の[]内も)
義光は、後三年の役で兄の義家に加勢し、「戦後、常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としてい<き、>・・・1106年・・・、遅れて常陸国に進出してきた甥の源義国・・・と争って合戦に及び義国と共に勅勘を蒙<り、>・・・子孫は、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏と在地武士として発展した」が、義国同様、京での、あるいは、京からの指示を受けた活動を行った形跡はないし、 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%85%89
義時は、「父の八幡太郎義家が死去すると兄、義忠が家督を相続し源氏の棟梁とな<り、>都に戻るのと入れ替わりに河内源氏の本拠地、河内国石川を守るようにな<った>と言われている<ところ、その>・・・子孫<は>石川源氏を称し、その一族には石川氏、紺戸氏、平賀氏、万力氏、杭全氏などの諸氏がある<けれど、>・・・義忠の死後、義時は兄の跡をついで源氏の棟梁になることを望んだ<ものの>果たされなかった<という経緯がある>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%99%82
 すなわち、以上の6名は、河内源氏の棟梁、というか、武家総棟梁、の必要要件をいずれも満たしていないか、棟梁にならんとして果たせなかった者であることから、やはり為義こそが嫡流であった、と、私自身は考えている。(太田)
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[天下三不如意]

 「『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話がある。・・・
 「賀茂河の水」は「天災」、「双六の賽」は「確率」であって、これらは誰が何をしようとしてみてもそもそも思い通りになるものではないのに対し、「山法師」は名目こそは「神意」であってもその実は「政治」に他ならなかった。既成の優遇措置を朝廷が他の寺社にも与えようとしたり、寄進された荘園を国司が横領しようとしたりするたびに、延暦寺は山王社の暴れ神輿を盾に、公卿百官を力で捻じ伏せていたのである。「天下三不如意」の真意は、この延暦寺に対して打つ手もなく苦悶する白河法皇の姿にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

 そもそも、白河が、本当にこんなことを言ったのかどうかは分からないが、その類のことを言っていたとしても、私は驚かない。
 上掲のように、実質的な意味のあるのは「山法師」だけであるとするのが通説で、その中で、それを広く「政治」と解するところから局限的に「延暦寺」と解するところまで説が分かれている、ということのようだが、私は、「賀茂河の水」は天災、「双六の賽」は天意、「山法師」は政治、を表していると見ている。
 つまり、天意に沿った判断を下し続けているかどうかを自省しつつ天災についても政治についても結果責任を負わなければならない、というつらさとは無縁であったところの、摂関政治下の歴代天皇、に較べて、自分がいかに不幸であるかを、白河がぼやいたもの、だと思うのだ。
 ちなみに、「賽す」には、「神仏にお参りする。参詣する。」の意がある。(それから転じた「賽銭をあげる。」の意も。)
https://kotobank.jp/word/%E8%B3%BD-507134
 なお、「白河院より「諸国に多く弓矢・太刀などの武器が満ちている。宣旨を下され制止を加えなければならない」(『後二条師通記(ごにじょうもろみちき)』)承徳(じょうとく)三年<(1099年)>五月三日条)といわれるような事態が生まれていた」ところ、これは、白河上皇と関白の師通が、二人して、「武家以外の、寺社等までもが、「弓矢・太刀などの武器」で武装している事態を<・・聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の想定を超えた事態であるとの認識の下、・・>嘆いたものと考えるべきでしょう。」と、私が以前(コラム#11414で)書いたことも、この際、併せて想起されたい。
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[院政–これまでの説と私の説]

 「院政は、天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治のことである。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治の方針<・・形態?(太田)・・>である。

⇒既にご承知のように、予定通り、天皇家と藤原摂関家が協力して、摂関政治から院政へと移行したのである、というのが私の説であるわけだ。(太田)

 天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。

⇒この時代区分には概ね賛成だ。
 1185年は鎌倉幕府の成立の年であり、(少なくとも東国に関して)権力の大部分を天皇家が武家の棟梁たる源頼朝に委任した年だからだ。(太田)

 「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』<(コラム#11420)>がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君<(注10)>とも呼ばれた。

 (注10)「「治天」は、古くは地神五代のうち天照大神以外の4人が君主号として用いたという記録がある。その後、天皇や皇族の敬称号として5世紀後半までに「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」が成立していたが、その後は律令の整備によって使用されなくなっていた。
 平安時代後期の院政の開始により、「治天」の語が再び登場した。それまでは、藤原北家が摂政・関白(天皇の代行者・補佐者)として政治実権を持つ摂関政治が行われていた。あくまで律令官制の最高位に君臨するのは天皇であり、その天皇を代行・補佐することが、摂関の権力の源泉となっていた。しかし、白河上皇に始まる院政では、上皇が子へ譲位した後も、直接的な父権に基づき政治の実権を握るようになったため、摂関政治はその存立根拠を失った。この変遷は、天皇の母系にあたる摂関家が、天皇の父系にあたる上皇に、権力を奪われたものとみることができる。
 平安中期から後期頃から、特定の官職を一つの家系で担うことが貴族社会の中で徐々に一般化しつつあった。官職に就くことは、その官職に付随する収益権を得ることも意味しており、官職に就いた家系の長(家督者)は、収益を一族へ配分する権限・義務を持った。このような社会的な風潮は皇室へも影響し、皇室の当主となった者が、本来の天皇の権限を執行するようになったのだろうと考えられている。
 この皇室の当主が、実質的な皇朝の君主であり、治天と呼ばれるようになった。複数の上皇が併存することもあったが、治天となりうるのは1人のみであり、治天の地位を巡って上皇・天皇同士の闘争さえ発生した(保元の乱)。治天が実質的な君主になると、天皇はあたかも東宮(皇太子)のようだ、とも言われた。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。
 治天となりうる資格要件は大きく2つある。まず、天皇位を経験していること。次に、現天皇の直系尊属であること。この結果、治天になれなければ、自らの子孫へ皇位継承できないことを意味しており、治天の座を獲得することは死活問題であった。ただし、鎌倉時代以降になると、皇位に就かなかった後高倉院が治天となったり、光明天皇の直系尊属ではない光厳上皇が治天となったように、前述の資格要件が必ずしも満たされない場合も出現した。
 ただし、「治天の君」という言葉が出現するのは後嵯峨院政後の後深草上皇・亀山天皇の並立状態以降<である>とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E3%81%AE%E5%90%9B

 本来、皇位はいわゆる終身制となっており、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。皇極天皇以降、持統天皇・元正天皇・聖武天皇など、皇位の生前譲位が行われるようになった。当時は皇位継承が安定していなかったため(大兄制<(注11)>)、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法と考えられている。

 (注11)おおえせい。「皇位継承が兄弟間で継承されることの多かった5世紀の段階から、父子継承が根を下ろし始める7世紀後半に至るまでの過渡的な皇位継承の制度。「おいね」とも読む。6世紀の勾大兄皇子(まがりのおおえのおうじ)から7世紀の中大兄(なかのおおえ)皇子までの約1世紀半にわたって、大兄の称を付す有力皇子が少なくないことから、大兄の称が皇太子制に先行する律令制以前の皇位継承を探る手掛りとされてきた。しかし、大兄が同時に複数存在したのか否かなどの細部に至ると異論が多い。また、大兄の称が皇族以外の氏族でも使用されている例のみられることから(船氏王後(ふなしおうご)墓誌)、大兄の称を、直接、皇太子に先行する称とみなさない見解もある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%85%84%E5%88%B6-1512111

 皇極・持統・元正は女帝であり、皇位継承者としての成人した男性皇族が現れるまでの中継ぎに過ぎなかったという事情があった。聖武天皇に関しては、国家プロジェクトであった東大寺建立に専念するためという事情もあった。これらが後年の院政の萌芽となる。

⇒これも既にご承知の通り、院政の萌芽というか、ヒント、になったのは、権威を推古天皇が、そして、権力を厩戸皇子が、それぞれ担った体制だろう、というのが私の説であるわけだ。(太田)

 平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や、円融天皇などにも、生前譲位が見られる(後述)。日本の律令下では上皇<(注12)>は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。

 (注12)太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)。「日本の皇室における譲位の初例は皇極天皇であったが、この時点では君主号は「天皇」ではなく「大王」であり、当然「太上天皇」という称号もなかったため「皇祖母尊」(すめみおやのみこと)という臨時の尊号が設けられた。また、その後皇極天皇自身が、斉明天皇として重祚している。
 <更に>その後、大宝令において太上天皇の称号が定められたことで、697年・・・8月1日・・・、持統天皇が文武天皇に譲位し、史上初の太上天皇(上皇)になった。
 日本の皇室には、江戸時代後期仁孝天皇に譲位した光格上皇まで、計59人の上皇が存在した。つまり、歴代天皇のうち半数近くが退位して上皇となっている。ただし、平安時代以降「天皇の崩御」という事態そのものが禁忌として回避されるようになり、重態となってから譲位の手続きが行われて上皇の尊号が贈られ、直後に崩御した例が多い。・・・
 <なお、>天皇号が絶えていた時期にも、太上天皇号は変わらず用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E7%9A%87

 これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与する事があった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であり、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために、父系によるこの仕組みは衰退していく。代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していくことになる。

⇒天皇が権威と権力を掌握していた時代から摂関政治への移行もまた、天皇家と藤原北家の協力の下、進められた、というのが、私見であるわけだ。(太田)

 だが、・・・1068年・・・の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条天皇<(注13)>が即位することとなった。

 (注13)1034~1073年。天皇:1068~1073年。「後朱雀天皇の第二皇子。母は三条天皇第三皇女・皇后禎子内親王(陽明門院)。後冷泉天皇の異母弟。宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇である(ただし、生母の禎子内親王は藤原道長の外孫である)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
 藤原道長(966~1028年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7

 後三条天皇は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。
 後三条天皇以前の天皇の多くも即位した直後に、皇権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条天皇は外戚に摂関家を持たない強みも背景として、・・・より積極的な政策展開を行った。・・・
 <すなわち、>1072年・・・に後三条天皇は第一皇子貞仁親王(白河天皇)へ生前譲位したが、その直後に病没してしまう。このとき、後三条天皇は院政を開始する意図を持っていたとする見解が慈円により主張されて(『愚管抄』)以来、北畠親房(『神皇正統記』)、新井白石(『読史余論』)、黒板勝美、三浦周行などにより主張されていたが、和田英松が、災害異変、後三条天皇の病気、実仁親王の立東宮の3点が譲位の理由であり院政開始は企図されていなかったと主張し、平泉澄が病気のみに限定するなど異論が出された。近年では吉村茂樹が、当時の災害異変が突出していないこと、後三条天皇の病気(糖尿病と推定されている)が重篤化したのが退位後であることを理由として、摂関家を外戚に持たない実仁親王に皇位を継承させることによる皇権の拡大を意図し、摂関政治への回帰を阻止したものであって院政の意図はなかったと主張し、通説化している。しかしながら美川圭のように、院政の当初の目的を皇位決定権の掌握と見て、皇権の拡大を意図したこと自体を重要視する意見も出ている。
 その一方で、近年では宇多天皇が醍醐天皇に譲位して法皇となった後に天皇の病気に伴って実質上の院政を行っていた事が明らかになった事や、円融天皇が退位後に息子の一条天皇が皇位を継ぐと政務を見ようとしたために外祖父である摂政藤原兼家と対立していたという説もあり、院政の嚆矢を後三条天皇よりも以前に見る説が有力となっている。

⇒そうではなく、摂関政治の深化が、行きつ戻りつはしつつも、進行していき、藤原兼家の子の道長の時に完成した、というのが私の見解だ。(太田)

 次の白河天皇の母も御堂流摂関家ではない閑院流出身で中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信の養女である女御藤原茂子であったため、白河天皇は、関白を置いたが後三条天皇と同様に親政を行った。白河天皇は・・・1086年・・・に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となったが、幼帝を後見するため白河院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。・・・1107年・・・に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が4歳で即位し、独自性が見られた堀河天皇の時代より白河上皇は院政を強化することに成功した。白河上皇以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の君主として君臨し、天皇は「まるで東宮(皇太子)のようだ」と言われるようになった。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。
 ただし、白河天皇は当初からそのような院政体制を意図していたわけではなく、結果的にそうなったともいえる。

⇒全くもって、そうは私は思わないわけだ。(太田)

 白河天皇の本来の意志は、皇位継承の安定化、というより自分の子による皇位独占という意図があった。白河天皇は御堂流藤原能信の養女藤原茂子を母親、同じく御堂流藤原師実の養女藤原賢子(御堂流とつながりがある村上源氏中院流出身)を中宮としており、生前の後三条天皇および反御堂流の貴族にとっては、異母弟である実仁親王・輔仁親王への譲位が望まれていた。そうした中、白河天皇は、我が子である善仁親王に皇位を譲ることで、これら弟の皇位継承を断念させる意図があった。これは再び御堂流を外戚とする事であり、むしろ摂関政治への回帰につながる行動であった。

⇒とんでもない。(太田)

 佐々木宗雄・・・の研究によれば、『中右記』などにおける朝廷内での政策決定過程において、白河天皇がある時期まで突出して政策を判断したことは少なく、院政開始期には摂政であった藤原師実と相談して政策を遂行し、堀河天皇の成人後は堀河天皇と関白藤原師通が協議して政策を行って白河上皇に相談を行わないことすら珍しくなかったという。これは当時の国政に関する情報が天皇の代理である摂関に集中する仕組となっており、国政の情報を独占していた摂関の政治力を上皇のそれが上回るような状況は発生しなかったと考えられている。だが、師通の急逝と若年で政治経験の乏しい藤原忠実の継承に伴って摂関の政治力の低下と国政情報の独占の崩壊がもたらされ、堀河天皇は若い忠実ではなく父親の白河上皇に相談相手を求めざるを得なかった。更にその堀河天皇も崩御して幼い鳥羽天皇が即位したために結果的に白河上皇による権力集中が成立したとする。
 一方、樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子<(注13)>(上東門院)の存在があったと指摘する。

 (注13)しょうし(988~1074年)。「藤原道長の長女。母は左大臣源雅信の女・倫子(964-1053)。同母弟妹に関白太政大臣頼通(992-1074)・同教通(996-1075)と、三条天皇中宮妍子(994-1027)・後一条天皇中宮威子(999-1036)・後朱雀天皇妃嬉子(1007-1025)が、また異母弟には右大臣頼宗・権大納言能信・同長家らがいる。・・・
 999年・・・11月1日、8歳年上の従兄一条天皇に入内し、同月7日に女御宣下(同日、中宮定子が第一皇子敦康親王を出産)。翌年2月25日、皇后に冊立され「中宮」を号した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E5%AD%90

 彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた。ところが、皮肉にも師通・師実の相次ぐ急死によって遺されたのは、師実が強化した白河上皇(法皇)の権威と上東門院の先例を根拠とした白河上皇(法皇)による摂関任命人事への関与の実績であり、結果的には藤原忠実の摂政任命をはじめとする「治天の君」による摂関任命を正当化することになってしまった。
 直系相続による皇位継承は継承男子が必ずしも確保できる訳ではなく、常に皇統断絶の不安がつきまとう。逆に多くの皇子が並立していても皇位継承紛争が絶えないこととなる。院政の下では、「治天の君」が次代・次々代の天皇を指名できたので、比較的安定した皇位継承が実現でき、皇位継承に「治天の君」の意向を反映させることも可能であった。
 また、外戚関係を媒介に摂政関白として政務にあたる摂関政治と異なって、院政は直接的な父権に基づくものであったため、専制的な統治を可能としていた。院政を布く上皇は、自己の政務機関として院庁を設置し、院宣・院庁下文などの命令文書を発給した。従来の学説では院庁において実際の政務が執られたとされていたが、鈴木茂男が当時の院庁発給文書に国政に関する内容が認められないことを主張し、橋本義彦がこれを受けて院庁政治論を痛烈に批判したため近年では、非公式の私文書としての側面のある院宣を用いて朝廷に圧力をかけ、院独自の側近を院の近臣として太政官内に送り込むことによって事実上の指揮を執ったとする見解が有力となっている。これら院の近臣は上皇との個別の主従関係により出世し権勢を強めた。また、上皇独自の軍事組織として北面武士を置くなど、平氏を主とした武士勢力の登用を図ったため、平氏権力の成長を促した。そのため、白河上皇による院政開始をもって中世の起点とする事もある。
 平安後期以降に院政が定着した背景として、岡野友彦(皇學館大学教授)は財政面の理由を指摘している。公地公民制が実態として崩壊したこの時期であっても、法制上は律令国家の長である天皇は荘園を私有できなかった。このため寄進によって皇室領となった荘園を上皇が所有・管理し、国家財政を支えたという見解である。
 ただし、院政の登場は摂政関白の必要性を否定するものではなかったことには注意を要する。院(上皇・法皇)の内裏への立ち入りはできない慣例が依然として維持されている中で、摂関は天皇の身近にあってこれ補佐すると共に天皇と院をつなぐ連絡役としての役割を担った。そして、長い院政の歴史の間には白河法皇と藤原忠実のように院が若い摂関を補佐する状況だけではなく、反対に摂関が若い院を補佐する場面もあり、院と摂関、ひいては天皇家と摂関家は王権を構成する相互補完的な関係であり続けたのである。

⇒院政が始まってからは、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の口伝に関してのみ、天皇家と摂関家・・後には摂関家中の近衛家・・は相互補完的な関係であり続けた、というのが私の見解だ。(太田)

 白河上皇は、鳥羽天皇の第一皇子(崇徳天皇)を皇位につけた後に崩じ、鳥羽上皇が院政を布くこととなった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E6%94%BF
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[源氏物語の生誕]

 藤原道長の時代に摂関政治は完成し、道長は、「皇位継承に関して一条天皇と三条天皇に要求を押し付けるほどの権勢を持った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB
 換言すれば、一条天皇も三条天皇も、(それを自分達から摂関に移譲したのだから当然だが、)全く権力を持っておらず、従って権力を行使することもできなかったわけだ。
 そのような背景の下で「一条天皇の時代<に>・・・、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた<ところ、>天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、笛を能くしたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
とされているが、一条は、『本朝文粋』の「主な作者」の中には入っておらず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E6%96%87%E7%B2%8B
要は、権力の移譲後、何もやることがなく、暇をつぶすために、身近の女性達に愛情を注ぐ生涯を送ったことが、結果として平安女流文学を花開かせることになった、というのが私の見解だ。
 <道長の長兄である>藤原道隆の長女の藤原定子は、990年に・・・3歳年下の・・・一条の皇后になったところ、「夫・一条天皇とは父道隆が定子以外の入内を許さず最初は定子の独壇場であったが、道隆が没すると他の娘も入内し寵愛を受ける。とくに藤原元子<(注14)>は一条天皇の寵愛深く、懐妊中周囲の反感をよそに一条天皇は宮中に招いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%AD%90
、というあたりで、一条の生き様の方向性が定まった感がある。

 (注14)元子やその父親の藤原顕光のそれぞれの事績↓も頗る面白いのだが、省略する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%83%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E5%85%89

 「995年5月12日・・・、関白であった定子の父・道隆が、ついで定子の叔父・道兼が急死すると、<この2人>の弟<の>道長と定子の兄・伊周が権力を争<うこととなり、>伊周<が>道長を呪詛・・・、その弟・隆家の従者が道長の随身を殺害したりなど、中関白家は荒れていた。翌年4月には定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家らが花山院奉射事件を起こす(長徳の変)。当時懐妊中の定子は内裏を退出し里第二条宮に還御したが、・・・左遷の命を受けても病気だと偽り、一向に出発しない兄・伊周と弟・隆家をかくまう。・・・ついに一条天皇より強制捜査の宣旨が下り、二条宮を検非違使が捜査。隆家は捕らえられ、伊周は逃亡した(後に左遷)。定子は自ら鋏を取り落飾。この長徳の変および定子の出家により中関白家は自ら没落していく。・・・

⇒定子は、伊周と隆家の二人が同母兄弟だった
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/teisi.html 
ということもあるが、天皇家よりも実家の方を優先した、エゴ丸出しの女性だったわけだ。(太田)

 定子は997・・・年12月16日・・・、第一子・脩子<(しゅうし)>内親王を出産した・・・。・・・
 その後、・・・997年の<4>月頃・・・になって伊周らの罪は赦され、また一条天皇は誕生した第一皇女・脩子内親王との対面を望み、周囲の反対を押し退け、同年6月・・・、再び定子を宮中に迎え入れた。・・・再入内の当日、一条天皇は他所へ行幸し、夜中に還幸しているが、そこにも朝野の視線を定子入内から逸らそうとする苦心が見える。・・・<そして、>天皇自ら夜遅く通い、夜明け前に帰るという思いの深さであった。しかし、天皇が定子を内裏の中へ正式に入れず、人目を避けて密かに通わざるを得なかったことには、出家後の后の入内という異例中の異例がいかに不謹慎な事であるかを表している。・・・

⇒一条天皇は定子に破戒させ、しかも、そのことを公開しただけでなく、嘉したというのだから、しかも、定子は、それを喜んで受け入れたらしいのだから、およそ無茶苦茶な話だ。(太田)

 999・・・年11月7日<には>・・・、一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産。・・・
 <そんなところへ、>1000・・・年2月25日・・・、<道長の娘である>女御彰子が新たに皇后に冊立され・・・、史上はじめての「一帝二后」となった・・・。・・・
 同年の暮れ、定子は第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御し・・・<たが、>崩御に臨んで定子が書き残した遺詠「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」<(注15)>は、『後拾遺和歌集』に哀傷巻頭歌として収められ、また、鎌倉時代初めに編まれた小倉百人一首の原撰本「百人秀歌」にも採られている。・・・

 (注15)「一晩中・・・夫婦の・・・交わ・・・りを・・・したことをお忘れでないなら、私の死んだ後、あなたが恋しがって流す涙の色がどんなでしょう。それが知りたいのです。」(上掲)

⇒この歌から、一条の異常なまでに愛情深き生き様が分かると同時に、それだけ愛された自分であったことを残された人々、とりわけ彰子、にひけらかしたかったという点に、定子の鬼気迫るエゴを感じる。
 それにしても、(プロトを含む)日本文明が、本来、性に関してかくも開放的であることに改めて瞠目させられる。(太田)

 <なお、>はじめ<は、>・・・定子の末妹御匣殿<(みくしげどの)>が・・・<一条天皇の第1皇子の>敦康親王を養育した<が、>・・・御匣殿が・・・死去した後<には>、敦康<(あつやす)>親王は父帝の政治的配慮で・・・彰子に・・・引き取られた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%AD%90 (前掲)

 「彰子<は、>・・・<1000>年・・・2月25日、・・・8歳年上の従兄一条天皇<の2人目の>・・・皇后に冊立され・・・定子が難産で崩御すると、天皇の命により定子所生の敦康親王を彰子の局・飛香舎(藤壺)にて愛情を込めて養育する。天皇も飛香舎(藤壺)に密々渡っている。数年後には、夫・一条は他の女御へ通うのを止め、彰子を一心に寵愛する。彰子は時間をかけて名実共に唯一の后となった。・・・
 1008年・・・9月11日、土御門殿にて第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産。三十時間以上に及ぶ難産だった。・・・
 『紫式部日記』には彰子の肌が透き通るように美しく、髪もふさふさとして見事な様が記されている。
 出産後彰子は11月17日に内裏参内予定だったが、一条天皇は「待ちきれないから自分が訪れる」と10月に彰子が滞在する土御門殿に行幸した。
 彰子が内裏に戻ると、一条天皇はすぐ彰子の御座所に渡り、夜は彰子が天皇の夜大殿に昇った。

