太田述正コラム#11534(2020.9.14)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その11)>(2020.12.7公開)
「・・・通説的理解によれば、養老律令<(注33)>は養老2年(718)に制定されたが、大宝律令<(注32)>に対する字句の変更などの小規模な改訂であり、藤原不比等による私的編纂という性格が強く、同4年の不比等の死去により、施行されることなく府庫に死蔵され、のちに・・・757<年>になって、権力を握った藤原仲麻呂が、祖先顕彰のために施行したとされる。」(74)
(注32)「701年(大宝元年)に制定・・・史料上はあくまで、「新令」、「新律」と呼ばれ、当時、「大宝律令」という名称があった訳ではない。・・・
681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。・・・
大宝・・・律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂らである。・・・
・・・養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%BE%8B%E4%BB%A4
(注33)「757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。・・・
不比等らは、日本の国情により適合した内容とするために、律令の撰修(改修)作業を継続していた・・・。・・・718年(養老2年)に各10巻の律と令が藤原不比等により撰されている。ところが、720年(養老4年)の不比等の死により律令撰修はいったん停止することとなった・・・
養老律令それ自体は、戦国時代までに散逸しており現存しない。しかし、<行政法にあたる>令については、律令の注釈書として平安前期に編纂された『令義解』『令集解』に倉庫令・医疾令を除く全ての令が収録されており、復元可能となっている。また、倉庫令・医疾令も他文献の逸文からほぼ復元されている。<刑法にあたる>律については多くが散逸しているが、逸文収集が精力的に行われ、その集成が『国史大系』にまとめられている。これにより、復元されている律は、名例律・衛禁律・職制律・賊盗律、そして闘訟律の一部である。
これに先立つ大宝律令は、全文が散逸し、逸文も限定的にしか残存しておらず、ほとんど復元されていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E8%80%81%E5%BE%8B%E4%BB%A4
⇒大胆過ぎる仮説であるとの誹りを受けることを甘受し、私の仮説を提示しましょう。↓
681年に天武天皇が唐の国制の本格的継受を指示した時、そのためには、唐の国制の調査研究が必要であるところ、(何を遣唐使と見るかにもよって、)前回遣唐使を送ってから10数年~20数年も経過しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
しかも、(隋や唐の)国制の本格的継受を目的とした調査研究を伴った遣隋使や遣唐使など、それまで送ったことがなかったので、再度、支那に使節を送る国際環境が整うまで待つべきだと旧天智朝系皇親達が中心になって天武天皇を説得したが聞き入れられなかったので、形の上で制定作業が開始されたが、686年に天武天皇が亡くなり、次の天皇が即位するまでの間の689年に、飛鳥浄御原令が制定される。これは即位が予定されていた草壁皇子の急死の衝撃緩和と追悼のために急遽制定されたものであって、中身は殆どなかった。690年に持統天皇として即位したこの前皇后は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%B5%84%E5%BE%A1%E5%8E%9F%E4%BB%A4
唐が周武に変わった・・このことに日本は気が付いていなかったとされているようだが、ありえない・・ことを契機に支那に使節を派遣してその国制の調査研究を行うよう命じ、702年から704年まで、使節を派遣させた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF 前掲
この使節の調査研究の成果を活用すべく、藤原不比等を含むところの、律令編成チームが立ち上げられたが、不比等が、旧天智朝皇親達と共に、持統天皇時代とそれに引き続く文武天皇時代(697~707年。但し、703年までは持統上皇時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
の間、作業の引き延ばしを行ったものの、持統天皇/上皇の厳命を受け、701年に、律抜きでしかも絵にかいた餅に等しい、日本の実情に合わない令、だけの大宝律令を制定したが、律を制定するとともに日本の実情に合う令へと改訂する必要がある、と、不比等は、大宝律令の施行を基本的に差し止めるとともに、律令改訂作業のサボタージュを続け、しかも彼が720年に死去した結果として改訂作業を事実上凍結させたが、一転、「孝謙天皇の治世の757年5月、藤原仲麻呂の主導によって(保存されていた草稿をもとに)新律令である養老律令が制定された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E8%80%81%E5%BE%8B%E4%BB%A4 前掲
仲麻呂の目的は、その翌年の「官名を唐風に改称させる唐風政策<の>推進」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82
とも相俟って、唐の国制継受に執念をもやす天武朝の天皇や皇親達のご機嫌を取り結び、自分に権力を集中させて、天智朝とその聖徳太子コンセンサス追求路線を復活させる機会をうかがうためだった。(太田)
(続く)