⇒ここでも、(相手こそ違え、)一条の異常なまでに愛情深き生き様が分かる。(太田)

 翌年、敦良親王(<後の>後朱雀天皇)が誕生。
 ・・・1011年・・・6月13日、死の床にあって一条天皇は皇太子・居貞親王(三条天皇)に譲位、彰子所生の敦成親王の立太子が決定した。一条天皇の真意が定子所生の第一皇子・敦康親王にあったことを察していた上に自身も深い愛情を込めて養育していた彰子は、敦成親王の立太子を後押しした父<道長>を怨んだといわれる・・・。
 聡明で優しく、ライバルとされる中関白家にも贈物など礼儀や援助をかかさず生涯面倒を見た。
 栄華を極めながら思慮深く『賢后』と賞された・・・。

⇒彰子は、定子とは対照的に、知力に秀でていたと同時に、俄かに信じられないほど人間主義的な人物だったわけだ。(太田)

 一条天皇とは最期まで一緒におり、一条の辞世の句は彰子の傍らで読まれ、彰子が書き留めた。・・・
 <この彰子は、>1012年・・・2月14日に皇太后、・・・1018年・・・正月7日に太皇太后となる。この間、・・・1016年・・・正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。これは天皇の一種の分身的存在である摂政(およびその退任者)の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾(自己戴冠の問題)を抱えていたからだと・・・樋口健太郎<(注16)>は・・・みて・・・いる。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた。・・・

 (注16)神戸大博士、同大学術推進研究院、龍谷大分特任准教授。(財)古代学協会 第2回角田文衞古代学奨励賞。
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=201601018314231236

 1036年・・・4月17日に後一条天皇、・・・1045年・・・正月18日に<は>後朱雀天皇が死去し、<彰子は>十年の間に二人の子を失った。その後は孫の後冷泉天皇が即位したが、その代に息子師実へ関白職を譲りたい旨を頼通から聞かされたとき、女官に髪を梳かせていた彰子はにわかに機嫌を悪くし、内裏へ「父道長の遺令に背くのでお許しにならぬように」との旨を奏上させ、ために頼通は弟教通へ譲らざるをえなかったというエピソードがある。・・・1052年・・・には重篤な病に陥るが、弟頼通・教通らは国母の病気平癒の願いを込めて大赦を奏請し、これにより前年から始まっていた前九年の役が一時停戦となっている。その後体調は回復したが、後冷泉天皇のみならず、父が全盛を築いた摂関政治を終焉に導くこととなった後三条天皇と、二人の孫にまで先立たれた。・・・
 葬送の日、弟の関白教通は御禊<(注18)>を目前に控えながら白河天皇の制止を振り切り、霊柩の後を歩行して扈従した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E5%AD%90

 (注18)ごけい。「天皇の即位後、大嘗会 (だいじょうえ) の前月に賀茂川の河原などで行うみそぎの儀式。江戸時代は御所内で行われた。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%BE%A1%E7%A6%8A/

⇒父道長の遺志を継いで、摂関政治から院政への移行を、その大部分の期間、監督した人物は、実は、道長の死後、事実上の日本の最高権力者の役割を長期にわたって果たすことになったところの、彰子(上東門院)であった、と言ってよいのではなかろうか。(太田)

 「<ここで、道長のことだが、彼は、>政治家としては、長保元年(999年)に新制(長保元年令<(注19)>)を発令し、過差(贅沢)の禁止による社会秩序の引締や估価法<(注20)>の整備などの物価対策などにも取り組んだ(道長や実資が死ぬと公卿が社会政策に取り組む事はなくな<った。)>・・・

 (注19)「前年の・・・998年・・・以来続く疫病に悩まされた朝廷はこの年の1月17日に元号を「長保」と改元した。だが、疫病は治まらず、その最中の6月14日には今度は内裏が火災にあってしまう。
 社会不安の高まりと相次ぐ災害に憂慮をした一条天皇及び内覧左大臣藤原道長を中心とした朝廷は、7月11日、内裏の再建を決定するとともに、神仏の信仰を通じた社会不安の沈静化と法規制の強化による秩序の回復を目指して・・・<22>日新制に関する宣旨が下され、それに基づく太政官符が27日付で発給されたのである。・・・
 最初の6条は「神社仏寺」(宗教関係)、次の4条は「過差停止」(奢侈禁止)、最後の1条は「公事催勤」(政務励行)についての規定である。この新制の審議手続と法文配列が以後の先例とされた・・・
 それまでの新制は、従来から行われてきた法令の性格を残した「新しい禁制」としての新制に留まっていたのに対し、長保元年令は中世における新制公布の最大の動機である天人相関説に由来する攘災と政治再建のための「徳政」の推進という理念に基づいて定められた最初のものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BF%9D%E5%85%83%E5%B9%B4%E4%BB%A4
 (注20)こかほう。「古代から中世にかけての日本において、朝廷・国衙・鎌倉幕府において、市場における公定価格及び物品の換算率を定めた法律。これに基づく価格を估価(こか、沽価)と呼び、租税の物納や日本国外との貿易の価格や交換の基準としても用いられた。・・・
 ・・・治承3年<・・1179年・・>のものは平氏政権の主財源であった宋銭の使用禁止が後白河法皇の意向で提議された事から同年の平清盛による治承三年の政変の原因の一つになったとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B0%E4%BE%A1%E6%B3%95

⇒「一条天皇及び内覧左大臣藤原道長を中心とした朝廷」は「内覧左大臣藤原道長を事実上の最高権力者とする朝廷」と読み替えるべきであり、そうした上でだが、道長は、自分が一手に掌握し、背負ったところの、日本国の権力の日々の行使に大童の生涯を送ったわけだ。
 しかも、道長が担っていた重責は、すぐ後で記すように、それだけではなかった。(太田)

 <道長は、>弓射に練達し<ていた。>・・・

⇒道長は、弓射を趣味でやっていたのではなく、近い将来、摂関家が天皇家に権力を奉還した後に行われるところの、武家総棟梁(家)の指名に備えた、諸武家の地方本拠化という、日本の封建制の最後の必要条件を成就させるべく監督を行うという(、ほぼ他言無用の)責任を果たすため、必死に、自身も武家の軍事技術とメンタリティーを身に付けようとした、ということだろう。
 しかし、道長がやらなければならないことはまだあった。(太田)

 道長は紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、内裏の作文会に出席するばかりでなく自邸でも作文会や歌合を催したりした。『源氏物語』の第一読者であり、紫式部の局にやってきてはいつも原稿の催促をしていたといわれている(自分をモデルとした策略家の貴族が登場していることからそれを楽しみにしていたとも言われる)。また、主人公光源氏のモデルのひとりとも考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7

⇒道長は、「歌集『御堂関白集』を残し、自ら拾遺以下の勅撰歌人でもある。また、花山天皇時代に行われた寛和二年内裏歌合に召人として参加している。もっとも道長本人は和歌より漢詩の方を得手としていたようである。」(上掲)と、文学的才能がそれほどあったとは思えないのに、恐らくかなり無理をしてまでこんなことをやったのは、やはり趣味として推進したのでは全くなく、一条天皇の無聊を慰めると共に、その恋愛感情を「昇華」させるために、同天皇に、自分がやって見せているところの、文学諸サロンのスポンサーの役割、を承継させようとしたのではないか、と、私は見ている次第だ。
 しかし、道長は、結局、一条天皇をその気にさせることに成功せず、仕方なく、彰子文学サロンのスポンサーをずっと続ける羽目になってしまったところ、その中から、予期を超える副産物として、紫式部による『源氏物語』(注21)が完成するに至った、ということではなかろうか。

 (注21)「下級貴族出身の紫式部は、20代後半で藤原宣孝と結婚し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別し、その現実を忘れるために物語を書き始めた。これが『源氏物語』の始まりである。当時は紙が貴重だったため、紙の提供者がいればその都度書き、仲間内で批評し合うなどして楽しんでいたが、その物語の評判から藤原道長が娘の中宮彰子の家庭教師として紫式部を呼んだ。それを機に宮中に上がった紫式部は、宮仕えをしながら・・・安定した紙の供給<を含む、>・・・藤原道長の支援の下で物語を書き続け、54帖からなる『源氏物語』が完成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

 この『源氏物語』については、「なぜ藤原氏全盛の時代に、かつて藤原一族が安和の変で失脚させた源氏を主人公にし、源氏が恋愛に常に勝ち、源氏の帝位継承をテーマとして描いたのか。初めてこの問いかけを行った藤岡作太郎は、・・・政治向きに無知・無関心な女性だからこそこのような反藤原氏的な作品を書くことができ、周囲からもそのことを問題にはされなかったのだとした。一方、池田亀鑑は、藤原氏の全盛時代という現実世界の中で生きながらも高邁な精神を持ち続けた作者紫式部が理想を追い求めた世界観の表れがこの『源氏物語』という作品であるとしている。・・・もっとも、このような見解については『源氏物語』成立の背景に以下のような理由を挙げている大野晋の見解のように、氏族として藤原氏と源氏が対立しているとはいえず、仮にそのようなものがあったとしても、個人的な対立関係の範疇を超えないとして、問いかけの前提の認識に問題があるとする見方もある。」(上掲)と、議論が喧しいことだが、私は、ある意味単純に、「政治向きに・・・無関心」であることを強いられた一条天皇の、定子と彰子(と元子)との激しい恋愛が全てとさえ形容できそうな生き様を仄聞した紫式部が、一条天皇をモデルにして、少しだけ同天皇の身分、立場を変えて、光源氏という主人公像を生み出し、『源氏物語』を書き始め、やがて、道長の計らいで、一条天皇の身近に伺候できることとなった結果、直接、或いは、彰子を通じて、一条天皇の生き様を実際に観察しつつ、それに加えて、彰子のような日本の女性の理想像のような人物の形骸に接し、更に更に、和泉式部(注22)らと同僚になったことによる刺激も活かして、『源氏物語』を完成させた、と、見るに至っている。

 (注22)978~?年。「越前守・大江雅致<(まさむね)>と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしい(母が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。
 ・・・999年・・・頃までに和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入る。後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。帰京後は道貞と別居状態であったらしく、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。
 為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作った。敦道親王の召人として一子・永覚を儲けるが、敦道親王は・・・1007年・・・に早世した。・・・1008年 – 1011年頃・・・、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。・・・1013年・・・頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し<た。>・・・
 恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部に・・・優れた歌人として評価を受けつつも、多くの男性と浮名を流した好色な女性という風評を踏まえ、人の道を外しているところがあると批判されている。・・・。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され、赤染衛門と並び称されている。・・・
 『和泉式部日記』には「その夜よりわが身の上にはしらねればすずろにあらぬ旅寝をぞする」と牛車の中で契った歌が詠まれており、日本文学史上において初めてカーセックスを取り上げたものとされている。<!!(太田)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8
 この「文学サロン」には、このほか、「歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、紫式部の娘で歌人の越後弁(のちの大弐三位。後冷泉天皇の乳母)、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一首が有名な歌人の伊勢大輔など<が>・・いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E5%AD%90

 「注22」から分かるように、(詰める場所が場所だけに女性ばかりだが、)これだけ、文学的才能の傑出した多くの人々を、しかも、継続的に集めることができたのは、スポンサーが道長であったればこそだろう。
 「『竹取物語』や『宇津保物語』などがあるため・・・日本<で>・・・最古<の>・・・長編小説」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E 前掲
とは言えないが、日本の長編小説創世記における産物に他ならないところの、『源氏物語』、の純文学としてのクオリティの高さは驚異だが、明治維新までの間に、それに匹敵する長編小説が日本に生まれなかったのは、道長の没後、誰も文学サロンのスポンサーになる人物が現れなかったことに加えて、何よりも、紫式部のような文学的才能のある人物の長編小説創作意欲を掻き立てる、(和泉式部もたまたまそうだったが、)一条天皇のような恋愛至上主義的な有力者が払底してしまった、というか、そのような人物を生み出すこととなった時代・・後世の天皇達とは違って、天皇が権力を行使した時代の記憶がまだ残っていたからこそ、天皇が生き辛かった時代・・がその後二度と日本に訪れることがなかった、ことによる、と、私は思うに至っている。
 なお、清少納言は、「993年・・・冬頃から、私的な女房として・・・定子に仕えた<が、>・・・1000年・・・に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞め<ており、>・・・紫式部が中宮彰子に伺候したのは清少納言が宮仕えを退いてからはるか後のことで、2人は一面識さえないはずである<というのに、>・・・『枕草子』には紫式部の夫・藤原宣孝が亡くなった後、今更言うことでもない稚拙な批判(派手な衣装で御嵩詣を行った逸話や従兄弟・藤原信経を清少納言がやり込めた話)が記されており、こうした記述<を含め、>・・・『枕草子』に・・・は清少納言による創作<たる>、史実とは異なる部分も多い」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%B0%91%E7%B4%8D%E8%A8%80
ところであり、彼女は、雇用者たる定子にぴったりの器量の被雇用者であったと言えそうだ。
 それにつけても、紫式部の雇用者が、(早期における理想的縄文的弥生人ともいうべき)道長と(縄文人の鑑ともいうべき)彰子の親子であったことは、我々にとって幸いだった、と、思う。
 そのおかげで、彼女は、ノンフィクションを装ってフィクションを書いた清少納言とは真逆に、フィクションを装ってノンフィクション・・権力行使を禁欲させられ、実存的危機に直面させられた一条天皇の恋愛へののめりこみ・・を描いた大傑作を残すことができたのだから・・。(太田)
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〇堀河天皇(1079~1107。天皇:1087~1107年)

 「堀河天皇<の>・・・即位に伴い、義理の外祖父にあたる関白藤原師実<・・頼通の六男・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%AE%9F >
が摂政とな<って>実権を握り、摂関政治への回帰が見られた。白河上皇は師実を信頼し、院庁の人事も師実の人選に任せており、一方の師実も白河上皇に摂関の任命権を委ねるなど、この時期には師実と上皇は協調関係にあり、白河上皇に院政を敷く意志は無かった。

⇒いよいよ(予定通り)院政を始めた白河だったが、まだまだ、権力行使の慣熟運転が必要ということで、両者協議の上、引き続き、摂関家が白河をサポートした、ということだろう。(太田)

 堀河天皇が成人して関白も藤原師通<・・藤原師実の子・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E9%80%9A >
に代わると、上皇の政治関与に批判的な師通は、自ら政務を執ろうとする堀河天皇に協力的であり、親政に近い状態が現出することとなった・・・。上皇自身も後見の役目を終えたことに加え、天皇の准母である媞子内親王の崩御を機に出家して政務への意欲を失っていた時期でもあったためこの体制が許容されていた。

⇒これは、白河上皇の慣れぬ権力行使任務からの一時的逃避と見る。(太田)

 しかし・・・1099年・・・に師通が死去すると、若い藤原忠実<・・藤原師通の長男で師実の孫・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%AE%9F >
は堀河天皇を補佐するに足りず、天皇は法皇に政務を相談せざるを得なかった。またかつての師実との協調関係から法皇は摂関家にも強い影響力を持ち続け、結果として白河法皇の院政が成立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「引退していた師実にも忠実を支える余力はなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E9%80%9A

⇒師実はもとより、その孫の忠実・・父親の師通は38歳で急死(上掲)・・も、あえて堀河天皇をサポートせず、白河法皇が再び任務に精励するよう促し、それに成功した、ということだろう。
 なお、父親の白河から堀河には、少なくとも、宗仁親王(鳥羽天皇)が生まれた時点で、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想が伝えられていただろうが、堀河が崩御した時にはまだ宗仁親王は4歳くらいだったから、宗仁親王(鳥羽天皇)には、もう少し大きくなってから、祖父の白河が聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を伝えた、と思われる。(太田)

◎鳥羽天皇(1103~1156年。天皇:1107~1123年)

 「生後間もなく母・苡子<(いし/しげこ)>が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から7か月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位する。幼いころの大病がもとで、病弱な体となる。
 幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の摂関の藤原忠実は立場が弱く白河法皇の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。・・・

⇒藤原忠実は、引き続き、白河法皇が任務に精励するように仕向け続けた、ということだろう。(太田)

 1117年・・・、白河法皇の養女である藤原璋子<(しょうし/たまこ)>(待賢門院)が入内、翌年には中宮となり5男2女を儲ける。・・・1123年・・・1月23日、<鳥羽は、>第一皇子・崇徳天皇に譲位し、その後も実権は白河法皇が握り続けた。

⇒これは、時の治天の君であった白河法皇が、鳥羽に命じて崇徳へ譲位させたわけであり、このことで、天皇改め上皇となったところの、鳥羽上皇は、崇徳が実は祖父の白河の子ではないかという疑惑を深めたに違いない。
 ここは鳥羽天皇の項だが、この際、遅ればせながら、白河天皇/上皇/法皇について、総括的に論評しておこう。
 白河はいくつもの過ちを犯した。
 第一に、そもそも、天皇が死んだ場合、と、自身が最高権力を担う意思と能力が減退/欠如するに至ったので治天の君の地位を直系卑属たる天皇に、その天皇を上皇にした上で譲る場合、を除き、(非常時でなければ)紛争の火種を作るに等しいところの、天皇交替を行うべきではないのに、1123年に、鳥羽に(鳥羽の子ではなく白河の子であるとの疑いがあった崇徳)への譲位を行わせたことだ。(後述)
 このため、白河の崩御後、鳥羽は、(近衛を皇太子としてではなく皇太弟とした上で崇徳を即位させることによって、)自分の死後も、永久に崇徳が院政を敷けないような形で、崇徳を(間違いなく自分の実子である)近衛に譲位させることで崇徳を怒らせ、これによって、保元の乱の遠因を作ってしまうことになる。(後述)
 第二に、同情すべき背景(「注23」参照)があったとはいえ、男色にあからさまに耽り、しかも、武の血統や技量を重視すべき北面の武士に、男色相手を優先的に就けたことだ。
 第三に、祇園女御という氏素性未詳の女性を愛したのはともかく、彼女が、待賢門院や平清盛を、それぞれ養女、猶子、にするのを認めたことで、大きな影響力を彼女に与えてしまい、いくつもの禍根を残したことだ。
 第四に、以上とも相俟って、祇園女御にも取り入った平正盛(注23)の寄進を嬉々として受け、清和源氏の嫡流どころか、桓武平氏の傍流の平家を、結果としてではあるが、清和源氏の嫡流以上に引き立て、その後、桓武天皇構想を破綻させかねない状況を出来させる原因を作ってしまったことだ。(後述)

 (注23)?~1121年?。「白河上皇の院政に伊賀の所領を寄進するなどして重用され、検非違使・追捕使として諸国の盗賊を討伐するなどして活動した。・・・
 反乱を起こした源義親を討つ命令が父親の源義家に下るが、義家が死去したため、その後継者である義忠に義親討伐の命令が下る。しかし義忠は兄を討てないと躊躇したため、義忠の舅である正盛が代わりに討伐に向かい、・・・1108年・・・に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。その功績により但馬守に叙任。<その>後、・・・1110年・・・丹後守、・・・1113年・・・備前守を勤めた。ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明であり、この事件後も義親を名乗る人物が何度も登場し、史上に痕跡を残した。・・・
 源義親追討に対する正盛の恩賞については、最初は堀河天皇の諒闇中でもあるため首の請取は後回しにして正盛本人については本人が上洛する前でも早急に恩賞を決めることとされた・・・が、実際に除目が行われると正盛が比較的豊かな但馬の国守に任じられただけではなく上洛後に審査するとされていた正盛以外の子弟郎党に対する恩賞も実施された・・・。・・・正盛が白河法皇のお気に入りであったからではないか、と<いう声もあった>。・・・
 [祇園女御<の>・・・身辺に・・・平正盛<は>早くから仕えていて、<女御は、1113>年10月1日・・・に正盛が建立した六波羅蜜堂で一切経供養を行っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%A5%B3%E5%BE%A1 ]
 娘の平政子は平滋子の乳母で高倉天皇の女房であり、若狭局という名前で出仕していた。後白河天皇の晩年の寵妃である高階栄子の母であるとされる。他にも正盛の娘2人が大和、肥後という名前で出仕していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E7%9B%9B

 白河の場合は、天皇家が、摂関政治の時代に入ってからというもの、権力行使の重責から解放された状態が続いていたところ、(かねてから予定されていたことである上、父、後三条天皇による地ならし期間があったとはいえ、)にわかに再び天皇家、すなわち自分、が権力行使という重責を担うこととなり、なおかつ、自分が武家の総棟梁指名も考えなければならないという課題も抱えさせられ、一条天皇とは全く逆に、この重責、課題に押しつぶされそうになり、性依存症を含め精神に動揺をきたし、そこを、平正盛に付け込まれ、河内源氏のオウンゴールの連続のほか運にも恵まれたところの、正盛、に、白河は取り込まれてしまった、と、いうことではなかろうか。
 ところで、白河の「権力行使」だが、人事権の行使、すなわち、「叙位・除目に大きく介入」、こそした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
けれど、広義の政治に係るその他の実績に見るべきものはない。(注24)

 (注24)但し、「父・後三条天皇が延久の荘園整理令を発令し<ているところ、>白河・・・も1075年と1093年の二度荘園整理令を出し<てはいる。>」
https://colorfl.net/shirakawatenno-matome/ (後述)

 これは、武家をして地方に拠点づくりをさせ、武家が中心となってできるだけ政治が地方で分権的に行われるようになることを期し、あえて、権力を禁欲的に行使した、ということではないか、と私は考えている。
 そう考えれば、第一に「白河上皇は43年の在院期間中に9回の熊野御幸を行ってい<るところ>。単純に計算すると、4年10ヶ月に1回のペース<だ>が、1回目から2回目まで26年の間が開いており、2回目以降から計算すると、およそ1年半に1回のペースになり<、>1年半に1回、京都から往復1ヶ月ほどかけて熊野まで<赴いていたことになる>」
https://www.mikumano.net/setsuwa/toba.html
などということを行ったのは、信仰心云々以前に、基本的に年に1~2回纏めて行えば足りる人事以外の広義の政治を行う機会を自ら放棄するための名目であり、手段だった可能性があるし、第二に、「国王の氏寺」たる法勝寺(ほっしょうじ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8B%9D%E5%AF%BA
の建立等を、買官制である成功(じょうごう)で行わせた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%8A%9F_(%E4%BB%BB%E5%AE%98)
のもまた、信仰心云々以前に、官職の名目化によるところの、天皇家/摂関家による中央集権制の形骸化をもたらすための名目であり、手段だった可能性すらある、と思うのだ。(太田)

 <鳥羽の>父親の堀河天皇の在位中は、摂関家や天皇が、実権を<最初は>全て、<後に>はある程度は握っていたが、・・・鳥羽天皇の<時に>白河院政が本格化した。
 白河法皇崩御の後、1129年・・・より<、今度は、鳥羽が>院政を敷く。白河法皇の勅勘を受けて宇治に蟄居していた前関白・藤原忠実を・・・1131年・・・に呼び戻し、娘の泰子(高陽院)を入内させ、上皇の妃としては異例の皇后とした。また、白河法皇の側近であった藤原長実・家保兄弟らを排除して院の要職を自己の側近で固める。有力な院司として、藤原顕頼や藤原家成がいる。また伊勢平氏の平忠盛の内昇殿をゆるし、政権に近づけた。さらに白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、・・・1133年・・・頃より藤原得子(美福門院)を寵愛した。・・・1141年・・・、23歳であった崇徳天皇を譲位させ 、得子所生の第九皇子・体仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた。・・・1142年・・・に東大寺戒壇院で受戒し法皇となる。
 [1145年・・・8月22日、<待賢門院璋子が、彼女の>長兄・実行の三条高倉第にて崩御した。鳥羽院は三条高倉第に駆けつけて璋子を看取り、臨終の際は磬(けい、読経の時に打ち鳴らす仏具)を打ちながら大声で泣き叫んだ・・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%92%8B%E5%AD%90 ]
 ・・・1155年・・・に近衛天皇が早世すると、第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。これにより崇徳上皇が院政を敷く可能性は<完全に>失われる。
 <鳥羽は、>間もなく病に力を奪われ<、1156年に>力尽きる
 <ちなみに、鳥羽の>中宮・藤原璋子(待賢門院)は、幼少より白河院の養女となって溺愛されており、『古事談』では、鳥羽院が崇徳天皇を「叔父子」(祖父・白河院の子、叔父である子の意)と呼んでいたとしている。
 なお、鳥羽法皇は・・・1148年・・・頃に藤原得子(美福門院)の墓所として三重塔(新御塔)を建て、得子の死後にはその遺骸を納めるように言い残したが、得子は新御塔に入るのを拒否し、遺言通りに火葬されて遺骨は高野山に納められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒完全に自分のものではなかったが故に、鳥羽にとって、璋子(待賢門院)は永遠の唯一無比の女性であり続けたことを、得子(美福門院)は知っていたからこそ、死後、そんな鳥羽と一緒に葬られることを激しく拒否したのだろう。

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[藤原璋子について]

 「<璋子(しょうし。1101~45年)は、>閑院流藤原氏<(注25)>の出身。・・・

 (注25)「閑院流(かんいんりゅう)とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。・・・
 藤原道長の叔父・閑院大臣藤原公季に始まる。・・・
 3代目の公成の娘茂子が、能信養女として東宮・尊仁親王(後の後三条天皇)の妃となり貞仁親王(後の白河天皇)を産んだ頃から、代々の天皇の外戚として権勢を振るうようになる。すなわち、4代実季の娘苡子は鳥羽天皇の生母、5代公実の娘璋子は崇徳天皇・後白河天皇の生母となった。
 鳥羽即位時、公実は摂関家の若年の当主忠実を侮り、幼帝の外舅の地位にある自分こそ摂政に就任すべしと主張したが、「五代もの間、並の公卿として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の源俊明に一蹴された。
 [以後、天皇との外戚関係の有無にかかわらず御堂流の正嫡が摂関を継承する制度が確立した。これにより摂関家嫡流が危機から救われた一方、外戚と摂関の分離が常態となることで摂関政治の再興は難しくなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BF%8A%E6%98%8E ]
 この公実の子の代に至り、三条・西園寺・徳大寺の主要三家に分かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E6%B5%81
 「源俊明<は、>・・・醍醐源氏高明流」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BF%8A%E6%98%8E 前掲

⇒藤原北家ではあっても、例えば、傍流の閑院流までには、私の言う桓武天皇構想は全く伝えられていなかったことが間接的に推察できるのが、「注25」内に出てくる挿話だ。(太田)

 幼少時より、時の治天の君・白河法皇とその寵姫・祇園女御<(注26)>に養われた。7歳の時に実父・公実を失う。

 (注26)「氏素性は未詳。女御の宣旨は下されなかったが、居住地にちなんで祇園女御、または白河殿と呼ばれた。・・・1105年・・・、祇園社の南東に堂を建立して、丈六阿弥陀仏を安置し金銀珠玉で飾り立てるなど「天下美麗過差」の様は人々の耳目を驚かせたという・・・。身辺には平正盛が早くから仕えていて、<1113>年10月1日・・・に正盛が建立した六波羅蜜堂で一切経供養を行っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%A5%B3%E5%BE%A1
 「清盛の生母は女御の妹で、1120年・・・清盛が3歳のとき没したので、女御の猶子として養育されたとする説が有力である。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%A5%B3%E5%BE%A1-49953

 ・・・1115年・・・頃、摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がったが、璋子の素行に噂があったため忠通の父・忠実は固辞し、白河院の不興を買った。
 <1117年>12月13日・・・、白河院を代父として、父方の従弟・鳥羽天皇に入内・・・
 近年になって、樋口健太郎<(注27)>は藤原璋子の入内は、鳥羽天皇の後見役であったものの薬子の変以来の太上天皇の内裏立入を禁じた不文律によって直接天皇を補佐することが出来ない白河法皇が、自分と天皇のパイプ役として宮廷に送り込んだとする説を提唱している。

 (注27)竜谷大卒、神戸大院、同大博士(文学)、国立歴史民俗博物館、京都女子大勤務を経て、竜谷大文学部特任准教授。
https://kiku.hs.ryukoku.ac.jp/Detail/ProfileDetail?rcode=1000003857
https://researchmap.jp/19841007?lang=japanese

 この説によれば、璋子がたびたび法皇と会っていたのは政治的目的によるもので、『古事談』が伝えるような男女関係によるものではないとする。また、実父が既に亡くなっている璋子が生んだ崇徳天皇の外祖父は養父の白河法皇になるということを意味していた。なお、これによってそれまで白河法皇と鳥羽天皇のパイプ役を担っていた藤原忠実の面目は失われ、藤原璋子との政治的競合の中で忠実の関白失脚に至る「保安元年の政変」が発生したとしている(樋口はこの政変の黒幕に璋子がいた可能性があるとしている)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%92%8B%E5%AD%90 

⇒私は、この樋口説は成り立たないと考えているが、まずは保安元年の政変を振り返るところから始め、その理由を明らかにしていきたい。(太田)↓

 「1107年・・・、堀河天皇が急逝するとその子であるわずか5歳の鳥羽天皇が即位した。当時の関白は30歳の藤原忠実(御堂流)であったが、次の天皇の摂政を巡って天皇の伯父である藤原公実(閑院流)とその地位を争うことになった。天皇の祖父である白河法皇にとって公実は母方の従兄ではあったが、最終的には源俊明の進言と御堂流に対する閑院流の宮廷内での勢力の弱さから法皇は忠実を引き続き摂政を任せ、敗れた公実は同年に急死した。白河法皇は亡くなった公実の娘である璋子を引き取って養女とした。

⇒白河と忠実は、(聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、及びそれに基づく、藤原摂関家から天皇家への権力奉還、について知る立場になかったところの、)公実の勘違いぶりに苦虫を噛み締めていたことだろうが、白河が、公実の娘の璋子を養女にしたのが公実の死去以後であれば罪滅ぼしの気持ちだったのだろうし、死去より前であれば、公実の希望が成就しないことを知っていた(ないしは、希望を成就させないつもりだった)ことから、そのことを公実に対して示唆しつつ悪いようにしないからと、公実を娘の璋子を養女にしたのだろう。
 問題は、璋子の「養母」を祇園女御にしたことだ。
 私は、璋子自身が性的に奔放であったと思っているが、それには、祇園女御の「薫陶」もあったのではなかろうか。(太田)

 白河法皇は院政を進めていたが、宮中の慣例によって退位した太上天皇は内裏には立ち入れないため、摂政の藤原忠実が代わりに天皇に近侍して後見を務め、法皇と天皇との間のパイプ役を務めることが期待された。・・・1113年・・・に鳥羽天皇は元服し、忠実が関白に転じた後もこの方向性は変わらなかった。しかし、忠実と皇室との血縁の薄さが弱点であることには変わりがなかった。そのため、ある方策が検討された。すなわり、法皇の養女である璋子を忠実の嫡男・忠通の正室とし、忠実の娘である勲子[・・くんし。後に泰子(たいし)(1095~1156年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E5%AD%90 ]
を鳥羽天皇の后にする構想であった(なお、忠通は覚法法親王の異父弟で既に法皇の猶子になっていた)。
 これが実現すれば摂関家と皇室の関係が強化されるだけでなく、法皇が頭を悩ませていた璋子の将来も定まり、忠実は将来の天皇の外戚になれる可能性が生まれ、法皇の娘婿となる忠通が将来の摂関への道が確実になるという、当事者全員にとって利益のあるものと思われた。ところが、璋子が性的奔放であると言う噂を信じた忠実は忠通と璋子の縁談に難色を示し、法皇が決めた婚約を破棄してしまった。
 これに対して、白河法皇は<1118年>12月13日・・・に行き場を失った璋子を入内させ、わずか1か月後の<1119年>1月26日・・・には鳥羽天皇の中宮に立てられて、勲子の入内の約束を破棄したのである。忠実は直接抗議しなかったものの、璋子の儀式には非協力的な態度を取った。・・・

⇒以上は、摂関政治が復活する可能性が自然に絶たれた、という印象を与えるために、白河と忠実が示し合わせて行った芝居であった、と、私は見ている。(太田)

 <その>1119年<に>・・・、璋子は顕仁親王(後の崇徳天皇)を出産した。崇徳天皇の誕生に関しては、『古事談』巻第二には天皇は実は白河法皇と藤原璋子の密通によって生まれた子で鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んだという逸話が伝えられている。だが、実父である藤原公実と幼少時に死別して白河法皇の養女となり、その娘として入内した璋子にとって「父」である白河法皇の御所が里第であり、彼女が里帰り先として法皇の御所に帰るのも「父」である白河法皇が外孫の崇徳天皇の外祖父として振る舞ったのも当然であった。樋口健太郎は一条天皇の母である藤原詮子が実弟の藤原道長の土御門殿と同居して天皇がいる内裏と往復して天皇と道長の間のパイプ役を務めた事例を念頭に、璋子の入内の目的の1つに白河法皇と鳥羽天皇との間のパイプ役が期待され、彼女が度々里第である戻ったのもこうした政治的目的もあったと考えている。

⇒随分探した↓が、その類の話を記しているものをネット上で見つけることができなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A9%AE%E5%AD%90
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A9%AE%E5%AD%90-124640
https://blog.goo.ne.jp/erika2672-t/e/1154f6baf72c2b8f54082b3b1f4885b3
https://history-land.com/michinaga-family/
 それはそれとして、すぐ上の二つは面白いので一読を勧める。(太田)

 璋子の存在はこれまで法皇と天皇のパイプ役を務めてきた忠実の立場を弱めていく。一方、鳥羽天皇も<1117>年には16歳になっており、成長した天皇は法皇からの自立を模索するようになっていた。その中で浮上するのは、一度は白河法皇に止められた勲子の入内の話であった。
 ・・・1120年・・・10月3日、白河法皇が熊野御幸に向かうために京都を出発した。その途中で法皇は鳥羽天皇が藤原忠実を召し出して娘の入内を命じたという噂を聞いた。法皇は京都郊外の鳥羽殿に帰還した後に忠実に使者を派遣して「娘の入内は全くあるべからず」と伝えると共に事の真偽を問いただした。忠実は1年前にその話があったが法皇が不機嫌になられたと聞き、法皇が入内に同意していないことは承知していると返答した・・・。ところが、11月12日に法皇が京内にある璋子の里第である三条烏丸殿に入った直後に法皇は忠実に対する勅勘処分と内覧職権の停止を命じたのである・・・。三条烏丸殿には数日前から璋子が滞在しており、改めて彼女に対して事の真偽を問いただしたとみられている。ここで璋子は天皇から娘の入内を求められた忠実が承知して自分のライバルになる后が入内することが決まったことを「父」である法皇に訴えたと想定され、それを聞いて忠実が虚言を述べていると激怒した法皇が忠実の罷免を決めたと推測される。ただし、本当に虚言を述べたのが忠実だったのか璋子だったのかは不明である。忠実が法皇から娘の入内を拒否された後もその将来を伊勢神宮に祈願した事実・・・があり、娘の入内のために天皇と秘かに話を進めたことが白河法皇の目からは治天の君の権限に対する侵害とも自分に対する裏切り行為とも映った可能性がある。反面、璋子と忠実が不仲であったのも事実であり、彼女が自分を嫌う忠実を失脚させるためにあたかも入内の話が進んでいるかのように法皇に伝えた可能性も否定できないからである(時系列的に璋子の話を聞いた法皇は忠実の反論を聞かずに処分を決めている)。

⇒鳥羽が白河に反抗して勲子の入内を図り、璋子がこれを阻止しようとして、忠実を陥れた、で決まりだろう。(太田)

 この結果、関白は<1121年>3月5日・・・付で忠実から<その長男で>法皇の猶子で<も>ある忠通に代わり、・・・1123年・・・には崇徳天皇が即位して白河法皇は新天皇の外祖父となった。

⇒白河も、さすがに、忠実にとっての「実害」が緩和されるように取り計らったといったあたりか。(太田)

 忠通は白河法皇の指導の下に摂関としての経歴を積み重ねていくことになる。・・・
 藤原忠実の娘・勲子改め泰子が既に退位している鳥羽上皇の后として入内するのは白河法皇の崩御後の・・・1133年・・・のことであり、璋子の入内から遅れること15年、彼女は既に39歳になっていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%AE%89%E5%85%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

⇒鳥羽は、律義に勲子改め泰子を処遇したというわけだ。(太田)

 「泰子<は、>・・・1139年・・・7月28日、・・・院号宣下を受け、御所名に由来する高陽院を称した。・・・1141年・・・、先に入道した鳥羽院に続いて、5月5日宇治において落飾。
 皇后・女院という女性の最高位には昇ったものの、泰子の年齢を考えると皇子女出産は不可能に近いことだった。・・・親子ほども年の差があることも手伝ってか、・・・上皇の寵姫・藤原得子(のちの美福門院)・・・<と>の間には、待賢門院<(璋子)>と得子の間に見られたような憎悪の火花を散らす戦いは終になかった。・・・
 泰子立后の時、皇后宮大夫に任ぜられたのは泰子の異母弟であり、その庇護下に入っている頼長であった。忠実が白河院によって罷免された際、後任の関白としてその長男・忠通が就いたが、鳥羽院政が開始されると忠実は内覧に復し、忠通の関白は有名無実のものとなった。

⇒これも、鳥羽の律儀さの表れだろう。
 とまれ、天皇家に権力奉還を行った後の天皇家と藤原摂関家との間の関係の重要性は、低下しており、この勲子の入内の件についても、口角泡を飛ばすような事柄ではなかろう。(太田)

 忠実は柔弱な忠通に物足りなさを感じてか、強い個性の持ち主である頼長に望みを託し、ゆくゆくは摂関家を彼に継がせるつもりで、泰子の傘下に入れて庇護を得させるよう計らった。泰子もそれに応え、長姉として頼長をよく庇護し、鳥羽院と忠実・頼長父子の交流の絆となるよう勤めた。
 <ところが、>鳥羽院の愛児・近衛天皇が夭折してより後は、美福門院や忠通の讒言によって忠実・頼長父子は院から遠ざけらされていったが、泰子はその間に立って重要な緩和作用を果たした。その泰子が・・・1155年・・・12月16日、・・・61年の一生を高陽院において終えた。・・・
 その後、後ろ盾を失った忠実・頼長の立場は次第に危うくなり、保元の乱へ突入して行った。
 <なお、>泰子は忠実から、高陽院領として知られる50余箇所の荘園群を伝領したが、死後に彼女の猶子・近衛基実(忠通の四男、嫡子)に譲渡され、近衛家領の一部分となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E5%AD%90 前掲

⇒軍事に係る桓武天皇構想実現の最終フェーズに入っていたことを踏まえれば、それが誰であれ、軍事に本質的に疎いところの、女性、に治天の君と天皇とのパイプ役が務まるワケがないのであって、樋口説は成り立ち得ない、と私は考えている次第だ。
 だから、彼女の白河のところへの頻繁な出入りは、やはり情事目的だろう。
 彼女にとって「父」である白河法皇の御所が里第であるという理屈もおかしい。
 彼女が育ったのは(白河が通っていた)祇園女御のところであり、里第は、概ね祇園にあったところの、祇園女御の邸宅のはずだからだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%A5%B3%E5%BE%A1 前掲
http://liberalarts-kgwu.sblo.jp/article/177066574.html ←も参照した。 (太田)
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 「鳥羽院政<(1129~1156年)については>、忠実<によって、>「其の政、多く道ならず、上は天心に違い、下は人望に背く」と評され<ている>」・・・
https://www.mikumano.net/setsuwa/toba.html
けれど、白河院政下で事実上権力行使をする機会を奪われて久しい、摂関家の人間の鳥羽院政評など参考にはならない。
 まず、鳥羽上皇の素行面だが、白河の前例があることから院政を行うことに不安を抱かなかったからだと想像され、(白河を反面教師にもしたとも思われ、)性的放縦さは見られないし、彼が「父・堀河天皇と並ぶ笛の名人として知られ、・・・催馬楽や朗詠にも優れ<ていた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
点も、白河に比しての鳥羽の心の余裕を見て取ることができる。
 権力行使面についてはどうか。
 鳥羽は、「白河院のおよそ1年半に1回のペースの熊野御幸<を>引き継ぎ・・・33年の在院期間中に21回もの熊野御幸を行って<おり、これは、>およそ1年7ヶ月に1回のペース<であり、> 最初の3回は白河上皇の御幸に同道したもので、后の待賢門院も一緒<っだったが、>治天の君としての熊野御幸はそれ以降の18回。27歳の1130年から50歳の1153年の間に18回<行っている>。」
https://www.mikumano.net/setsuwa/toba.html
 また、白河が天皇時代に法勝寺の建立を始めてから、その近傍に、堀河、鳥羽、崇徳、近衛が、それぞれ天皇時代に「勝」の付く寺の建立を始めており、また、鳥羽と崇徳による建立開始の間に、待賢門院(藤原璋子)がやはり「勝」の付く寺の建立を始め、白河が亡くなる前に落慶している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%8B%9D%E5%AF%BA
ところ、白河、堀河、鳥羽、賢門院、によるものは白河の意志、崇徳、近衛によるものは鳥羽の意志であり、成功による建立という点を含め、これも、鳥羽は、白河を踏襲したわけであり、これらの狙いもまた、白河について私が指摘したことと同じである、と見ている。
 なお、「鳥羽院政期になると荘園整理が全く実施されなくなったため、各地で荘園は爆発的に増加した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%9B
と、この点は、鳥羽は(後三条と)白河を踏襲しなかったが、そもそも(後三条と)白河がやったことは、国衙領の縮小による地方分権化、という、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、に反する逆コースなのだが、その目的は、私見では、摂関家/藤氏長者の下に全国の地方土着化した藤原氏系武家群が、或いはまた、天台座主あたりの下に全国の寺社勢力の僧兵群が、組織化されないことが見極められるまでの間、前者、ないし、後者、の下の荘園の増加を後退的足踏み状態にするところにあった、と、私は見ている。
 鳥羽は、見極められた、と判断して、この逆コースを終わらせた、と。
 (結果としてではあれ、この逆コースを続ければ、天皇家の下の荘園が加速度的に増えていきかねず、そう遠くない将来、武家総棟梁家に天皇家が権力を移譲する運びとなった折に、この総棟梁家と巨大荘園領主でもある天皇家が、事実上、日本に二重権力状況を招来しかねないことも危惧された可能性がある。)
 問題は、鳥羽が、白河に引き続き、白河院政期に引き続く河内源氏嫡流のオウンゴールの連続で、結果的に、平家を引き上げ続けざるをえなかったことだ。(太田)

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[鳥羽・後白河と平忠盛・清盛]

・忠盛

 「平忠盛<(1096~1153年)<の>・・・父の正盛<(前出)>は・・・先行の軍事貴族である河内源氏とも連携を図り、義忠は忠盛の烏帽子親となっている。義忠死後に河内源氏が衰退するのと入れ替わるように、伊勢平氏は源氏の与党を従わせつつ勢力を伸ばしていった。

⇒これは河内源氏がオウンゴールを連発したせいであり、鳥羽に責任はない。(太田)

 ・・・1108年・・・、忠盛は13歳で左衛門少尉となり、・・・1111年・・・には検非違使を兼帯して、京の治安維持に従事した。・・・1113年・・・には盗賊の夏焼大夫を追捕した功で従五位下に叙される・・・。同年の永久の強訴では父とともに宇治に出動して興福寺の大衆の入京を阻止している。・・・1114年・・・、白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。その後、検非違使の任を離れ伯耆守となり、右馬権頭も兼任する。
 ・・・1117年・・・、鳥羽天皇に入内した藤原璋子(待賢門院)の政所別当となる。他の別当には藤原長実や藤原顕隆など白河法皇の有力な近臣が名を連ねており、法皇の信頼の厚さがうかがえる。・・・

⇒文面から分かるように、忠盛については、祖父の白河から、璋子とパッケージで鳥羽に「押し付け」られただけであり、鳥羽の意思はここに入っていない。(太田)

 1119年・・・11月14日の賀茂臨時祭では新舞人に選ばれ、その華やかな装いは「道に光花を施し、万事耳目を驚かす。誠に希代の勝事なり」と周囲を驚嘆させた・・・。・・・1120年・・・に越前守に転任するが、在任中に越前国敦賀郡で殺人事件が起こり、犯人の日吉社神人を逮捕して検非違使に引き渡す途中で、延暦寺の悪僧が犯人の身柄を奪取するという事件が発生する。朝廷が悪僧を捕らえたことで延暦寺の強訴に発展するが、白河法皇は忠盛を擁護した。この頃に院の昇殿を許され、藤原宗子(池禅尼)を正室とする。
 ・・・1127年・・・、従四位下に叙され、備前守となる。さらに左馬権頭を兼任し、院の牛馬の管理を行う院御厩司となった。馬寮と院御厩は職務内容が共通するため兼任は自然なことであったが、戦闘における騎馬の重要性の観点からすれば、軍事貴族である忠盛にとっては大いに意義のあるものだった。・・・1129年・・・3月、忠盛は山陽道・南海道の海賊追討使に抜擢される・・・。これは、正式な宣旨ではなく院宣と検非違使別当宣(別当は待賢門院の兄・三条実行)によるものであり、白河法皇の強引な引き立てだったと考えられる。それから間もなくの7月7日、白河法皇が77歳で崩御した。忠盛は法皇の葬儀で他の近臣とともに入棺役を務め、山作所(火葬場)の設営も担当した。

⇒以上が、白河期における、忠盛の、いわば前史だ。(太田)

 鳥羽上皇が院政を開始すると、忠盛は御給により正四位下に叙される。白河院近臣の多くは鳥羽院近臣に横滑りし、忠盛も鳥羽上皇および待賢門院の北面となる。院御厩司の職務もそのまま継続が認められた。白河法皇が崩御して程なく、死んだと思われていた源義親を名乗る者が京に出現して藤原忠実の邸に保護されていたが、何者かに襲撃され殺害されるという事件が起こる。忠盛にも嫌疑がかけられたが、真犯人が美濃源氏の源光信<(注28)>と判明したことで事無きを得た。

 (注28)満仲-頼光-頼国-国房(美濃源氏の祖)-光国-(土岐)光信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%9B%BD%E6%88%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E4%BF%A1
 「白河・鳥羽両院に仕えて、北面武士や検非違使を務めた。・・・1129年・・・正月、前年に武者所を殺害したとして右獄に収監されていた郎党が赦免された際、この郎党の帰属を主張した源為義と争いとなり、互いに兵を挙げてこれの奪取を図ったことから合戦に発展しかけた・・・。・・・
 同年、21年前に出雲で平正盛に討伐されたはずの源義親を名乗る者が京に現れ、鳥羽院の意向で前関白・藤原忠実の<鴨院>屋敷に匿われたが、・・・1130年・・・、もう一人の義親が大津から現れ、10月、この二人は四条大宮にある光信の邸宅の前で合戦を演じた。結果、大津義親が<鴨院義親に>敗れ<、>贋物だと自白し」(上掲)
「<た後、>殺された。
 11月、藤原忠実邸(鴨院)に居た「鴨院義親」を騎兵20、従者<30~>40人が襲撃。「鴨院義親」は党類10人とともに殺された。
 鳥羽上皇は事件の下手人を捜すよう公卿会議に命じた。かつて義親を追討した正盛の子の忠盛も疑われたが、彼は潔白を主張し、自ら下手人を捕らえると言った。結局、検非違使の源光信が下手人ということにされ(動機は不明)、土佐国へ流され、弟の光保も連座して解官された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E8%A6%AA%E3%81%AE%E4%B9%B1
 「1143年・・・、<光信は>配流を解かれ本位に復したが、2年後の・・・1145年・・・に・・・頓死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E4%BF%A1 前掲
 「この事件はかつて白河法皇が追討させた大罪人の義親を名乗る人物を、鳥羽上皇が藤原忠実に保護させ、更にこの罪人を殺した者を賞するどころか罰したなど、不審な点が多い。・・・
 下向井龍彦・・・は「鴨院の義親はおそらく本物であり、正盛の義親追討は八百長だったのである。少なくとも多くの貴族はそう信じていた。義親の死で忠盛は安堵の息をついたことであろう」と推測している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E8%A6%AA%E3%81%AE%E4%B9%B1 前掲

⇒平正盛、忠盛親子は、似た者同士のイカサマ師であった、というのが私の見方だ。
 この「源義親の乱」で、鴨院義親がまさしく義親であって、鳥羽は、その心証を得た上で、白河から「押し付け」られた忠盛を、正盛が実は義親を討ってはいなかった証拠を義親から得た上で、遠ざけようと考えて、義親を忠実のところで保護させたのに対し、忠盛は先手を打って義親を(今度こそ本当に)殺害した上で、その罪を源光信になすりつける工作を行い、それに成功した、ということだろう。
 このことにより、忠盛は、自らの失脚を回避すると同時に、清和源氏の評判を一層低下させることにも成功したわけだ。(太田)

 ・・・1132年・・・、上皇勅願の観音堂である得長寿院造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進する。その功績により内昇殿を許可された。・・・内昇殿は武士では摂関期の源頼光の例があるものの、この当時では破格の待遇だった。・・・

⇒これも、父親譲りの賄賂攻勢といったところか。(太田)

 やがて鳥羽法皇の寵愛が藤原得子(美福門院)に移り藤原家成が院近臣筆頭の地位を確立すると、忠盛は妻の宗子が家成の従兄弟であったことから親密な関係を築いていく。鳥羽院政期になると荘園整理が全く実施されなくなったため、各地で荘園は爆発的に増加した。忠盛も受領として荘園の設立に関与し、院領荘園の管理も任されるようになった。肥前国神埼荘の預所となった忠盛は、・・・1133年・・・宋人・周新の船が来航すると院宣と称して、荘園内での大宰府の臨検を排除しようとした・・・。日宋貿易は民間で活発に行われ博多には宋人が居住し、越前国の敦賀まで宋船が来航することもあった。忠盛は越前守在任中に日宋貿易の巨利に目を付け、西国方面への進出を指向するようになったと思われる。
 ・・・1135年・・・、中務大輔に任じられる。この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・瀬戸内海は、海賊の跋扈が大きな問題となっていた。これらの海賊は、有力な在地領主、神人・供御人の特権を得た沿岸住民などが経済活動の合間に略奪しているケースが多く、国衙の力だけでは追討が困難だった。4月8日、西海の海賊追討について忠盛と源為義のどちらが適当か議論となったが、備前守を務めた経験を買われ、「西海に有勢の聞こえあり」という理由で忠盛が追討使に任じられる・・・。

⇒どうせ、院の近臣達も賄賂漬にしていて、為義ではなく自分を選ばせたのだろう。(太田)

 8月には日高禅師を首領とする70名の海賊を連行して京に凱旋した。もっともその多くは忠盛の家人でない者を賊に仕立てていたという・・・。

⇒忠盛がイカサマ師であることに納得頂けただろうか。(太田)

 忠盛は降伏した<本物の>海賊(在地領主)<は>自らの家人に組織化した。

⇒そもそも、追討など全くやっていない可能性が・・。(太田)

 その後、美作守に任じられる。・・・1139年・・・、別当・隆覚の停任を求めて興福寺衆徒が強訴を起こすと、宇治に出動して入京を阻止した。・・・1144年・・・、正四位上に叙され尾張守となった。
 忠盛は鳥羽院庁の四位別当としても活動した。同僚の藤原忠隆<(注29)>は貴族でありながら乗馬の達人で意気投合するところがあったのか、忠隆の子・隆教は忠盛の娘を妻に迎えている。

 (注29)1102~1150年。藤原北家中関白家。従三位。その四男信頼は、後年、平治の乱の首魁となる。また、娘は摂政・関白近衛基実の室となり、摂政・関白近衛基通を産んでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9A%86

 なお、忠隆の妻・<藤原>栄子は崇徳上皇の乳母であり、忠盛の妻・<藤原>宗子<(池禅尼)>は崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だった。

⇒「意気投合」などちゃんちゃらおかしいのであって、要は、最終的に摂関家に接近するために、摂関家に近い藤原北家の有力者達に、贈賄や嫁とり等の手練手管を弄して接近した、ということだろう。(太田)

 鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳上皇を中心に展開していた。忠盛自身も和歌に通じ、たびたび崇徳主催の歌会に参加した。崇徳にとって忠盛はもっとも頼りにできる人物だった。

⇒武勇とは縁遠かった忠盛だが、幸い、利殖の才のほか、歌才もあり、カネと趣味の両方を駆使して天皇家に取り入ったというわけだ。
 そして、何といっても、武勇に優れる河内源氏が自滅で信用を失っていたおかげで、武勇面での弱点が致命傷とはならなかったことが大きい。(太田)

 ・・・1146年・・・、忠盛は播磨守に任じられる。播磨守は受領の最高峰といえる地位であり、受領から公卿への昇進も間近となった。ところが、翌・・・1147年・・・6月15日、清盛の郎党が祇園社神人と小競り合いとなり、多数の負傷者が出る騒ぎとなる(祇園闘乱事件)。忠盛はすぐに下手人を検非違使庁に引き渡すが、祇園社の本寺である延暦寺は納得せず、忠盛・清盛の配流を求めて強訴を起こした。忠盛にとっては大きな危機だったが、鳥羽法皇は忠盛の有する軍事的・経済的実力を重視して延暦寺の要求を斥けた。事件後、忠盛は伊勢の自領を祇園社に寄進して関係修復を図っている。
 ・・・1148年・・・、藤原忠隆が公卿に昇進すると忠盛は四位の最上位者となり、翌・・・1149年・・・には忠隆の後任として内蔵頭となった。・・・1151年・・・、刑部卿となる。・・・

⇒「忠盛の経済的隆盛と急激な昇進は貴族層の反感も招き、忠盛が斜視であったため「伊勢の瓶子(へいし)(平氏)は酢甕(すがめ)(眇(すがめ))なり」と嘲弄(ちょうろう)されたり、殿上で豊明節会(とよのあかりのせちえ)の夜に闇(やみ)討ちされかけて<さすがに(太田)>反対に忠盛が威圧したという話などが残っている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%9B-92222
のは、単なる、彼に対するやっかみが原因とは言い切れないのではなかろうか。(太田)

 ・・・1153年・・・、忠盛は公卿昇進を目前としながら58歳で死去する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%9B 上掲

・清盛

 「平清盛<(1118~1181年)は、>・・・平忠盛の長男として生まれる(実父は白河法皇という説もある。詳細後述)。出身地は京都府京都市という説が有力である。生母は不明だが、もと白河法皇に仕えた女房で、忠盛の妻となった女性(『中右記』によると・・・1120年・・・没)である可能性が高い。『平家物語』の語り本系の諸本は清盛の生母を祇園女御としているが、読み本系の延慶本は清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている。また、近江国胡宮神社文書(『仏舎利相承系図』)は清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を猶子としたと記している。清盛が忠盛の正室の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれないがその死後である)にもかかわらず嫡男となった背景には、後見役である祇園女御の権勢があったとも考えられる。・・・
 ・・・1129年・・・正月に12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任。これについて中御門宗忠は驚愕している。清盛は同年3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・源有仁の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されている。祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの噂も当時からある。落胤説の事実性は乏しいものの、清盛が公卿を輩出したことのない院近臣伊勢平氏の出身にもかかわらず、令制最高職の太政大臣にまで昇進したことは、王家との身内関係が当時信じられていたゆえといわれる。
 若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟であった。高階基章の娘との間に重盛・基盛が生まれるが、死別したと推測される。・・・1147年・・・、継室に迎えた平時子との間に宗盛が生まれる。時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代として、葉室顕頼・信西とともに院庁の実務を担当していた。・・・

⇒清盛は白河の落胤でなかったとしても、白河の家族扱いされていたことは間違いない。
 だからといって、白河が清盛を武家総棟梁候補と考えたわけがない。(太田)

 その後、清盛に代わり正室腹の異母弟の平家盛が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。既に母を亡くし・・・た清盛に替わって、母方の後見の確かな家盛が家督を継ぐ可能性もあった。しかし・・・1149年・・・に家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。家盛の同母弟・頼盛は15歳の年齢差もあって統制下に入り清盛も兄弟間の第二の者として遇するが、経盛・教盛に比べてその関係は微妙なものであり続けた。安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになり、・・・1153年・・・、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる。

⇒忠盛が、やむを得なかったとはいえ、頼盛ではなく、清盛を平家の棟梁としたことが、平家に悲劇的終焉をもたらしたと言えよう。(太田)

 保元の乱、平治の乱・・・<後、>清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築く。

⇒義朝の自傷行為で、(鳥羽の後を継いだ)後白河が、河内源氏の棟梁を武家総棟梁に指名する計画をご破算にし、清和源氏全体の中から武家総棟梁候補を見つけ、育て、そして総棟梁に指名できるようになるまで、時間を稼いでいた間隙に、勘違い者の清盛がのし上がってきたということ。(太田)

 継室の時子が二条天皇の乳母であったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当・中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。・・・
 1165年<、二条天皇が>・・・7月28日崩御した。
 後継者の六条天皇は幼少であり近衛基実が摂政として政治を主導して、清盛は大納言に昇進して基実を補佐した。・・・12月25日に・・・後白河上皇と平滋子(建春門院)の間<の>第七皇子<の>・・・憲仁親王・・・後の高倉天皇・・が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。・・・10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。翌・・・1167年・・・2月に太政大臣になるが、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた藤原信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。・・・

⇒後白河による、清盛懐柔策以上でも以下でもあるまい。(太田)

 ・・・1168年・・・清盛は病に倒れ、出家する。・・・後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させ・・・た。

⇒清盛の命が長くないことを祈念しつつ、万が一にも清盛を怒らせないよう、懐柔策を念には念をいれて行ったということだろう。(太田)

 病から回復した清盛は福原に別荘・雪見御所を造営して、かねてからの念願であった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。・・・1169年・・・、後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた。
 ・・・1177年・・・6月には鹿ケ谷の陰謀が起こる。これは多田行綱の密告で露見した<ことになっている(コラム#11606(未公開))>が、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。西光は処刑とし、藤原成親<(注30)>は備前国へ流罪、俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。

 (注30)1138~1177年。「藤原家成<(前出)>の子。・・・平治の乱では藤原信頼とともに武装して参戦する。敗北後、信頼が処刑されたのに対して、成親は妹・経子が平重盛の妻であったことから特別に助命され、処分は軽く解官にとどまった。・・・成親の娘はのちに重盛の嫡子・維盛の妻となっている。・・・1161年・・・4月、成親は右中将に還任する。・・・<鹿ケ谷事件当時は>権大納言」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%88%90%E8%A6%AA

 ただし、実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であ・・・る。

⇒陰謀はあったぽいが、少なくとも後白河は関わってはおらず、(父親から、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の骨子を聞かされていたと思われ、後白河の心中を忖度した)成親が起こしたフライング事件だった、私は見ている次第だ(コラム#11606(未公開)。(太田)

 ・・・1179年・・・6月、娘の盛子が死亡。すると法皇は直ちに盛子の荘園を清盛に無断で没収した。さらに7月、重盛が42歳で病死。するとまた、後白河法皇は重盛の知行国であった越前国を没収した。さらに、法皇は20歳の近衛基通(室は清盛女・完子)をさしおいて、8歳の松殿師家を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となり、近衛家を支援していた清盛は憤慨する。

⇒事ここに至っては他に方法なしと腹をくくった後白河が、摂関家が自分と一体的な存在であることに清盛が全く気付いていないと踏んで師家を登用したことを含め、ありとあらゆる方法で清盛を挑発した、と私は見ている。(太田)

 11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した。いわゆる治承三年の政変であるが、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。後白河法皇<を>・・・清盛は・・・、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。・・・1180年・・・2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上は高倉上皇の院政であったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかであった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E7%9B%9B

⇒後白河は、清和源氏が蹶起するだろうと読んで、ほくそ笑んでいたに相違ない。(太田)
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[白河・鳥羽・後白河、と、源為義・義朝そして源義康]

※白河と為義については、既述しているが、復習を兼ねて・・。

・為義

 「源為義<(1096~1156年)の>・・・父の義親が西国で乱行を起こしたため、祖父・源義家は三男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。・・・1106年・・・に<祖父>義家が死去すると<叔父の>義忠が家督を継ぐが、・・・1109年・・・に暗殺された(源義忠暗殺事件)。義忠の叔父・源義綱一族が嫌疑を受けて追討の対象になると為義は美濃源氏の源光国と共に追討使に起用され、義綱を捕縛して京へ凱旋した。この功により、為義は14歳で左衛門少尉に任じられた。

⇒義家死去時に、為義は9~10歳になっており、その不出来であることが分かっていた可能性があり、それまでの間に、義家が嫡子の変更を行っていなかったことが悔やまれる。(太田)

 初期の為義は院との関係が深く、摂関家と懇意だった様子はない。『愚管抄』には白河法皇が「光信、為義、保清の三人を検非違使に任じ、即位したばかりの鳥羽天皇を警護させた」とあり、永久の強訴や保安4年(1123年)の延暦寺の強訴では平忠盛と並んで防御に動員されるなど、院を守護する武力として期待されていたことが分かる。為義の最初の妻も白河院近臣・藤原忠清の娘で、長男の義朝を産んでいる。・・・

⇒この辺りまでは、白河(~1129年)が為義を引き立てようとした形跡がある。(太田)

 1124年・・・頃には検非違使に任じられた。しかし、同い年で任官もほぼ同時だった忠盛が受領を歴任したのに対して、為義は一介の検非違使のまま長く留め置かれ、官位は低迷することになる。
 為義が昇進できなかった最大の原因は、本人と郎党による相次ぐ狼藉行為だった。・・・
 為義本人については犯罪者の隠匿、他の同僚との軋轢、郎党については粗暴な振る舞いが目に付く。・・・
 1135年・・・4月、西海の海賊追討に際して忠盛と共に候補に挙がるが、鳥羽上皇は「為義を遣わさば、路次の国々自ずから滅亡か」として強く反対した・・・。為義郎党による追討に名を借りた略奪行為を懸念したと見られる。
 ・・・1136年・・・、為義は左衛門少尉を辞任する。これまでの経緯を見ると、実質的には解官に近かったと推測される。・・・ 

⇒為義は、祖父義家や白河と、それを引き継いだ鳥羽(院政:1129年~)の思いの全てを水の泡にしてしまったわけだ。(太田)

 この頃、長男の義朝は東国に下向していた<ところ、>、次男の・・・源義賢<(注31)が>・・・1139年・・・に体仁親王(後の近衛天皇)が立太子すると東宮帯刀先生に任じられるが、翌・・・1140年・・・には殺人犯に協力するという失策を犯して罷免され<て、為義の立場は更に悪化した>。・・・

 (注31)?~1155年、「1139年・・・、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれた・・・
 翌年、滝口源備殺害事件の犯人を捕らえるが、義賢がその犯人に関与していたとして帯刀先生を解官される。・・・
 その後藤原頼長に仕える。・・・1143年・・・頼長の所有する能登国の預所職となるが、・・・1147年・・・年貢未納により罷免され、再び頼長の元に戻り、頼長の男色の相手になっている・・・。
 ・・・関東に下っていた兄・義朝が、・・・1153年・・・に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす・・・。為義・義賢は秩父氏・児玉氏一族に影響力を持つ重隆を後ろ盾に勢力の挽回を図ろうとしたみられるが、結果的には両氏の内部を義賢派と義朝派に分裂させることになる。
 ・・・1155年・・・8月、義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥・源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦に及んで義父・重隆とともに討たれた。享年は30前後とされる。大蔵館にいた義賢の次男で2歳の駒王丸は、畠山重能・斎藤実盛らの計らいによって信濃木曾谷(木曽村)の中原兼遠に預けられ、のちの源義仲(木曾義仲)となる。京にいたと思われる嫡子の仲家は、源頼政に引き取られ養子となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E8%B3%A2 前掲

⇒為義に見切りをつけた鳥羽が、為義の嫡子の義朝(1123年~)を、ダメ親の為義の下に置いておくべきではないと判断し、かつまた、義家死去以来、河内源氏の地方(東国)との縁が薄れてきてしまっていたのでそこでの本拠作りを行わせるべく、東国に送り込ませた、と、私は見る。
 なお、「義朝は「上総御曹司」と呼ばれた時期があるがこれは父・為義が安房国の丸御厨を伝領していたことからその地に移住し、その後は安西氏・三浦氏・上総氏の連携の下に義朝は安房から上総国に移り上総氏の後見を受けるようになったことによるものと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E8%B3%A2 前掲
 これを、「義朝を廃嫡して義賢を後継者とした結果と考えられる」と見る説もあり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9 前掲
「1139年・・・の体仁親王(後の近衛天皇)の立太子で弟の義賢が東宮帯刀に任じられていた当時、兄である義朝は未だ無位無官であ<った>」(上掲)
ことをその根拠として挙げる者もいるが、坂東での拠点づくりはタテマエ上は公務ではないのに対し、義賢は公務に就いたのだから、その時点で義賢だけが「有位有官」になるのは当たり前だし、そもそも、義朝(1123~1160年)の母は白河院近臣・藤原忠清の娘である(前出)のに対し、義朝の異母弟である義賢(?~1155年)の母は六条大夫重俊の娘である(上掲)ところ、彼には、同母弟の義広(志田三郎先生)がいる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%BA%83_(%E5%BF%97%E7%94%B0%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%85%88%E7%94%9F)
けれど、この六条大夫重俊の娘の父の素性が伝わっていないのに対し、為義の長男の義朝の母は、白河院近臣の藤原忠清
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%9C%9D 
であって、その祖父は村上天皇の子である具平親王のご落胤である、
https://rekishi.directory/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%B8%85%E3%81%AE%E5%A8%98%EF%BC%88%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9%E3%81%AE%E5%A6%BB%EF%BC%89
https://rekishi.directory/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E6%88%90%EF%BC%88%E5%85%B7%E5%B9%B3%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E8%90%BD%E8%83%A4%EF%BC%89
というわけで、出自も官職もれっきとしたものであり、為義と藤原忠清の娘との結婚と、その間に生まれる男の子については、為義と忠清の共通の上司である白河(~1129年)の関心事項でもあったはずであることから、義朝の少年期に、為義が義朝を廃嫡して義賢を嫡子にするなどということは考えにくい。 
 なお、藤原頼長が男色に耽ったのは、白河のケースよりも一条のケースに近いと見たい。
 すなわち、頼長は、「1147年に・・・左右両大臣の不在によって内大臣の頼長が一上<(いちのかみ。「天皇の師傅(しふ)である太政大臣と天皇の代理である摂政関白を除いた公卿の中で最高の地位にある大臣」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B8%8A )>
になったが、鳥羽上皇が全権力を握っていて、自分が仕える崇徳天皇は権威の担い手でしかなく、摂政たる兄の忠通にはもとより、忠通を「圧倒」(上掲)するに至った一上たる自分にもまた、何の権力もないことを思い知らされ、その鬱憤と無聊から男色に溺れた、と。
 そんな頼長に、男色を武器に取り入った義賢など、義朝に対抗できなかったのは当然だろう。(太田)

 院の信任を失った為義は、事態打開のため摂関家への接近を図<り、>・・・忠実・頼長父子の警護、摂関家家人の統制、摂関家領荘園の管理など、摂関家の家政警察権を行使する役割を担うようになる。・・・
 1146年・・・正月、為義は10年ぶりに還任して、当時としては異例の左衛門大尉となり検非違使への復帰を果たした・・・。 鳥羽法皇の勘気も解けた<ということだろう>・・・・。

⇒為義を無職のままにしておいたのでは義朝も浮かばれないということで、鳥羽が、最低限の処遇を為義について行ったということだろう。(太田)

 為義が復帰を果たしたのと時を同じくして、東国から義朝が戻ってきた。義朝は妻の実家の熱田大宮司家を通じて鳥羽法皇に接近し、摂関家と結ぶ為義と競合・対立していくことになる。・・・

⇒義朝のこの婚儀の成立には、裏から鳥羽が手を回したのだろう。(太田)

 <為義の>四男の源頼賢・・・は・・・1149年・・・に左衛門少尉に任じられ・・・た。

⇒「義賢も嫡子の座を追われてその弟・頼賢が為義の嫡子の座についていたとの見解もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%9C%9D 前掲
が、鳥羽は、義朝の弟にもそれなりの箔を付けさせた、というだけのことだろう。(太田)

 為義が・・・1152年・・・に検非違使別当・徳大寺公能の訴えで恐懼に処される・・・など失態を繰り返すのを尻目に、義朝は・・・1153年・・・に下野守に任じられ、父を抜いて受領となった。為義は義朝の勢力基盤を切り崩すため、能登の荘園の預所を年貢未納で改易されていた<次男の>義賢を上野国多胡荘に下向させた。

⇒義朝から見て、とことん出来悪で自分の足を引っ張ってばかりの父親であり弟だったということだ。(太田)

 京では頼賢の捕らえた犯人を<義朝と同盟関係にあった>源義康(妻は熱田大宮司家の出身)が奪い取って合戦寸前になるなど・・・、河内源氏内部で為義派と義朝派の対立が深刻化していった。

⇒どうせ、これも頼賢の方に落ち度があったのだろう。
 もう一人の弟もまた出来悪だった!(太田)

 ・・・1154年・・・になると、為義には次々に災難が降りかかった。11月、鎮西に派遣した八男・源為朝の乱行の責任を問われて解官された。翌・・・1155年・・・には頼賢も春日社の訴えで解官され・・・鳥羽法皇の勘責により一族がまとめて籠居させられたという。・・・

⇒為義(父)、頼賢(弟)、為朝(弟)らが再び沈没したにもかかわらず、当然のことながら義朝はお咎めなし。(太田)

 東国に下向していた義賢(弟)も、大蔵合戦で義朝の子・源義平によって滅ぼされた。

⇒義朝・義平親子は、ついに義賢を自分達の手で誅殺したわけだ。
 鳥羽の庇護のおかげで、義朝は見事に育て上げられたと言ってよいが、いかんせん、平家の勃興もあり、義朝を武家総棟梁に指名する環境が整備されるところまではいかなかった時点で鳥羽(~1156年)が死去する。(太田)

 <そして、保元元年(1156年)、保元の乱<が起きる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9

・義朝

 「源義朝<(1123~1160年)>・・・は少年期に東国(関東地方)に下向したと見られ、上総氏等の庇護を受け同地で成長した。その際、義朝は「上総御曹司」と呼ばれた時期があるがこれは父・為義が安房国の丸御厨を伝領していたことからその地に移住し、その後は安西氏・三浦氏・上総氏の連携の下に義朝は安房から上総国に移り上総氏の後見を受けるようになったことによるものと思われる。・・・

⇒こういった手筈をつけたのも鳥羽だろう。(太田)

 東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、相馬御厨<(注32)>・大庭御厨<(注33)>などの支配権をめぐって在地豪族間の争いに介入し、その結果、三浦義明・大庭景義ら有力な在地の大豪族を傘下に収める。

 (注32)「御厨<(みくりや)>は天皇家や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E5%BE%A1%E5%8E%A8
 複雑なので、千葉常重によって成立した相馬御厨そのものについての説明は省くが、「保元の乱では千葉常胤は源義朝の率いる関東の兵の中に、上総常澄の子広常とともに名が見える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%BE%A1%E5%8E%A8
 (注33)「1104年)頃、鎌倉景正が大庭郷を中心に山野未開地を開発したものである。・・・1117年・・・伊勢神宮に寄進した。・・・国司の承認による「国免荘」<から、>・・・1141年・・・に官省符荘に昇格・・・。・・・この間、景正の後裔である御厨の下司にも動きがあった。・・・1134年・・・当時の大庭御厨の下司は景正の子の景継であった。しかし10年後の・・・1144年・・・の下司は、景正の直系でなく庶流の大庭景宗だった。大庭景宗は景正の甥の子とも、従兄弟の孫とも言われている・・・。・・・
 ・・・1144年・・・9月、源義朝の大庭御厨濫行事件が起きる。源義朝は相模国衙の田所目代(税務の代官)源頼清と組んで、「大庭御厨内の鵠沼(くげぬま)郷は鎌倉郡に属する公領である」と主張し、在庁官人とともに御厨に侵攻して濫妨(暴行・略奪)を行い、神人に重傷を負わせた。伊勢神宮は直ちに政府に提訴する。しかし、その最中に源義朝は、源頼清や在庁官人の三浦義継・中村宗平など「千余騎」によって大庭御厨に再侵攻し、御厨の停廃を宣言して大規模な収奪を行った。
 下司である大庭景宗は伊勢神宮を通じ太政官に訴え、伊勢神宮は、まず義朝の処罰を相模国司に要求するが、国司は「義朝濫行のことにおいては国司の進止にあたはず」と返答する有様だった。・・・
 その後の事件経緯は不明であるが、大庭御厨と下司である大庭氏は存続した。・・・1156年・・・の保元の乱では、大庭景宗の子である大庭景義(兄)、大庭景親(弟)は義朝の配下として参戦。大庭景義は源為朝の矢を受けて負傷し以降歩行困難となり、実権は弟に移ったと見られている。
 ・・・1160年・・・に平治の乱が起きる。平治の乱における大庭氏の動向は不明だが、こののち景親は平清盛の家人となった。平家の威光を背景に相模国に勢力を拡大し、三浦氏や中村氏を圧迫した。・・・1180年・・・の石橋山の合戦では、相模・武蔵の公称3千騎を引き連れ、源頼朝を敗走させた。
 源頼朝は同年の富士川の戦いで平家を敗走させ、関東の支配を確立した。大庭景親は斬首されたが、大庭御厨は大庭氏の元に残った。大庭景義は頼朝側に付いていた<から>である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E5%BE%A1%E5%8E%A8 前掲

⇒鳥羽が、義朝による、これらの、本拠地東国における勢力拡大と軍事力錬成を目的とした「乱暴狼藉」を、目を細めて見つめている姿が目に浮かぶ。
 義朝も、うすうすそれを感じていたのではないか。
 当然、鳥羽は悪いようにはしない。(太田)

 長男・義平の母は三浦氏ともされ、相模の大豪族である波多野氏の娘との間には次男・朝長をもうけるなど、在地豪族と婚姻関係を結んだ。<なお>、六男・範頼の母は遠江国池田宿の遊女とされ<る。>・・・
 河内源氏の主要基盤が東国となったのはこの義朝の代であり、高祖父の源頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え(亀谷殿)、特に相模国一帯に強い基盤を持った。
 しかし義朝の勢力伸張は関東の他の源氏、特に下野国の足利に本拠を置く義朝の大伯父・源義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり緊張を生んだ。その両者の緊張は義国と義朝が同盟を締結し盟友となることで解消され、義国の子・義康と相婿となるなど連携を強めた。

⇒義康に北面武士ポストと引き換えに鳥羽建立の寺に足利荘を寄進させたのも、義康を義朝と相婿になるよう取り計らったのも、つまりは、義国/義康と義朝との同盟を樹立させたのも、鳥羽だろう。(太田)

 <こうして、>義朝は20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し<た。>・・・
 長男の義平に東国を任せて都へ戻った義朝は、・・・1147年・・・に正室で熱田大宮司の娘・由良御前との間に嫡男(3男)の頼朝をもうける。院近臣である妻の実家の後ろ楯を得て、鳥羽院や藤原忠通にも接近し、・・・1153年・・・、31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼ねた。

⇒義朝が鳥羽等に接近したのではなく、鳥羽が義朝を引き寄せたのだ。(太田)

 河内源氏の受領就任は源義親以来50年ぶりの事であり、義朝は検非違使に過ぎない父・為義の立場を超越する事になる。この急激な抜擢は、寺社勢力の鎮圧や院領支配のため、東国武士団を率いる義朝の武力を必要とする鳥羽院との結びつきによるものと見られ、それは摂関家を背景とする為義らとの対立を意味していた。

⇒鳥羽は、義朝の武家総棟梁指名のための環境整備にしゃかりきになっていた、ということだ。
 為義らのことなど、もはや、眼中になかったろう。(太田)。

 ・・・1155年・・・、為義の意向を受けて東国に下向し勢力を伸ばしていた弟の義賢を、長男・義平に討たせ、対抗勢力を排除して坂東における地位を固めた(大蔵合戦)。このため、もう1人の弟・頼賢が復仇のため信濃国に下り頼賢と合戦になりかけるなど、義朝・為義の対立は修復不可能な事態となった。大蔵合戦は都では問題にされておらず、その背景には武蔵守であった藤原信頼の黙認があり、摂関家に属する為義派への抑圧があったとも見られている。・・・

⇒信頼も鳥羽の近臣であり、鳥羽が信頼に黙認させたのだろう。(太田)

 義朝は坂東で勢力を延ばす際当初は父が仕えていた摂関家寄りの姿勢を見せていたが、義朝の基盤である相模国等が鳥羽院の知行国になるなど、東国において勢力を伸ばすには義朝が鳥羽法皇に接近する必要があり、それが摂関家に仕える父とは距離を置くという結果に繋がったとの説もある。そのため、義朝の東国での動きを牽制するために遣わされたのが弟の義賢であるといわれる。・・・

⇒ここでも話は逆で、鳥羽自身が、義朝支援のために相模国等を自分の知行国・・院の知行国の意味がこれだけでは不明だが・・にしたのだろう。(太田)

 保元元年(1156年)7月の保元の乱の際に崇徳上皇方の父・為義、弟の頼賢・為朝らと袂を分かち、後白河天皇方として東国武士団を率いて参陣した。

⇒義朝から見れば、後白河は鳥羽が後継者として選んだ人物であり、その側に立つことは当然だった。(太田)

 平清盛と共に作戦の場に召された義朝は先制攻撃・夜襲を主張し、・・・信西と共に躊躇する関白・藤原忠通に対して決断を迫った。攻撃の命が下ると、義朝は「(坂東での)私合戦では朝家の咎めを恐れ、思うようにならなかったが、今度の戦は追討の宣旨を受け、心置きなく戦う事が出来る」と官軍として赴く事に喜び勇んで出陣し、戦況を逐一報告するなど後白河方の中核となって戦った。
 乱は後白河天皇方が勝利し、敗者となった為義は義朝の元に出頭した。・・・義朝<は>自身の戦功に替えて父の助命を訴えたが、信西によって却下され、父や幼い弟達を斬る事になる・・・
 乱後、恩賞として右馬権頭に任じられるが、不足を申し立てたため左馬頭となる。・・・

⇒(そこまで義朝が知る由もなかったが、)ついに、平家とうまく折り合いをつけられれば、後白河が義朝を武家総棟梁に指名できるところまで来たわけだ。(太田)

 <ところが、>平治元年12月9日(1160年1月19日)、義朝は、源光保・源季実・源重成らと共に藤原信頼と組んで後白河院の信任厚い信西らがいると目された三条殿を襲撃する。・・・
 義朝が信頼に従ったのは信頼は義朝が南関東で勢力を拡大していた時の武蔵守で、その後も知行国主であり、義朝の武蔵国への勢力拡大も突然の従五位下・下野守への除目も信頼らの支援があってのことと思われる。信頼はそうした武蔵国を中心とした地盤から、保元の乱により摂関家家政機構の武力が解体した後においてはそれに代わって関東の武士達を京の公家社会に供給できる立場にあった。
⇒その全ては、鳥羽/後白河がお膳立てをしたものであり、信頼は、その走り使いをしただけのことであり、だからこそ、義朝は、信頼のクーデタを、後白河の意向を受けた、信西排除のミニクーデタだと思い込んで、信頼の誘いに乗ったのだ、と、私は見ているわけだ。(太田)

 三条殿を襲撃し逃れた信西を倒して以降、信頼が政局の中心に立つ。信西追討の恩賞として義朝は播磨守に任官し、その子・頼朝は右兵衛佐に任ぜられた。
 しかし・・・離京していた清盛は勝者・信頼に臣従するそぶりを見せて都に戻るがその後、・・・二条天皇が清盛六波羅邸に脱出し形勢不利を察した後白河上皇も仁和寺に脱出する。この段階で義朝は全ての梯子を外されたかたちとなった。・・・

⇒義朝は、この段階まで、信頼に騙されていたことに全く気付いていなかったとしても、ことここに至ったら、率先して信頼を拘束し、引き連れて、後白河の下に「降伏」し、事情を話したうえで、自分はいかなる処罰も受けるので、頼朝を始めとする自分の子供達に咎めが及ばないようにして欲しいと訴えるべきだった。(太田)

 光保は・・・信頼陣営から離反、源頼政も信頼陣営から距離を置き廷臣たちも続々と六波羅に出向いたため清盛は官軍の地位を獲得した。こうして一転賊軍となった信頼・義朝らは討伐の対象となり、ついに12月27日(2月6日)に京中で戦闘が開始される。平家らの官軍に兵数で大幅に劣っていた義朝軍は壊滅する。

⇒摂津源氏もその系である美濃源氏も自発的に「降伏」したのだから、義朝が率先して「降伏」しておれば、義朝自身も、少なくとも命は助かった可能性が大だったのに・・。(太田)

 その後、信頼を見捨て息子の義平・朝長・頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)・平賀義信・源重成(佐渡重成)、家臣で乳兄弟の鎌田政清・斎藤実盛・渋谷金王丸らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下るが、その途上たび重なる落武者への追討隊との戦闘で、朝長・義隆・重成は深手を負い命を落とした。また頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、義平は別行動で北陸または東山道を目指して一旦離脱するが再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党・志内景澄と共に清盛暗殺を試みるが失敗する。
 義朝は馬も失い、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、政清の舅で年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せた。しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて殺害された・・・。享年38。政清も酒を呑まされ殺害された。京を脱出して3日後の事であった。・・・年が明けた正月9日、両名の首は獄門にかけられた。・・・ 

⇒この時殺されなくても、追討の対象なのだから、早晩、殺されていたことだろうし、その場合、東国のゆかりの河内源氏、桓武平氏、武家たる藤原氏庶流、も巻き込み、彼らにも大きな打撃を与えてしまい、河内源氏再興の可能性が完全に絶たれてしまうところだったから、早期に殺されたことはむしろ幸いだった。(太田)

 平賀義信、斎藤実盛は無事に落ち延びることに成功する。義信は後に頼朝の挙兵に従って鎌倉幕府の有力御家人として生涯を全うし、一方実盛は平家方について源氏方と戦うことになる。
 <義朝は、こうして、>父や弟たちを滅ぼし、河内源氏内での優位を確立してからわずか3年で死を迎えるが、義朝が東国に築いた地盤と嫡子頼朝に与えた高い身分は、後の頼朝による挙兵の成功、ひいては鎌倉幕府成立への礎となった。
 また、娘である坊門姫の子孫に持明院統の最初の天皇である後深草天皇がおり、皇族と旧皇族の共通先祖に当たる貞成親王はその子孫である(即ち、義朝は皇族と旧皇族の女系の先祖に当たる)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%9C%9D

・義康

 「足利義康(1127~1157年)は、「源義家の子・義国の次男。父から下野国足利荘を相続し、足利を名字とした。父・義国の本領である八幡荘を相続した異母兄の義重は、父と共に上野国新田荘を開墾し新田氏の祖となる。義康は熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)を娶り、河内源氏の同族源義朝と相聟の関係になり同盟を結んでいる。
 ・・・1142年・・・10月、鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進、義康は下司となった。久安の頃に上洛し、所領の寄進が機縁となって鳥羽上皇に北面武士として仕え、蔵人や検非違使に任官した。また陸奥守にも任ぜられ、「陸奥判官」とも呼ばれた。・・・
 保元の乱では、源義朝と共に後白河天皇側に付き、平清盛の300騎、義朝の200騎に次ぐ100騎を従え、・・・乱後、敵方の降将・平家弘父子を処刑。論功行賞により昇殿を許され、従五位下大夫尉に任官した<が、>・・・翌年病を得て31歳で没した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%BA%B7

⇒鳥羽が、河内源氏の副棟梁格に義康を育て上げた、と見る。
 義康の死の時点で、子供達が幼少であったためだろうが、平治の乱の時には、足利家の姿は見られない。(典拠省略)
 鳥羽のこの布石は、紆余曲折を経つつも、見事に活き、義康の子孫の高氏(尊氏)が、鎌倉幕府の次の室町幕府を開くことになる。(太田)
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○崇徳天皇(1119~1164年。天皇:1123~1142年)

 崇徳の天皇時代は、白河院政時代と鳥羽院政時代にまたがっているが、便宜的にここで取り上げる。

 「鳥羽天皇の第一皇子。母は中宮・藤原璋子(待賢門院)・・・
 <白河院政下の>1123年・・・1月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に・・・満3歳7か月・・・で即位した。・・・1129年・・・、関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)が入内する。同年7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。翌・・・1130年・・・、聖子は中宮に冊立された。天皇と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、・・・1140年・・・体仁親王<(近衛天皇)>の立太子後の・・・9月2日・・・身分が低<い>・・・女房・兵衛佐局が天皇の第一皇子・重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという。保元の乱で忠通が崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。一方、この件があった後も崇徳上皇と聖子は保元の乱まで常に一緒に行動しており、基本的には円満な夫婦関係が続いたとみられている。
 院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、・・・1141年・・・12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳上皇の中宮・藤原聖子の養子となっており、崇徳天皇とも養子関係にあったと考えられるため、「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた・・・。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

⇒白河が、鳥羽を崇徳に譲位させていなければ、白河が亡くなった時点で、鳥羽は、近衛に譲位しており、崇徳も諦めがついていたことだろう。
 だから、前述したように、白河が紛争の遠因を作ったのだ。
 しかし、その後、鳥羽が、崇徳を譲位させた時に、だまし討ちのように、(将来の)近衛を、皇太子ではなく皇太弟にしたことこそが、紛争の直接的な原因を作ったのだ。 
 とはいえ、鳥羽の心情を想像すると、私としては、鳥羽を責める気にはならない。(太田)

 崇徳上皇は・・・新院と呼ばれるようになった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒「崇徳院は在位中から頻繁に歌会を催していたが、太上天皇になってからは和歌の世界に没頭し、『久安百首』を作成し『詞花和歌集』を撰集した。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開した。法皇も表向きは崇徳院に対して鷹揚な態度で接し、崇徳院の第一皇子である重仁親王を美福門院の養子に迎えた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には、重仁親王への皇位継承も可能となった。また、近衛天皇の朝覲行幸に際して、法皇は美福門院とともに上皇を臨席させ・・・、上皇の后である聖子を母親として天皇と同居させるなど崇徳院を依然として天皇の父母もしくはそれに準じる存在と位置づけており、近衛天皇が健在だったこの時期においては、崇徳院は鳥羽院政を支える存在とみなされ、両者の対立はまだ深刻な状況にはなかったとする説もある。」(上掲)が、これは、鳥羽の韜晦作戦に過ぎなかった、と私は見ている。
 なお、崇徳の子に天皇を継がせる気が全くなかった鳥羽が、崇徳に聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を伝えたとは思われない。
 そのことが、崇徳の武家達との付き合いの希薄さをもたらし、保元の乱(後述)の際の無計画的な行動をもたらした、と見る。(太田)

○近衛天皇(1139~1155年。天皇:1142~1155年)

 「治天の君であった鳥羽上皇と、寵妃の得子(美福門院)の皇子として<1140年に>生まれる。父の鳥羽上皇に即位を望まれ、生後1か月余りの6月27日、異母兄の崇徳天皇と中宮・藤原聖子の養子となり、・・・8月17日に立太子。翌々年の・・・1141年・・・12月、わずか・・・満2歳5か月・・・で崇徳天皇の譲位を受けて即位した。在位中は鳥羽法皇が院政を敷いた。
 ・・・1150年・・・1月4日、12歳で元服。同月10日、内覧・藤原頼長の養女多子(11歳)が入内、19日に女御となり、3月14日に立后、皇后となった。しかし、4月21日に関白・藤原忠通の養女呈子(20歳)も入内して、6月22日に立后、中宮となる。呈子は美福門院の養女ともなっていた・・・
 1153年・・・、15歳の近衛天皇はこの頃から著しく病気がちであり、同年には一時失明の危機に陥り、譲位の意思を関白・忠通に告げたという・・・。ところが、当時は近衛天皇に面会できたのは忠通らごくわずかで<慣例に従い、>面会が出来なかった鳥羽法皇は忠通が嘘をついていると考えた。病弱な上に17歳で早世したため結局、皇子女は生まれなかった。
 ・・・1155年・・・7月23日、御所としていた近衛殿において崩御。その夜、後継天皇を決める議定が開かれ、崇徳上皇の皇子で美福門院の養子でもある重仁親王が有力だったが、[鳥羽上皇は、]美福門院のもう一人の養子である守仁王(後の二条天皇)<(注34)>への中継ぎとして、その父の雅仁親王(後白河天皇)<・・崇徳の同母弟・・を>即位[させ]た。

 (注34)「雅仁親王(後の後白河天皇)の長男として生まれる。生母・懿子が出産直後に急死したことで、祖父である鳥羽法皇に引き取られ、その后の美福門院に養育された<が、>近衛天皇が即位しており、同じく美福門院の養子として重仁親王(崇徳上皇の長男)がいたために皇位継承の望みは薄く、僧侶となるために9歳で覚性法親王のいる仁和寺に入っ<てい>た。・・・
 近衛天皇は崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは久我雅定と三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・孫王・暲子内親王が上がったが、孫王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。孫王はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった 。8月4日に仁和寺から戻った孫王は、9月23日に親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子、12月9日に元服、翌<1156>年3月5日には美福門院の皇女・姝子内親王を妃に迎えるなど、美福門院の全面的な支援を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒王者議定参加者2人を指名したのも、そしてこの2人に雅仁親王(後白河天皇)を奏上させたのも鳥羽であって、審議の過程なるものは、メーキングだろう。
 この時、守仁(近衛天皇)を皇太子にすることで、崇徳は、自分の子供が皇位を継ぐ可能性を完全に絶たれることになり、祖父の鳥羽と同母弟の後白河に憎悪を抱くに至ったと見る。
 しかし、本件に関し、鳥羽は一貫した姿勢を貫いたのであり、やはり、私は鳥羽を責める気にはならない。
 責められるべきは白河なのだ。(太田) 

 <1156年7月に>鳥羽法皇が崩御すると皇位を巡って朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が起こる。
 前述の通り、近衛天皇の健康情報は忠通が独占していたために数年前からの健康悪化は知られておらず、近衛天皇の死は左大臣・藤原頼長の呪詛によるものという噂が流れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲 ([]内)

⇒雅仁親王が天皇即位後、比較的早く、その子の守仁王へ譲位して治天の君のなる、ということまで鳥羽上皇は決めたわけだから、当然、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想は、雅仁親王に(白河天皇としての即位前後に)伝えていたはずだ。(太田)

◎後白河天皇(1127~1192年。天皇:1155~1158年)

 「1127年・・・9月11日、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれる。中御門宗忠は「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」と評した。
 11月14日、親王宣下を受けて「雅仁」と命名される・・・。2年後に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始された。・・・
 皇位継承とは無縁で気楽な立場にあった雅仁親王は「イタクサタダシク御遊ビナドアリ」(『愚管抄』)と、遊興に明け暮れる生活を送っていた。この頃、田楽・猿楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込み、催馬楽・朗詠に比べて自由な表現をする今様(民謡・流行歌)が盛んとなっていた。雅仁は特に今様を愛好し、熱心に研究していた。後年『梁塵秘抄口伝集』に「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」と自ら記している。
 その没頭ぶりは周囲からは常軌を逸したものと映ったらしく、鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなしていた(『愚管抄』)。

⇒私は、慈円を、従って慈円が書いた『愚管抄』を、全く評価していない(コラム#11304)。
 とはいえ、『愚管抄』に登場する即物的な事実に係るものにはそれなりの真実性を認めるにはやぶさかではないが、伝聞的、噂話的なものは相手にしないことにしており、さしずめ、雅仁(後白河)への鳥羽の評価など、その際たるものであって、眉唾だと思っている。
 というのも、鳥羽は、雅仁の子を皇太子にすることにより、雅仁が自分の次の治天の君になり、その死まで治天の君であり続けることを決めたにほぼ等しい・・近衛天皇が早く亡くなり、その時点まで治天の君であった後白河上皇、と、その後白河の兄たる崇徳上皇、が残された場合には話が振り出しに戻りかねないが・・のであり、自分もまた、ついに果たすことができなかったところの、武家総棟梁の指名を託すに後白河がふさわしい人物である、と見ていたはずだからだ。(太田)

 今様の遊び相手には源資賢・藤原季兼がいたが、他にも京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、江口・神崎の遊女、傀儡子(くぐつ)など幅広い階層に及んだ。

⇒「奈良時代に成立したとみられる」『万葉集』には、「天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2,100首以上ある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
とされるが、例えば、「庶民の歌の代表みたいに考えられていた」東歌(あずまうた)については、豪族の作ったものだというのが通説になりつつあるようだ
https://note.com/chkwmt/n/n966d55f4d386
し、編纂させたのも天皇ではないし、もちろん、『万葉集』がらみの、天皇と「庶民」が歌を通じて交流したという話もない、ということを考えれば、今様を集成した『梁塵秘抄』の編纂(1180年前後)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%A1%B5%E7%A7%98%E6%8A%84
を含む、後白河のこの事績は、もっと注目されるべきだと思う。(太田)

 雅仁の最初の妃は源有仁の養女・懿子だったが、・・・1143年・・・、守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する。次に妃となったのは藤原季成の女・成子で、2男4女を産むが、終生重んじられることはなかった。
 ・・・1155年・・・、近衛天皇が崩御すると、・・・本来、新帝践祚 → 即位 → 立太子の順で行われるものが、新帝の<後白河の>即位式以前の同年9月に鳥羽法皇主導によって守仁の立太子が行われたことも後白河天皇即位の性格を示している。

⇒そんなことはどうでもよく、後白河の治天の君就任を鳥羽が決めたことこそ重要であり、全てなのだ。(太田)

 10月に藤原公能の娘である藤原忻子が入内し、その翌年には皇子を生むことなく中宮に立てられているが、崇徳上皇・後白河天皇にとって公能は母方の従兄弟にあたり、崇徳上皇に好意的とみられてきた公能ら亡き待賢門院(璋子)の一族(徳大寺家)を新帝の後ろ盾にする意味があった。保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が発生した。この戦いでは後見の信西が主導権を握り、後白河帝は形式的な存在だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

3 保元の乱

 「摂関家は、鳥羽院政が開始されると藤原忠実の女・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃とな<っ>た。<その子たる>関白の藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎えた。しかし・・・1143年・・・に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになった。

⇒摂関家は、権力の座から離れて久しく、緊張感が欠如するに至っており、こんな親子喧嘩、兄弟喧嘩に現を抜かす体たらくに陥っていた、ということ。(太田)

 ・・・1150年・・・正月4日に近衛天皇は元服の式を挙げると、同月10日には頼長の養女・多子が入内、19日に女御となった。しかし2月になると忠通も藤原伊通の女で大叔母にあたる美福門院の養女となっていた呈子を改めて自身の養女として迎えたうえで、鳥羽法皇に「立后できるのは摂関の女子に限る」と奏上、呈子の入内を示唆した。・・・当の鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立はもはや修復不能な段階に入っていた。

⇒この時点では、そんな摂関家が(直轄及び臣従)武力も擁しており、鳥羽は、そんな摂関家の内紛の武力紛争化、そして、喧嘩両成敗的に、摂関家の領地の縮小、武力の消滅、を行おうとし、この内紛を放置、助長した、と見る。(太田)

 同年9月、一連の忠通の所業を腹に据えかねた忠実は、大殿の権限で藤氏長者家伝の宝物である朱器台盤を摂家正邸の東三条殿もろとも接収すると、忠通の藤氏長者を剥奪してこれを頼長に与えたばかりか、忠通を義絶するという挙に出る。しかし鳥羽法皇は今回もどちらつかずの曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で、頼長には内覧の宣旨を下した。ここに関白と内覧が並立する前代未聞の椿事が出来することになった。

⇒だからこそ、鳥羽は、まさに、火に油を注ぐことを、あえてやったわけだ。(太田)

 内覧となった頼長は旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれ院近臣との軋轢を生むことになる。・・・1151年・・・には藤原家成の邸宅を破却するという事件を引き起こし、鳥羽法皇の頼長に対する心証は悪化した。このような中、・・・1153年・・・に近衛天皇が重病に陥る。後継者としては崇徳の第一皇子・重仁親王が有力だったが、忠通は美福門院の養子・守仁への譲位を法皇に奏上する。当時、近衛天皇と面会できたのは関白忠通らごく限られた人に限られており、鳥羽法皇は忠通が権力を独占するために嘘をついていると信じてこの提案を拒絶、鳥羽法皇の忠通に対する心証は悪化した。・・・

⇒「頼長に対する心証<が>悪化した」のなら、頼長を馘首しないまでも、内覧停止を申し渡せばいいのに、鳥羽は、あえてそうしなかったわけだ。
 また、忠通の奏上が実際に行われたのかどうかはともかく、こんな、近衛の意向と称した奏上は、鳥羽の治天の君としての、(自分の子孫の中からの)天皇指名権の侵害であり、そんな奏上をしたということで、忠通の評判を更に悪化させることが狙いだったと見る。
 頼長、忠通両名の不安感、相互猜疑心は一層高まったに違いない。(太田)

 ・・・1155年・・・7月23日、近衛天皇は崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは源雅定と三条公教で、いずれも美福門院<・・すなわち、忠通・・>と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・守仁親王・暲子内親王が上がったが、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。突然の雅仁擁立の背景には、雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される。

⇒信西の話は特にそうだが、この全体が下司の勘繰り以外の何物でもないのであって、鳥羽は、かねてより、雅仁(後白河)を後任の治天の君に据えようと考え、そのための人事を行った、と見る。(太田)

 また、幼少の守仁が即位をしてその成人前に法皇が崩御した場合には、健在である唯一の院(上皇・法皇)となる崇徳上皇の治天・院政が開始される可能性が浮上するため、それを回避するためにも雅仁が即位する必要があったとも考えられる。

⇒そういうことも全て考慮した上での、鳥羽による人事だった、ということだ。(太田)

 この重要な時期に頼長は妻の服喪のため朝廷に出仕していなかったが、すでに世間には近衛天皇の死は忠実・頼長が呪詛したためという噂が流されており、事実上の失脚状態となっていた。

⇒この噂を流させたのも、鳥羽である、と見る。(太田)

 忠実は頼長を謹慎させパイプ役である高陽院<(前出)>を通して法皇の信頼を取り戻そうとしたが、12月に高陽院が死去したことでその望みを絶たれた。
 新体制が成立すると、後白河と藤原忻子、守仁と姝子内親王の婚姻が相次いで行われた。忻子は待賢門院および頼長室の実家である徳大寺家の出身で、姝子内親王は美福門院の娘だが統子内親王(待賢門院の娘、後白河の同母姉)の猶子となっていた。待賢門院派と美福門院派の亀裂を修復するとともに、崇徳・頼長の支持勢力を切り崩す狙いがあったと考えられる。

⇒これも、忠実・頼長父子の焦燥感をより高め、鳥羽・後白河に対して怒りを募らせているはずの崇徳とが結びつき、反逆的武力蜂起に追い込むための、鳥羽による仕上げの工作だった、と見る。
 この時点までには、鳥羽は、後白河に対し、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の伝授を済ませるとともに、自分の摂関家弱体化/武力解体策略も伝達していて、この工作は、鳥羽・後白河の祖父・孫による共同工作だった、と見ている。(太田)

 ところが、新体制の基盤がまだ固まらない保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れた。

⇒死因がネットで調べても出てこないが、53歳での死亡であり、策謀の限りを尽くす「晩年」を送ったことが鳥羽の命を縮めたのだろう。(太田)

 法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣にとっては重大な政治的危機であり、院周辺の動きはにわかに慌しくなる。『愚管抄』によれば政情不安を危惧した藤原宗能が今後の対応策を促したのに対して、病床の鳥羽法皇は源為義・平清盛ら北面武士10名に祭文(誓約書)を書かせて美福門院に差し出させたという。為義は忠実の家人であり、清盛の亡父・忠盛は重仁親王の後見だった。法皇死後に美福門院に従うかどうかは不透明であり、法皇の存命中に前もって忠誠を誓わせる必要があったと見られる。法皇の容態が絶望的になった6月1日、法皇のいる鳥羽殿を源光保・平盛兼を中心とする有力北面、後白河の里内裏・高松殿を河内源氏の源義朝・源義康が、それぞれ随兵を率いて警護を始めた。

⇒誓約書を書かされたのが事実であるとすれば、為義も、例えばそれを口実にして、清盛のように、保元の乱の時に後白河天皇方につけば(寝返れば)よかったのに、そうしなかった為義の愚かさが、清和源氏、就中河内源氏の深刻な分裂と弱体化をもたらすことになったわけだ。(太田)

 それから1ヶ月後、7月2日申の刻(午後4時頃)に鳥羽法皇は崩御した。崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。・・・法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。崇徳上皇は憤慨して・・・引き返した。葬儀は酉の刻(午後8時頃)より少数の近臣が執り行った。

⇒鳥羽の意思の可能性のほか、鳥羽と後白河の共同意思ないし後白河単独の意思だった可能性もあろう。(太田)

 鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変する。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使の平基盛(清盛の次男)・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた。

⇒この噂を流させたのは、間違いなく、後白河だったろう。(太田)

 翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏の源親治が基盛に捕らえられている。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤氏長者が謀反人とされるのは前代未聞であ<った>・・・。

⇒後白河による、凄まじいまでの挑発行為の連続だと言わなければなるまい。(太田)

 この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。

⇒信西は、この謀略の参謀長だったかもしれないが、司令官はあくまでも後白河、と見なければならない。(太田)

 忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなった。
 7月9日の夜中、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある<、同母妹にして後白河の同母姉/後白河准母たる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B >
統子内親王の御所に押し入った。・・・<子の>重仁親王も同行しな<かった(注35)>など、その行動は突発的で予想外のものだった。

 (注35)「崇徳の行動が非計画的であったことの傍証として、<しばしば、>崇徳が白河北殿に立てこもった際に重仁を同道させていないことが挙げられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。白河は洛中に近く軍事拠点には不向きな場所だったが、南には平氏の本拠地・六波羅があり、自らが新たな治天の君になることを宣言して、北面最大の兵力を持つ平清盛や、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測される。
 10日の晩頭、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入った。謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳を担ぐことを決意したと見られる。

⇒後白河のほくそ笑む姿が目に浮かぶ。(太田)

 白河北殿には貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・源頼憲などが集結する。武士は崇徳の従者である家弘・為国を除くと、為義と忠正が忠実の家人、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった。崇徳陣営の武士は摂関家の私兵集団に限定され、兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった。崇徳は今は亡き忠盛が重仁親王の後見だったことから、清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母・池禅尼は崇徳方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。

⇒『愚管抄』の取り上げる噂話など・・と言いたいところだが、少なくとも清盛がそういうことにしたのは事実なのだろう。
 実際に、池禅尼がそう言った可能性もあると思う。
 美福門院に誓約書を出したことは持ち出した形跡がないのは面白い。(太田)

 白河北殿では軍議が開かれ、源為朝は高松殿への夜襲を献策する。頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。
 これに対して後白河・守仁陣営も、・・・武士を動員する。高松殿は警備していた源義朝・源義康<(注36)>に加え、平清盛・源頼政・源重成・源季実・平信兼・平維繁が続々と召集され、・・・軍兵で埋め尽くされた。同日、忠通・基実父子も参入している。

 (注36)「河内源氏の同族源義朝と相聟の関係になり同盟を結んでいる。・・・
 保元の乱・・・<の>論功行賞により昇殿を許され、従五位下大夫尉に任官し<、>将来を嘱望されたが、翌年病を得て31歳で没した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%BA%B7 前掲

 なお・・・大半の公卿は鳥羽法皇の服喪を口実に出仕せず、情勢を静観していたと推測される。
 清盛と義朝は天皇の御前に呼び出され作戦を奏上した後、出撃の準備に入った。『愚管抄』によれば信西・義朝が先制攻撃を強硬に主張したのに対して、忠通が逡巡していたが押し切られたという。

⇒『愚管抄』は武家を革新勢力、天皇家/公家を保守勢力、とする史観で書かれている(コラム#省略)ので、ここでの頼長と忠通の挿話は恐らく、ためにするフィクションだろう。(太田)

 7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛<(注37)>が数100の兵で周囲を固めた。

 (注37)源(多田)頼盛(?~?年)は、「平安中期に源満仲によって拓かれた多田荘を継承した多田源氏の7代目惣領であったが、弟・頼憲とは多田荘の相続を巡り対立した。当時、多田源氏が代々近侍してきた摂関家は、藤原忠通・頼長兄弟の対立により分裂状態にあった為、弟の頼憲が頼長に仕えたのに対し頼盛は忠通に仕えた。そして、・・・1153年・・・に父・行国が死去すると、頼憲との遺領を巡る対立は摂津国内において激しい合戦となるまでに発展した・・・。
 その後の保元の乱では、頼盛は・・・後白河天皇方として参陣し・・・た・・・。一方、弟の頼憲は崇徳上皇方として出陣しており、・・・敗れた上皇方の頼憲は嫡子と共に斬首された。これにより多田荘は頼盛の嫡子・行綱に継承された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A0%BC%E7%9B%9B

⇒仮に兵力の数字群にそれなりの信頼性があるとした場合、引用されたものが全てではないことはもちろんではあるけれど、以上だけでみて、白河天皇方の河内源氏だけで平家の兵力数と拮抗していて、前者が東国に本拠を持っていたのに対し、後者は京内の六波羅に本拠を持っていてなおかつ兵力数が拮抗していたということ、更に、清和源氏で捉えれば、多田勢を含めて何100人も平家を上回っていたわけであり、鳥羽による、河内源氏の棟梁の武家総棟梁指名を目指す努力が結実寸前まで来ていたことが窺える。
 鳥羽や後白河が、指名まで踏み切らなかったのは、(聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、そのものを開示されていないところの)平家が逆上して源平合戦が惹き起こされないよう、時機をうかがっていたからだ、と見る。(太田)

 戦闘の具体的な様子は『保元物語』に頼るしかないが、上皇方は源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍は有力郎等の藤原忠直・山田是行が犠牲となり、義朝軍も50名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされる。・・・。
 攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として頼政<(注38)>・重成<(注39)>・信兼<(注40)>を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。

 (注38)摂津源氏。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF
 (注39)美濃源氏。「平治の乱<敗戦の後、>・・・重成は義朝とともに僅かな人数で東国を目指して落ち延びる。『平治物語』によると途中、美濃にて落人追討の一団に遭遇した際、義朝を逃した上で「我こそは源義朝なり」と名乗って自害した。その際に、身元が割れないようにするべく、自ら散々に顔面を傷つけた上で果てたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%87%8D%E6%88%90
 (注40)平家。「治承・寿永の乱では・・・1181年・・・、伊勢・志摩に乱入した熊野山の僧兵と二見浦で戦い、これを撃退した・・・。・・・1183年・・・7月の平家の都落ちには同行せず、伊勢国に潜伏する。ただし、源義経が入京した際には帰順する姿勢を見せている。・・・1184年・・・8月に、本拠の伊勢・伊賀にて平家継らと共に一族を糾合して反源氏の兵を挙げ、源氏方の守護・大内惟義以下の勢力に打撃を与えた。その後信兼は行方をくらますが、・・・伊勢国滝野において、城に立て籠もる100騎程の信兼軍が激戦の末、討ち取られたという(三日平氏の乱)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%85%BC

⇒後詰の兵力も、ざっくり言えば、3分の2は清和源氏だったわけだ。(太田)

 辰の刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索するとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払う。後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻(午後0時頃)には清盛・義朝も帰参して戦闘は終結した。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都(奈良)へ逃亡した。
 合戦の勝利を受けて朝廷は、その日のうちに忠通を藤氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。清盛は播磨守、義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に補任され、義朝と義康は内昇殿を認められた。

⇒「元木泰雄・・・は・・・「保元の乱における論功行賞」問題<が>・・・平治の乱の原因とされてきた<こと>・・・について、清盛が受領としては最上位で将来は公卿への昇進が約束されるのに対して、義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に任じられて昇殿を許され、更に下野守重任、従五位上への昇進が認められたに過ぎない義朝が一族を犠牲しながらも奮闘した結果を考えると冷遇されてきたと考える古くからの見方に対して、恩賞の多寡を考えた場合正四位下刑部卿平忠盛の子で自身も保元の乱の段階で正四位下安芸守であった清盛と従五位下下野守であった義朝の間に格差がつくのは当然でしかも父親や弟が謀叛人として処刑された義朝が院近臣の重職である左馬頭に任じられてなおかつ河内源氏で初めて昇殿を許されたことは「破格の恩賞」であって、義朝が恩賞に不満を持っていたとは考えられないとする説を提示している。これについては本郷和人や高橋昌明もこれを支持する見方を示している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1
ところ、私は、河内源氏の棟梁を武家総棟梁指名を急ぐ後白河の心情からして、元木/本郷/高橋説が正しい、と断言したい。
 「これに対して、古澤直人は左馬頭が源経基・源満仲父子が任じられて以来、清和源氏とゆかりが深い官職で、義朝が右馬助(下野守)から右馬権頭、更に左馬頭に昇進したのは一定の配慮の結果であることは認めている(古澤は左馬頭は院近臣としての要素よりも清和源氏の官職としての要素を重視する)。しかし、武家社会における恩賞の多寡の基準は現任の官位との比較以上に、平将門の乱の鎮圧で六位から四位に越階しなおかつ下野掾から下野守に昇進した藤原秀郷や前九年の役の鎮圧で自身が正四位下伊予守に任ぜられただけでなく息子や郎党も任官に与った源頼義といった「先例」との比較であり、後に義朝の子である頼朝が源義仲追討の戦功で従五位下から正四位下に越階した際に秀郷の先例が持ち出されている・・・ことからも朝廷でも謀叛の鎮圧に対する恩賞の先例として意識されていたとしている。しかし、保元の乱における義朝への恩賞を検討してみると、秀郷や頼義と同じ「謀叛の鎮圧」という実績を挙げたにも関わらず、従五位上の昇進は乱の翌年まで持ち越しとされてかつ四位への越階はなかった、義朝と共に戦った子息(義平)や郎党に対しては任官などの恩賞はなかった、など武家の先例と比較すれば明らかに少ない恩賞であったとしている。そして、亡弊国(疲弊していて様々な負担が免除されていた国)である下野の国守に留まったことで内裏再建の成功における一部免除を受け(反対に成功による昇進が期待できない)、信西の子との婚姻を断られるなど、保元の乱における(武家の先例と比較した)義朝への恩賞の低さが、義朝と清盛の格差を更に拡大させたことで義朝が不満を深めたのが平治の乱の一因と考えるのが妥当であり、元木説は恩賞を与える側と与えられる側の意識のずれを考慮していないと批判している。」(上掲)
 「義朝と共に戦った子息・・・や郎党に対して」は恩賞はなかったけれど、「義朝と共に戦った」ところの義朝とは相聟の関係の義康に対して恩賞があたえられており、「武家の先例と比較すれば明らかに少ない恩賞であったと」は言えまい。(太田)

 藤氏長者の地位は藤原道長以降、摂関家の家長に決定権があり、天皇が任命することはなかった。忠通も外部から介入されることに不満を抱いたためか、吉日に受けると称して辞退している。
 13日、逃亡していた崇徳上皇が仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。頼長は合戦で首に矢が刺さる重傷を負いながらも、木津川をさかのぼって南都まで逃げ延びたが、<父>忠実に対面を拒絶され<、>やむを得ず母方の叔父である千覚の房に担ぎ込まれたものの、手のほどこしようもなく、14日に死去した・・・。忠実にすれば乱と無関係であることを主張するためには、頼長を見捨てるしかなかった。
 崇徳の出頭に伴い、藤原教長や源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。・・・。
 15日、南都の忠実から忠通に書状が届き、朝廷に提出された。摂関家の事実上の総帥だった忠実の管理する所領は膨大なものであり、没収されることになれば摂関家の財政基盤は崩壊の危機に瀕するため、忠通は父の赦免を申し入れたと思われる。しかし忠実は、当初から頼長と並んで謀反の張本人と名指しされており、朝廷は罪人と認識していた。17日の諸国司宛て綸旨では、忠実・頼長の所領を没官すること、公卿以外(武士と悪僧)の預所を改易して国司の管理にすることが、18日の忠通宛て綸旨では、宇治の所領と平等院を忠実から没官することが命じられている。なお綸旨には「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」・・・と留保条件がつけられているが、逆に言えば氏長者にならなければ荘園を没収するということであり、忠通に氏長者の受諾を迫る意味合いもあった。
 19日、忠通は引き延ばしていた氏長者の宣旨を受諾し、20日には忠実から忠通に宇治殿領(本来は忠通領だったが、義絶の際に忠実が取り上げた京極殿領と、泰子の死後に忠実が回収した高陽院領)百余所の荘園目録が送られる。摂関家領荘園は、忠実から忠通に譲渡する手続きを取ることで辛うじて没収を免れることができた。・・・
 23日、崇徳上皇は讃岐に配流された。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。崇徳は二度と京の地を踏むことはなく、8年後の・・・1164年・・・にこの世を去った。重仁親王は寛暁(堀河天皇の皇子)の弟子として出家することを条件に不問とされた。
 27日、「太上天皇ならびに前左大臣に同意し、国家を危め奉らんと欲す」として、頼長の子息(兼長・師長・隆長・範長)や藤原教長らの貴族、源為義・平忠正・平家弘らの武士に罪名の宣旨が下った。忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。
 武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが・・・法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられ・・・伊豆大島に配流されたという。
 こうして天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え<た>・・・。
 この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退する。

⇒後白河が保元の乱を惹起した目的は十二分に達成されたことになる。(太田)

ーー 忠通は・・・1158年・・・4月の藤原信頼との騒擾事件では一方的に責めを負わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王(二条天皇)への譲位についても全く関与しないなど、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。
 乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることになる。さらに院近臣も後白河上皇を支持するグループ(後白河院政派)と二条天皇を支持するグループ(二条親政派)に分裂し、朝廷内は三つ巴の対立の様相を呈するようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し、再度の政変と武力衝突が勃発することになる(平治の乱)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1

4 平治の乱

 「保元元年(1156年)の保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制を発令した。「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を強く宣言したこの新制は、荘園整理令を主たる内容としていた。鳥羽院政期は全国に多くの荘園が形成され、各地で国務の遂行をめぐって紛争が起きていた。この荘園整理令はその混乱を収拾して、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図したものであり、荘園公領制<(すぐ後の囲み記事参照(太田))>の成立への大きな契機となった新制と評価されている。その国政改革を立案・推進したのが、後白河の側近である信西であった。
 信西は改革実現のために、記録所を設置する。長官である上卿には大納言・三条公教が就任、実務を担当する弁官からは右中弁・藤原惟方、左少弁・源雅頼、右少弁・藤原俊憲(信西の嫡子)が起用され、その下で21人の寄人が荘園領主から提出された文書の審査、本所間の争論の裁判にあたった(後白河が「暗主」であるという信西の言葉は、この記録所の寄人だった清原頼業<(注41)>が九条兼実に後年語ったものである)。

 (注41)1122~1189年。「早くから藤原頼長・九条兼実などにその実務と学識を認められ、平安時代末期の動乱期の朝廷で政治の諮問に与る。・・・「あはれ一上(いちのかみ)や」とつぶやき、かつての主であり師でもあった藤原頼長を偲<ぶのが口癖だっ>たという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E6%A5%AD

⇒清原頼業は、自分と深い因縁のある頼長を謀殺したに等しい後白河に含むところがあったと想像される上、九条兼実は、後白河には距離を置き、承久の乱の時には後鳥羽への批判的な姿勢を取った人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
であることから、頼業が兼実に、後白河が「暗主」と言ったことなど、額面通り受け取るべきではあるまい。(太田)

 さらに内裏の復興にも着手して、・・・1157年・・・10月に再建した。その直後にも新たに新制30ヶ条を出し、公事・行事の整備、官人の綱紀粛正に取り組んだ。この過程で信西とその一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする俊憲・貞憲は弁官として父と共に実務を担当する一方で、紀二位(後白河の乳母)を母とする成憲・脩憲はそれぞれ遠江・美濃の受領となった。信西自身は、保元の乱で敗死した藤原頼長の所領を没収して後院領に組み込み、自らはその預所になるなど経済基盤の確保にも余念がなかった。

⇒全て、後白河が、そのように取り計らった、ということだ。(太田)

 国政改革推進のため、信西は平清盛を厚遇する。平氏一門は北面武士の中で最大兵力を有していたが、乱後には清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と兄弟で四ヶ国の受領を占めてさらに勢力を拡大した。また、荘園整理、荘官・百姓の取り締まり、神人・悪僧の統制、戦乱で荒廃した京都の治安維持のためにも、平氏の武力は不可欠だった。大和守に平基盛が任じられたのも、平氏に対する期待の現れといえる。大和は興福寺の所領が充満していて、これまで国検をしようとしても神人・悪僧の抵抗によりことごとく失敗に終わっていた。清盛は武力を背景に国検を断行する一方、寺社勢力の特権もある程度は認めるなど柔軟な対応で、大和の知行国支配を行った。さらに清盛は大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的実力を高めた。信西は、自らの子・成憲と清盛の女(後の花山院兼雅室)の婚約によって平氏との提携を世間に示し、改革は順調に進行するかに見えた。

⇒平家は、京を本拠としているので、後白河にとっては、平時の警察力として、東国を本拠としている河内源氏よりも重宝した、というくらいの話だろう。(太田)

 しかし、ここにもう一つ別の政治勢力が存在した。美福門院を中心に東宮・守仁の擁立を図るグループ(二条親政派)である。美福門院は、鳥羽法皇から荘園の大半を相続して最大の荘園領主となっており、その意向を無視することはできなかった。美福門院はかねてからの念願であった、自らの養子・守仁の即位を信西に要求した。もともと後白河の即位は守仁即位までの中継ぎとして実現したものであり、信西も美福門院の要求を拒むことはできず、・・・1158年・・・8月4日、「仏と仏との評定」(『兵範記』)すなわち信西と美福門院の協議により後白河天皇は守仁親王に譲位した(二条天皇)。ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まることになる。

⇒そうではなく、保元の乱から2年経ち、この乱の後始末もできたので、予定通り、後白河が、天皇家における権力と権威の分離、すなわち、院政を開始した、というだけのことだろう。(太田)

 二条親政派は藤原経宗(二条の伯父)・藤原惟方(二条の乳兄弟、記録所の弁官の一人)が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河の政治活動を抑圧する。これに対して後白河は近衛天皇急死により突然皇位を継いだこともあり、頼れるのは信西のみであった。しかも信西自身も元は鳥羽法皇の側近で美福門院とも強い関係を有していることから、状況は不利であった。後白河にとっては、自らの院政を支える近臣の育成が急務となった。

⇒鳥羽から引き継いだ者ばかりの近臣陣に、自分が選んだ新鮮な人材を加えたいと後白河が考えたのは当然だろう。(太田)

 そこで後白河は、武蔵守・藤原信頼を抜擢する。信頼は・・・1157年・・・3月に右近権中将になると、10月に蔵人頭、翌年2月に参議・皇后宮権亮、8月に権中納言、11月に検非違使別当と急速に昇進する。もともと信頼の一門は武蔵・陸奥を知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していた。・・・1155年・・・8月に源義平(義朝の長男)が叔父の義賢を滅ぼした武蔵国大蔵合戦においても、武蔵守であった信頼の支援があったと推測される。・・・1158年・・・8月に後白河院庁が開設されると、信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任する。義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭であり、両者の同盟関係はさらに強固となった。義朝の武力という切り札を得た信頼は、自らの妹と摂関家の嫡子・基実の婚姻も実現させる。摂関家は保元の乱によって忠実の知行国・頼長の所領が没収された上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義らが処刑されたことで各地の荘園で紛争が激化するなど、その勢力を大きく後退させていた。混乱の収拾のためには代替の武力が必要であり、義朝と密接なつながりのある信頼との提携もやむを得ないことであった。後白河の近臣としては他にも、藤原成親(藤原家成の三男)や源師仲が加わり院政派の陣容も整えられた。

⇒以上から、後白河がどうして信頼を抜擢したか理由が分かろうというものだ。
 つまり、後白河は、義朝を武家総棟梁に指名するための環境整備目的で、東国における義朝の勢力拡大を図り、その手段として、信頼を用いた、ということだろう。(太田)

 ここに、信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門というグループがそれぞれ形成されることになった。『平治物語』では信頼が近衛大将を希望して、信西が断ったために確執が生まれたとする。しかし『愚管抄』にはその話は見えず、大将に任じられるのは院近臣の身分では常識的に無理なことから事実かどうかは疑わしいとする見方がある一方で、既に信頼は2年弱で受領から権中納言まで進むという常識的に無理な昇進を果たしており、その背景にあった後白河上皇の恩寵があれば更なる昇進が可能という期待感を抱かせたとすればあり得ない話ではないとする見方もある。信西一門の政治主導に対する反発が、平治の乱勃発の最大の原因と思われる。
 二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。

⇒『平治物語』(注42)はそもそも、また『愚管抄』は前述したように、このような噂話的なものの、信頼性は低く、真面目に取り上げるには値しない。(太田)

 (注42)「13世紀半ば<まで>に成立していた<が、>・・・作者<が>・・・誰であるかは不明。・・・『保元物語』と同様に源氏に対して同情的な内容であるのが特徴」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E7%89%A9%E8%AA%9E

 一方、清盛は自らの娘を信西の子・成憲に嫁がせていたが、信頼の嫡子・信親にも娘(後の藤原隆房室)を嫁がせるなど、両派の対立では中立的立場にあった。平治元年(1159年)12月(1160年1月)、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。

⇒保元の乱の時、追いつめられたところの、崇徳・頼長方に、院宣・綸旨的なものが発出されたわけではないのに、頼長の呼びかけに応え、少数とはいえ、頼長にゆかりの深い武士達が、摂関家の用事ではなく国事のために駆け付けたこと、つまりは、武士達を使っての防勢的クーデタが行われたが失敗したことが信頼の念頭にあり、野心家の信頼が、今度は失敗しないように練りに練った攻勢的クーデタを決行したということだと私は見ている。
 なお、私の場合と根拠は違うのだろうが、「最近の研究の結果、平治の乱に対する評価が変化して、真の首謀者は藤原信頼で義朝は信頼に巻き込まれたに過ぎず、この乱が源氏と平家の戦いという側面ではとらえられなくなっている」(元木泰雄と野口実それぞれの著書が典拠)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%9B%A4%E5%BE%A1%E5%89%8D 
ようだ。(太田)

 12月9日深夜、藤原信頼と信頼に同心した武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃する。信頼らは後白河上皇・上西門院(後白河の同母姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けた。警備にあたっていた大江家仲・平康忠、一般官人や女房などが犠牲となるが、信西一門はすでに逃亡していた。信頼らは後白河と上西門院を二条天皇が居る内裏内の一本御書所に移して軟禁状態にした(ただし、『愚管抄』には後白河は「すゑまいらせて」とあり、信頼は一本御書所に後白河を擁したとも解される記述をしている)。

⇒私は、当時、後白河が日本の最高権力者だったと見ているわけだが、保元の乱の時には頼長が権力も権威も持たない崇徳を錦の御旗にしたところ、今度は、権力を持つ後白河を錦の御旗にしようとした、と見ている。(ここは、事実の話だから『愚管抄』を信じることとするが、)だから信頼は、権威だけしか持たない二条は後白河に比してぞんざいに扱ったわけだ。(太田)

 後白河を乗せる車は源師仲が用意し、源重成・源光基・源季実が護送した。源光基は美福門院の家人・源光保の甥であり、京都の治安を預かる検非違使別当は藤原惟方であることから、クーデターには二条親政派の同意があったと推測される。

⇒信頼は後白河の重臣であり、その信頼からの(信西排除の)依頼は、後白河からの依頼だと受け止められたはずで、朝廷関係者が動くのは当然だろう。(太田)

 翌10日には、信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が捕縛され、22日に全員の配流が決定した。13日、信西は山城国田原に逃れ、土中に埋めた箱の中に隠れたが、発見されて掘り起こされる音を聞き、喉を突いて自害した。光保は信西の首を切って京都に戻り、首は大路を渡され獄門に晒された。

⇒信頼は、一体いかなる罪状で信西の子息達に配流を申し渡したり、信西の首を晒したのか、ネット上でざっと当たった限りでは分からなかった。(太田)

 信西が自害した翌日の14日、内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握した信頼は、臨時除目を行った。この除目で源義朝は播磨守、嫡子・頼朝は右兵衛権佐となった。『平治物語』は信頼が近衛大将になったとするが、『愚管抄』にその話は見えない。藤原伊通はこの除目について「人を多く殺した者が官位を得るなら、なぜ三条殿の井戸に官位をやらないのか」と皮肉ったという。信頼の政権奪取には大半の貴族が反感を抱いていたが、二条親政派も義朝の武力を背景とした信頼の独断専行を見て、密かに離反の機会を窺っていた。その最中、東国より兵を率いて馳せ上った源義平は直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張したが、信頼はその必要はないと退けた。信頼にしてみれば嫡男・信親と清盛の女の婚姻関係により、清盛も自らの協力者になると見込んでいた。

⇒クーデタの首謀者としては、信頼は脇が甘過ぎた。(太田)

 清盛は、熊野詣に赴く途中の紀伊国で京都の異変を知った。動転した清盛は九州へ落ち延びることも考えるが、紀伊の武士・湯浅宗重や熊野別当・湛快の協力により、17日帰京する。帰京までに、伊藤景綱・館貞保などの伊賀・伊勢の郎等が合流した。一方、義朝はクーデターのため隠密裏に少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定していなかった。

⇒信頼の脇の甘さの原因はむしろ義朝の脇の甘さにあったのかもしれないけれど、義朝は、信頼が後白河(と二条)の意向を受けて信西排除に動いたと信じていた可能性が高く、そうだとすれば、清盛が敵対するとは想定できなかったのも無理はない、と言わざる得ない。(太田)

 京都の軍事バランスは大きく変化し、信頼の優位は揺らぐことになる。信西と親しかった内大臣・三条公教は信頼の専横に憤りを抱き、清盛を説得するとともに二条親政派の経宗・惟方に接触を図った。二条親政派にすれば信西打倒を果たしたことにより、信頼ら後白河院政派は用済みとなっていた。公教と惟方により二条天皇の六波羅行幸の計画が練られ、藤原尹明(信西の従兄弟・惟方の義兄弟)が密命を帯びて内裏に参入する。25日早朝、清盛は信頼に名簿を提出して恭順の意を示し、婿に迎えていた信親を送り返した。信頼は清盛が味方についたことを喜ぶが、義朝は信親を警護していた清盛の郎等(難波経房・館貞保・平盛信・伊藤景綱)が「一人当千」の武者であることから危惧を抱いたという(『古事談』、ただし同書は18日のこととする)。
 25日夜、惟方が後白河のもとを訪れて二条天皇の脱出計画を知らせると、後白河はすぐに仁和寺に脱出した。日付が変わって26日丑刻(午前2時)、二条天皇は内裏を出て清盛の邸である六波羅へと移動する。藤原成頼(惟方の弟)がこれを触れて回ったことで、公卿・諸大夫は続々と六波羅に集結する。信頼と提携関係にあった摂関家の忠通・基実父子も参入したことで、清盛は一気に官軍としての体裁を整えるに至り、信頼・義朝の追討宣旨が下された。26日早朝、天皇・上皇の脱出を知った後白河院政派は激しく動揺し、義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したという。

⇒これはおかしい。
 内裏警備についても義朝に最終責任があるはずであり、後白河と二条の脱出は信頼だけの過失ではないからだ。
 そもそも、義朝は、ことここに至るまでに、このクーデタが後白河/二条の意向を受けたものではなかったことに気付くべきだったのであり、気付かなかったとすれば、(直接、この二人と話をする機会がなかったとしても、)情報収集能力がお粗末過ぎるし、仮に気付いていたとすれば、その時点でクーデタから離脱すべきだったのにしなかったのは怠慢の誹りを免れない。
 それだけではない。
 義朝と違って信頼との密接な関係がなかった摂津源氏の源頼政(注43)はさしたる戦績を上げないまま乱の途中で寝返り、美濃源氏の源光保<(注44)>は目覚ましい戦績を上げてからだが、同様乱の途中で寝返っており、義朝の場合は、さしずめ、信頼が自分に嘘をついていたとして、信頼を拘束して投降すべきだったのに最後まで戦っており、義朝は、およそ総棟梁たるにふさわしい器ではなかったと言えそうだ。

 (注43)「頼政は・・・信頼中心のクーデターに参加した。しかし・・・二条天皇を内裏から脱出<し>て六波羅の清盛陣営へ<入っ>てしまった。この結果、二条天皇や美福門院に近い立場にある頼政は信頼に従う意味を失うこととなる。
 12月27日、清盛と義朝の決戦が行われたとき、・・・頼政は最終的には・・・清盛に味方した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF
 (注44)「光保<も>・・・嫡男・光宗や甥の光基らを率いて<このクーデターに参加し、>・・・信西を追跡し、山城国において発見・殺害<、>・・・二条天皇が内裏から脱出すると、信頼方に味方する理由を失った光保一党は動揺し、初め陽明門の守備に付くが、最終的には寝返って平清盛方に加勢した。このため乱の直後は処罰を免れるが、・・・1160年・・・6月、後白河院の命を狙ったという罪状でついに光宗とともに逮捕され、薩摩国に配流となった。さらに間髪を置かず、同国川尻(鹿児島県指宿市)において誅殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E4%BF%9D

 後白河は、自分の眼鏡違いに大きなショックを受けたことだろう。(太田)

 信頼・成親は義朝とともに武装して出陣するが、源師仲<(注45)>は保身のため三種の神器の一つである内侍所(神鏡)を持ち出して逃亡した。

 (注45)村上源氏(公家)なので、河内源氏(清和源氏)(武家)とは関係がない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%B8%AB%E4%BB%B2

 信頼側の戦力は、三条殿襲撃に参加した源義朝・源重成<(注46)>・源光基<(注47)>・源季実<(注48)>、信西を追捕した源光保<(前出)>らの混成軍であった。

 (注46)美濃源氏。「重成は義朝とともに僅かな人数で東国を目指して落ち延びる。『平治物語』によると途中、美濃にて落人追討の一団に遭遇した際、義朝を逃した上で「我こそは源義朝なり」と名乗って自害した。その際に、身元が割れないようにするべく、自ら散々に顔面を傷つけた上で果てたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%87%8D%E6%88%90
 (注47)前出。美濃源氏。平治の乱の時に最後まで、光保・光宗と行動を共にし
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E5%9F%BA
ながら処罰されなかった理由を調べたが不明。
 (注48)文徳源氏。「嫡子・季盛と共に捕らえられ斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AD%A3%E5%AE%9F

⇒「注44」内の重成の身の処し方は、清和源氏内で、いかに河内源氏の嫡流性、そして、義朝の棟梁性、が確立していたかを示している。(太田)

 義朝配下の軍勢は、子息の義平・朝長・頼朝、叔父・義隆、信濃源氏の平賀義信などの一族、鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義などの郎等により形成され、義朝の勢力基盤である関東からは、三浦義澄・上総広常・山内首藤氏などが参戦したに過ぎなかった。義澄は義平の叔父、広常は義朝を養君として擁立していた上総氏の嫡子、山内首藤氏は源氏譜代の家人であり、いずれも義朝と個人的に深い関係を有する武士である。保元の乱では国家による公的な動員だったのに対して今回はクーデターのための隠密裏の召集であり、義朝が組織できたのは私的武力に限られ兵力は僅少だったと推測される。

⇒保元の乱の時も、崇徳・頼長方のクーデタ(未遂)だったのだから、クーデタ参加武士に関しては同じことが言えよう。(太田)

 清盛は内裏が戦場となるのを防ぐために六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、嫡男・重盛と弟・頼盛が出陣した。・・・このとき陽明門を警護していた源光保、光基は門の守りを放棄して寝返るが、光保は美福門院の家人で政治的には二条親政派であり、信西打倒のため信頼に協力していたに過ぎなかった。また『平治物語』は源頼政が味方につかなかったとするが、もともと頼政も美福門院の家人であり信頼・義朝に従属する立場ではなかった。平氏軍は予定通り退却し、戦場は六波羅近辺へと移った。義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが六条河原であえなく敗退する。義朝は平氏軍と頼政軍の攻撃を受け、山内首藤俊通・片桐景重らが必死の防戦をする間に戦場から脱出した。
 藤原信頼・成親は仁和寺の覚性法親王のもとへ出頭した。清盛の前に引き出された信頼は自己弁護をするが、信西自害・三条殿襲撃の首謀者として処刑された。成親は重盛室の兄という理由で助命され、解官されるに留まった。逃亡していた師仲は、神鏡を手土産に六波羅に出頭するが処罰は厳しく、下野国への配流が決定した。
 義朝は東国への脱出を図るが途中で頼朝とはぐれ、朝長・義隆を失い、12月29日尾張国内海荘司・長田忠致の邸にたどり着いたところを鎌田政清とともに殺害された。義朝と政清の首は、正月9日、京都で獄門に晒された。義平は18日、難波経房の郎等・橘俊綱に捕らえられ、21日、六条河原で処刑される。頼朝も2月9日、頼盛の郎等・平宗清に捕まりやはり処刑されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命された。・・・
 合戦の終息した12月29日、恩賞の除目があり、頼盛が尾張守、重盛が伊予守、宗盛が遠江守、教盛が越中守、経盛が伊賀守にそれぞれ任じられ、平氏一門の知行国は乱の前の5ヶ国から7ヶ国に増加した。同日、二条天皇は美福門院の八条殿に行幸し、清盛が警護した。翌・・・1160年・・・正月、二条は近衛天皇の皇后だった藤原多子を入内させ、自らの権威の安定につとめた。実権を握った二条親政派の経宗・惟方は、後白河に対する圧迫を強めることになる。正月6日、後白河が八条堀河の藤原顕長邸に御幸して桟敷で八条大路を見物していたところ、堀河にあった材木を外から打ちつけ視界を遮るという嫌がらせを行った。後白河は激怒して清盛に経宗・惟方の捕縛を命じ、2月20日、清盛の郎等である藤原忠清・源為長が二人の身柄を拘束、後白河の眼前に引き据えて拷問にかけた。貴族への拷問は免除されるのが慣例であり、後白河の二人に対する憎しみの深さを現わしている。経宗・惟方の失脚の理由としては、信西殺害の共犯者としての責任を追及されたことによるものと見られる。
 2月22日、信西の子息が帰京を許され、入れ替わりに3月11日、経宗が阿波、惟方が長門に配流された。同日、師仲・頼朝・希義<(注49)>(頼朝の同母弟)もそれぞれ配流先に下っていった。

 (注49)1152~1180/1182年。平治の乱当時はまだ6~7歳であり、頼朝とは違って、戦闘に参加してはいない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%B8%8C%E7%BE%A9
 「<義朝と>常盤<との間>の<牛若(義経)を含む>三人の子供<も>助命<されている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%9B%A4%E5%BE%A1%E5%89%8D
が、一番上の今若(阿野全成)でも、平治の乱当時は7~8歳であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%85%A8%E6%88%90
当然、全員、戦闘に参加してはいない。

 6月には信西の首をとった源光保と子の光宗が謀反の疑いで薩摩に配流され、14日、殺害された。信西打倒に関わった者は、後白河院政派・二条親政派を問わず政界から一掃された。
 後白河上皇と二条天皇の対立は双方の有力な廷臣が共倒れになったため小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」(『愚管抄』)とあるように二頭政治が行われたが、乱勝利の最大の貢献者である清盛はどちらの派にも与することなく慎重に行動した。平氏一門は院庁別当・左馬寮・内蔵寮などの要職を占め、政治への影響力を増大させた。平氏の知行国も平家貞が筑後守、藤原能盛が壱岐守・安芸守、源為長が紀伊守となるなど、一門だけでなく郎等にも及びその経済基盤も他から抜きん出たものとなった。さらに多くの軍事貴族が戦乱で淘汰されたため、京都の治安維持・地方反乱の鎮圧・荘園の管理の役割も平氏の独占するところとなり、国家的な軍事・警察権も事実上掌握した。清盛はその経済力・軍事力を背景に朝廷における武家の地位を確立して、永暦元年(1160年)6月に正三位に叙され、8月に参議に任命され、武士で初めて公卿(議政官)の地位に就いた。やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、平氏政権を形成していったのである。
 近年になって、河内祥輔が『平治物語』では、後白河上皇・二条天皇は藤原信頼に押籠められたことになっているが、『愚管抄』では二条は「とりまいらせ」、後白河は「すゑまいらせ」と区別され後白河が拘束を受けたとは書かれていないこと、『公卿補任』によれば、信西の子・俊憲の配流先の変更(越後国⇒阿波国)が信頼一派の壊滅後の翌年正月に行われている(配流を命じた信頼らが謀反人として討たれても、信西一族への処分は取り消されていない。2月になって赦免が出される)ことなどを挙げ、藤原信頼の信西殺害は後白河の命令によるものであったとする説を提示している。

⇒喧嘩両成敗的な法理に基づく処置だったのではないか。
 文書の形で喧嘩両成敗法理が登場するのは1445年だとされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%A7%E5%98%A9%E4%B8%A1%E6%88%90%E6%95%97
が、そのような法意識はもっと早くからあったのではないか、と思うのだ。(太田)

 同説ではそもそも鳥羽法皇が後継者として指名したのは二条天皇であり、後白河はその即位までの中継ぎに過ぎず、鳥羽法皇の死去によって本来であれば院政を行う資格のない後白河上皇が形式的に院政を行うことになったものとする。信西は経歴的に「鳥羽法皇の側近」であって、法皇の生前の意向通りに二条天皇による親政を実現させる役割を担っており、将来的には信西によって自己の院政が停止させられると考えた後白河が、二条の親政が始まる前に信西を排除して名実ともに自己の院政を実現させるために引き起こしたのが平治の乱であったと結論づけている(なお、河内説では「二条親政派」と後白河上皇の対立の開始を平治の乱以後とし、藤原経宗・惟方ら二条天皇側近もこの段階では信西との対立はあっても後白河とは対立していなかったとする。また、三条殿の炎上が信頼・義朝側の放火とする十分な裏付けは無く、失火ではないかと推測している)。ところが、信西と同様の立場に立つ三条公教によって二条天皇が平清盛の軍事的保護下に置かれ、公卿たちがそこに結集したことで公家社会に擁立された子の天皇が父の上皇と対決するという構図が形成されたために、後白河はやむなく信頼らを切り捨てた。つまり、25日の晩の二条天皇の六波羅行幸の段階で既に「平治の乱」は終わっており、翌日の戦闘は敗北を悟った義朝による最後の抵抗に過ぎず、清盛側から見れば残敵への掃討戦であったということになる。
 この説に対しては元木泰雄が、「院の立場から信西を排除するなら罪をかぶせて配流すればよいはず」「二条親政を阻止するためには信西より二条側近の排除が第一のはず」「外戚である経宗が親政阻止に加担するのは不自然」「後白河が以仁王を含めた藤原成子所生の皇子を顧慮した形跡がない」との趣旨で批判している。古澤直人も「信西一家の台頭は貴族社会に深刻な動揺を与え、親政派と院政派の対立は後白河と二条の対立とは別の次元で進行していた(院近臣である信頼と親政派である経宗に”信西排除”の共通目標・大義名分を与えた)」「信頼が処刑された後も”信西排除”を掲げる経宗・惟方・源光保ら親政派が中央で健在である以上、信西の子への処分は取り消されなかった(ただし、配流の強行が院による親政派排除につながった可能性はある)」との趣旨で批判している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1 前掲

⇒以上の平治の乱のウィキペディア内の、上皇派v.天皇派、的な記述はことごとくナンセンスであり無視して読んで欲しい。
 白河から院政、つまりは、武家総棟梁の指名とその者への権力への移譲を目指すところの、天皇家における権力と権威分離体制、を引き継いだ鳥羽は、自分の後継者として後白河を指名したのであり、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を、鳥羽から口伝された後白河も、(院政を引き継ぐと目された)二条も、この全てをわきまえていたはずなのだから・・。
 とまれ、桓武天皇構想の実現は、クーデタを決行した信頼、と、そんな信頼に最後まで付き合ってしまった義朝、という、二人の大うつけによって、後白河の思いもよらない形で挫折し、大幅な遅延を余儀なくされた、というわけだ。(太田)

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[源頼朝の助命]

 「1155年<の保元の乱の時、かつて、崇徳の子である>・・・重仁の乳母であった伊勢平氏前当主正室の池禅尼は継子の平清盛の後白河加担を支持し(『愚管抄』)、これにより一門の大多数が後白河に与したことで両陣営の兵力差が決定的となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 「池禅尼<(1104?~1164年?)は、>・・・1120年)頃、平忠盛と結婚し、忠盛との間に家盛、頼盛を産んでいる。<鳥羽の皇后(中宮)であった>待賢門院<(藤原璋子)>近臣家の出身だった<(注50)>が、従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成<(注51)>がいたことから<待賢門院同様、鳥羽天皇の妃であったところの、>美福門院ともつながりがあった。 

 (注50)「1117・・・年11月・・・<忠>盛は<、>鳥羽天皇に入内することとなった藤原璋子(藤原公実女、のち待賢門院)の「政所別当」の末席に、父・備前守正盛とともに列することとなる・・・。当時の璋子は無位で内親王家でもないため、本来であれば職事を置く資格はないが、「依法皇養子、以公達為職事」とされた。このときまでに忠盛は「伯耆守」となり、さらに「右馬権頭」をも兼ねる地位に昇っていた。・・・
 藤原璋子は白河院の寵姫・祇園女御の養女になっており、祇園女御の恩恵を受けていた正盛とも面識があったのだろう。正盛・忠盛は地下人のまま、中宮の家政機関に加わることになった。璋子の家司になった他の面々もすべて白河院の側近や親族で固められて<いた。>・・・
 1123・・・年・・・11月・・・忠盛は越前守藤原顕盛と相伝して「越前守」となる<が>、顕盛は忠盛とともに<鳥羽天皇>中宮璋子の家司を務めた人物で、忠盛同様に<白河>院近臣でもあった。忠盛はこの顕盛の属した六条家(白河院の乳母子・藤原顕季の子孫で院近臣として繁栄する。・・・)と交流があり、顕盛の叔父・藤原顕輔(中宮璋子の家司)とも・・・私的な関係も見られる・・・。・・・
 忠盛はこの頃、修理権大夫藤原宗兼の長女・藤原宗子を正室に迎えている。藤原宗兼は六条家とも縁戚関係にある白河院近臣の有力者であり、忠盛は院近臣の有力家である六条家との縁戚関係を深めつつ、院の近臣の中に深く入り込んでいく。」
http://chibasi.net/iseheisi7.htm
 (注51)1107~1154年。「藤原北家魚名流・・・参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。・・・
 鳥羽院政期において、鳥羽上皇の第一の寵臣として活躍する。中央においては、従妹にあたる美福門院とともに国政の中枢部に深く関わり、また諸国においては数多くの荘園を形成して、経済的にも目ざましい躍進を遂げた。・・・
 父である藤原家保は白河法皇の側近であったが、家成は鳥羽法皇の引立てを受けてその白河法皇側近の排除に協力した結果、嫡流としての地位を得た。家成は失脚した父の権益を継承したのに対し、長兄の顕保は家成に昇進を妨害されて播磨守で没し、他の兄弟も保元の乱で崇徳上皇に近い立場を取って没落する事になる。・・・
 平忠盛・清盛父子との親交が深く、若年期の清盛は家成の邸宅に頻繁に出入りしていたと伝えられる。清盛の長男・重盛が正室に家成の娘を迎えたのを筆頭に、両家の間には何重にも姻戚関係が結ばれるに至っている。忠盛の正室(清盛の継母)池禅尼は従姉にあたる。・・・
 藤原忠実は家成と協調的な態度を取っていたが、子の頼長は家成・・・の勢威に警戒感を示した。・・・1151年・・・、従者同士の諍いを口実にした頼長に邸宅を襲撃され、散々に破壊されるという災難を蒙っている。この頼長の性急かつ短絡的行動は鳥羽法皇の激怒を買い、頼長の失脚とそれにつながる保元の乱勃発の伏線となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90

 <彼女>は<忠盛の先妻の子である>清盛に対して助命を嘆願したと言われている。また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、清盛も遂に折れて伊豆国への流罪へ減刑したとも言われている。
 上記内容を記している『平治物語』では、頼朝が早世した我が子家盛に生き写しだったことから「宗子」が助命に奔走したとする」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC
 「<しかし、>元木泰雄氏は頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の子統子内親王<(後白河の同母姉)(注52)>)関係者や頼朝の母の実家で待賢門院女房が複数確認できる熱田大神宮家の働きかけによるとの説を提示し、五味文彦氏は頼朝の祖父為義の妻=義朝の母(藤原忠清の娘)が待賢門院女房であった可能性が強いことを説いているが、禅尼は母親との関係で頼朝を以前から知っていた可能性が高い<(注53)>。」
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1141.html

 (注52)とうし/むねこないしんのう(1126~1189年。「1129年)4月19日、・・・斎院<として>・・・紫野院に入るが、長承元年(1132年)6月29日病をえたことにより退下した。
 ・・・1158年・・・2月3日、<同母弟の>後白河天皇の准母として立后。翌<1133>年2月13日に院号宣下。・・・1160年・・・2月17日、母の待賢門院から相続していた仁和寺法金剛院で出家。・・・
 母・待賢門院璋子時代からの家臣・女房らが仕えた上西門院統子の御所は、源氏・平氏双方の縁者が多く見られる一方、優れた歌人たちを輩出した文雅豊かなサロンでもあった。・・・
 後白河天皇<は、>わずか1歳年上に過ぎない同母姉・統子を准母とし<ていたもの。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 (注53)「禅尼の兄と思われる宗長については有信娘が母であると系図に明記されているが、同母兄の可能性が高いのではないか。日野有信は崇德院の近臣資憲の祖父であるが、その兄弟有綱の娘が義家の妻として産んだのが為義であることはすでに述べた。また資憲の母は有信の兄弟有定の娘である。禅尼の母が有信娘ならば、禅尼と為義並びに資憲の母は従姉妹の関係にあったことになる。『平治物語』では頼朝が禅尼の子で早世した家盛に生き写しであったころから助命を行ったとされるが、一方、元木泰雄氏は頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の子統子内親王)関係者や頼朝の母の実家で待賢門院女房が複数確認できる熱田大神宮家の働きかけによるとの説を提示し、五味文彦氏は頼朝の祖父為義の妻=義朝の母(藤原忠清の娘)が待賢門院女房であった可能性が強いことを説いているが、禅尼は母親との関係で頼朝を以前から知っていた可能性が高い。」(上掲)

 私は、池禅尼が、義朝が、従って、頼朝が、鳥羽から後白河へと密かに継承されたところの、武家総棟梁筆頭候補者であることを知っていたからだ、と見ている。
 そもそも、どうして、彼女は、保元の乱の時に、清盛に的確な助言を与えることができたのか。
 それは、「鳥羽上皇の第一の寵臣」であった従兄弟の藤原家成と、家成の摂関家の頼長との確執等について、日常的に話を交わす中で、院政、すなわち摂関家が掌握していた日本の権力の上皇への移譲、の意義・目的、そして、その背後にある、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、そして、その最終的仕上げとして武家総棟梁の指名が課題となっていて義朝がその最有力候補者であること、を知るところとなり、だからこそ、(その3年前に家成は死去していたが、)保元の乱の時、清盛に対し、(真の理由は明かさないまま、後白河天皇方が勝つからとあえて断定的に語り、)後白河天皇方、つまりは義朝方、につくように促した、と見る。
 さて、「平治の乱後、頼盛は尾張守となった。翌・・・1160年・・・2月、頼盛の郎等・平宗清が逃亡中の源頼朝を捕らえた。尾張国は京都と東国を結ぶ交通の要衝に当たるため、頼盛が尾張守に任じられたのは、東国に逃れる源氏の残党を追捕するための措置だったとも考えられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B
ところ、頼盛を尾張守に就けるよう取り計らったのは、母親の池禅尼であり、更に想像を逞しくすれば、逃走中の頼朝が母親の実家である尾張の熱田神宮家と連絡をとるとふんで、熱田神宮家から頼朝に悪いようにしないから、尾張国内で頼盛の手の者に捕まれと伝えさせており、その手筈通りことが運んだのではないか、と、さえ思うのだ。
 もとより、池禅尼は、清盛の父忠盛の正妻であると共に、(崇徳上皇の皇子の重仁親王の乳母でもあったにもかかわらず、行ったところの、)保元の乱の時の適切な助言という「貸し」が清盛に対してあったことから、清盛に言うことを聞かせる自信があり、その通りの結果になったわけだ。
 そして、これは確信を持って断言できるのだが、池禅尼は、自分の認識を頼盛にも共有させたと見る。
 そのことは、頼盛の爾後の、その死までの、一貫した、後白河と頼朝に資する諸行動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B
を見れば明らかだろう。
 その子孫は、(嫡流は別として、)栄えることとなる。(上掲)
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[荘園公領制と荘園整理令]

○荘園公領制

 「平安時代中期以降、開発領主による墾田開発が盛んになる。
 彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危ういものであった。
 そこで、彼らはその土地を荘園として受領層に寄進することとなる。
 受領層は彼ら大名田堵(=開発領主)を荘官に任命し、その土地の実効支配権を認める代わりに、荘官から一定の<上納物品>を受け取る。
 こうして荘園を持つようになった受領層を領家と呼ぶ。
 領家は次第に、・・・大名田堵との対立を増すようになる。
 そこで彼らは自らの荘園をさらに権門層に寄進し、保護を求める代わりに一定の<上納物品>を納めた。
 こうして荘園を集積した権門層を本家と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92%E5%85%AC%E9%A0%98%E5%88%B6
 「律令国家は743年墾田永年私財(こんでんえいねんしざい)法により荘園の設立を許した後も,荘園を公領と同様に扱って国司が立ち入り租税をかけていたが,荘園をもつ有力者はさらに私有権を確立しようと努め,9世紀半ばごろから各種租税の免除を不輸の権として次々に獲得していった。しかし国司らは租税増徴のため,しばしば荘園に立入調査をしたので,やがて不入の権も申請,許可されるに至り荘園の私有権は確立した。・・・
 のちに不入権は検非違使(けびいし)などの警察権を排除する権利に拡大した。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8D%E8%BC%B8%E4%B8%8D%E5%85%A5-620521

⇒このような成行を、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想下の朝廷は、黙認した、というより、奨励した、と見る。
 公とは区別される私の世界、しかも、エージェンシー関係が重層化した形でのそれ、の出現が、武士のこの層のうちのいずれかへの進出、と、この私の世界における検断(司法・警察)面における武士の自主的な役割発揮、を可能にするからだ。(太田)

 時を同じくして、律令制の崩壊と共に、上級貴族は・・・地方政治は国司に一任<するに至っ>ていた(王朝国家)。
 増え続ける荘園に対抗して、国司は大名田堵を在庁官人に任命し、自らの手元に置き、さらには郡司・郷司・保司として、地方行政官とした。郡司・郷司・保司はそれぞれ一定額をそれぞれ国司、朝廷に納めればよい。
 その後、荘園の更なる増大で税収が減り、上級貴族に俸給を払えなくなった朝廷は、彼らに知行国として国を与え、その国に関する国司の任命権と税収を上級貴族に与えた。
 同様に皇族にも院宮分国制が敷かれ、こうして権門層たる上級貴族、受領層たる国司、大名田堵たる郡司・郷司・保司が結びつき、荘園制とほとんど変わらぬ構造となった。

⇒このような成行も、朝廷は、上述の私の世界と同じ形のものへと変貌させた、と見る。
 違いは、領家の土地に対する上土的恒久所有権を保有していたのに対し、この領家に相当する国司は、上土的臨時所有権しか与えられなかったという点だけだ。
 但し、検断権は国司(ひいては知行国主、究極的には朝廷)が掌握しているので、郡司・郷司・保司のいずれかが武士であったとしても、検断面で自主的な役割発揮はできないので、武士にとって魅力が少なく、公の世界を武士は敬遠気味であった、と見る。(太田)

 なお、この重層的支配構造は「職(しき)の体系」とも呼ばれ、それぞれの立場の職務と権限を「~職」と呼んだ。(領家職、郡司職、郷司職など)

土地/職  権門  受領  大名田堵
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荘園   本家  領家   荘官      ←「私の世界」(太田)
公領  知行国主 国司  郡司・郷司・保司 ←「公の世界」(太田)

 次第に在地領主同士の土地争いが増えるに従って、彼らは武装し、武士となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%9C%92%E5%85%AC%E9%A0%98%E5%88%B6 前掲

⇒そうではなく、朝廷の政策として、武家が東国を中心に地方に大名田堵として定着していき、そのことが、既存の荘官・・そして部分的には、郡司・郷司・保司・・の武士化の呼び水になった、と見る。
 (なお、荘官が武士だった場合、荘園所在地の国司の知行国主が当該荘園の本家だった場合は、国司は検断にこの武士を動員できることになる。)
 また、この荘園公領制は、その成立がいわゆる律令制の時代後なので話が若干ややこしくなっているが、プレ律令制時代の政治経済体制への回帰と捉えることもできそうだ。
 実は、律令制下でもプレ律令制時代の政治経済体制は基本的に維持されたという説が有力になりつつある(コラム#省略)わけだが、プレ律令制時代の政治経済体制と荘園公領制の違いはと言えば、
一、前者では、領家に相当するのが国造(但し、「国」は令制国整備前の行政区分)、国司に相当するのが県主であったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%80%A0
二、国造が自分の武力を背景に自治権が認められていたこと、県主による統治は朝廷の直轄武力に依存していたこと、すなわち、そこに武士が存在しなかったこと、
の2点だ。
 以下、今後のオフ会「講演」原稿群で、或いは、今後のコラムで改めて取り上げるつもりだが、荘園公領制のその後の成行を簡単に紹介だけしておく。↓

 「鎌倉幕府の成立に従い、主に東国の武士は鎌倉幕府に奉公する、御家人となった。
 彼らはその代償たる御恩として、地頭に補任され、所領の支配権が鎌倉幕府に保証された。
 彼らは地頭という全く新しい職に付いたわけではなく、あくまで荘官や郷司・保司のうち幕府と主従関係を結んだものが地頭と呼ばれる点に付いては注意したい。
 当然彼らは荘官や郷司・保司以上の職は持たないのである。

         土地        地頭等任命権 収入を得る権利
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関東御成敗地 関東御領・関東御分国     鎌倉幕府
関東進止所領・関東御口入地     鎌倉幕府  荘園領主・国司
   本所一円地               荘園領主・国司

 関東御成敗地に関しては幕府が地頭の補任権を持つ。
 つまり、その内関東進止領・関東御口入地には鎌倉幕府とは異なる荘園領主・国司が存在し、しかも彼らは荘官や郷司・保司の任命権は持たないのである。
 ただ頼朝の頃から、守護が在庁官人を指揮して大田文(土地台帳)を作成していた。
 そこで、地頭の年貢の滞納や領民の不法使用など、地頭職を越えた越権行為が行われるようになり、荘園領主や国司との間に紛争が生じた。その解決策が地頭請や下地中分である。
 このようにして地頭は領地の支配権を強めていった。

 室町時代になると、幕府の設立の経緯から、守護の権力が強大であった。彼らは守護領国制の成立を目指して、在庁官人を含む鎌倉期の地頭、国人を被官化し、国衙や彼らの所持していた領地を掌握した。
 それと前後して、守護は半済、守護請等で、荘園領主等の権利をも侵食して行き、戦国時代になると、守護大名に代わった戦国大名はさらに土地の一円知行を進めていく。

 その後、太閤検地により、土地には直接の耕作者の権利しか認められなくなり(一地一作人)、以前までの重層的支配構造は名実共に解消された。」(上掲)

○荘園整理令

 「嚆矢が、醍醐天皇の延喜2年(902年)3月13日に太政官符として発布された延喜の荘園整理令である<が、>・・・成立の由来がはっきりとしていて、かつ国務の妨げにならない荘園<を残したものだ。>・・・
 花山天皇の代の永観2年(985年)に発布された永観の荘園整理令<も基本的に同じだった。>・・・ 
 後朱雀天皇の代の長久元年(1040年)、・・・国司側も任期が終了に近づくと、次の役職を得るための一種の猟官運動として、国司免判による国免荘<(注54)>を設置することで有力貴族による荘園実施を認める傾向にあった<ことから、>・・・内裏造営を名分として、現任の国司の任期中に立てた国免荘の停止を命じる長久の荘園整理令が発布される。・・・

 (注54)こくめんのしょう。「太政官符および民部省符の承認による官省符荘に対する。官省符をうける手づるを持たない地方豪族などが国司と結託して成立させたもので,・・・その不輸認定はその国守の在任中だけ有効であった。中央政府はいうまでもなく国免荘を認めず,902年(延喜2)官符を基準とする格(きやく)前・格後の荘園整理方針をとり続けてきたが,1040年(長久1)の荘園整理令で当任国司以後の新立荘園は認めないとする新方針がうちだされてから,国免荘の実績をもつ荘園が公認される根拠が出現し,さらに延久の記録荘園券契所では1045年(寛徳2)が荘園整理基準とされ,同所の審査で不輸が認められた国免荘は,中央政府が不輸を公認したのと同様になった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%85%8D%E8%8D%98-499900

 後冷泉天皇の代の寛徳2年(1045年)、寛徳の荘園整理令が発布される。この整理令は、前任の国司の任期中以後に立てた国免荘を全て停止し、これに背いた国司は解任して今後一切国司には任用しないと言う罰則を設けることで、不法国免荘を整理しようとした。・・・
 延久の荘園整理令では、従来の荘園整理令よりも強固に実行するためにそれまで地方諸国の国司達に依存していた職務を全て中央で行うようにした。その審査を行う機関として、延久元年(1069年)に記録荘園券契所が設置された。・・・
 大寺社勢力に・・・多大な<打撃>を与え<、公家にも基本的に同じことが言えるが、公家筆頭であるところの、>・・・摂関家の経済基盤<も>この荘園整理令で大打撃を受けたことがうかがえる<とするのが通説であるところ>。その一方で、頼通の荘園の中核であった平等院領が後三条天皇の即位直前に駆け込みで得た太政官符・太政官牒が有効な公験とされて整理の対象外となったことで、実際の摂関家の経済基盤への打撃はそれほど大きなものとならず、むしろ「天皇の勅許のもとに太政官符・太政官牒の発給を得て四至が確定された荘園は公認される」という原則が確立されたことで、むしろその後の荘園制の発展につながったとする指摘もある。

⇒桓武天皇構想下の天皇家と摂関家は一心同体であるとの認識から、私は、(摂関家には大きな打撃は生じないように措置されたとの)この新説に与する。
 で、そもそも論なのだが、天皇家が「公の世界」の縮小の速度を問題視して度々ブレーキをかける荘園整理令を発したのは、来るべき、武家総棟梁への権力の移譲までに天皇家の権力が有名無実化してしまうと、法律論的に言えば移譲すべき権力の実体がなくなってしまうからだし、政治論的に言えば武家総棟梁の指名に至る過程で権力を継続的に行使するための資金源が枯渇しまうからだ、と、私は考えるに至っている。(太田)

 <いずれにせよ、>後三条天皇は、収公された審査基準外の違法荘園を国衙領に戻すだけでなく、勅旨田の名目で天皇の支配下に置くなど、事実上の天皇領荘園を構築しており、それらは後三条院勅旨田と呼ばれた。

⇒実質的に院政を始めたところの、後三条天皇、の時になって、天皇家が、「私の世界」に事実上参入することで、上述の問題を「解決」した、という受け止め方ができそうだ。(太田)
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5 終わりに代えて

 予定では、治承・寿永の乱(1180~1185年)/守護地頭の設置
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%B2%BB%E3%81%AE%E5%8B%85%E8%A8%B1
までカバーするつもりだったが、果たせなかったので、次回の東京オフ会の時に、補遺的に取り上げると共に、そのあたりから承久の乱の後始末の頃までは、現在進行中の「坂井孝一『承久の乱』を読む」シリーズでカバーされるので、その期間は飛ばして、それ以降の鎌倉時代史、と、室町幕府の成立くらいまでを取り上げる算段でいる。
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太田述正コラム11698(2020.12.5)
<2020.12.5東京オフ会次第(その1)>

→非公開