太田述正コラム#11536(2020.9.15)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その12)>(2020.12.8公開)

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[支那の律令]

 「律令の基本思想は、儒家と法家の思想である。儒家の徳治主義に対して、法家は法律を万能とする法治主義である。古代<支那>には、国家や社会秩序を維持する規範として、礼、楽、刑(法)、兵(軍事)があった。儒家は礼・楽を、法家は刑・兵を重んじた。刑の成文法として律が発達し、令はその補完的規範であった。次第に令の重要性が増して、律から独立し行政法的なものになった。・・・
 律は戦国時代に法家によって整備され、商鞅のもとで秦の国制の根幹をなした。・・・
 漢は初め秦の律を継受し改正を重ねたが、漢の武帝が儒教を国教にすると、刑罰でなく教化を主眼とする法体系が構想されるようになった。それが・・・令である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4 (下の[]内も)
 すなわち、[『塩鉄論』<(注33)>に言及があ<るが、>]「律は禁制法規であって、すべからざることとそれに違反した場合の刑罰を定め、令は教令法規であって、すべきことを挙げる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8B%E4%BB%A4-149076

 (注33)「前漢の・・・紀元前81年・・・に当時の朝廷で開かれた塩や鉄の専売制などを巡る討論会(塩鉄会議)の記録を、・・・この論争からしばらく経った宣帝期(紀元前60年代)の官吏である・・・桓寛が60篇にまとめた著作である。・・・
 前漢では、武帝による匈奴との対外戦争の影響で急速に財政が悪化したため、桑弘羊らの提案によって、塩・鉄・酒などの専売や平準法(市場価格が下がった物資を国家が買って、高騰した時に市場に払い下げる)・均輸法(市場価格が下がった物資を国家が買って、その物資が不足して価格が高騰している地域に輸送してその地域の市場に払い下げる)などを行って、その収益をもって財政を立て直すこととなった。これらの政策によって財政は立て直されて、その功績で桑弘羊は御史大夫に昇進した。
 ところが、こうした方針に儒学者は「国家が民間と利益を争うことは卑しいことである」と批判し、国家権力の参入によって「民業圧迫」の状態に陥って大打撃を受けた商人たちも不満を強めていった。武帝の死後、政権に参加するようになった外戚の大将軍霍光<(かくこう)>は、こうした批判を受けて政策の修正を図ろうとした。だが、桑弘羊らがこれに強く反対した。このため、昭帝の始元6年(紀元前81年)に、民間の有識者である賢良・文学と称された人々である唐生・万生ら60名を宮廷に招いて、丞相・車千秋、御史大夫・桑弘羊ら政府高官との討論会(塩鉄会議)が行われた。
 法家思想に基づいて「価格の安定によって民生の安定を図っている」と唱える政府側と、儒家思想に基づいて「国家の倫理観の問題に加えて、政府の諸政策の実態は決して民間の需要にかなっているわけではないために、かえって民生の不安定を招いている」とする知識人側との議論は、財政問題から外交・内政・教育問題にまで及ぶなど激しい議論が続けられた。議論自体は知識人側の優位に進んだものの、具体的な対案を出せなかったために結果的には現状維持が決められ、さらに翌年、桑弘羊が別件で処刑されて霍光が政権を掌握した後も、実際の財政状況が深刻なものになっていることが判明したためか、酒の専売を廃止した他は、そのまま前漢末期まで維持されることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E9%89%84%E8%AB%96
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 「・・・行政法である令の体系は、中国において西晋にはじまり、唐代に完成されたものである。
 玄宗朝の・・・737<年>令は、30巻33篇目からなる。
 そして日本の養老令は、<この唐令の>各篇目をほぼ忠実に受け入れているが、・・・順番を入れ替えたり名前を変更したりしている。・・・
 一方で刑法である<養老>律の篇目は、日唐まったく同じであり、条文もほぼ同じである。
 量刑が日本の方が少し軽くなっているなど、ごく一部分の変更を除けば、唐律の体系を模倣したと考えてよい。<(注34)>

 (注34)「唐律のうちの,同姓不婚などの家族制度の違いから日本に適用しがたい規定を削除したような例を除き,おおむね唐律の文章を引き写して条文を作成している。ただ全般的に刑を軽くしている点に,特徴がある。・・・
 律の刑罰は,笞罪(ちざい),杖罪(じようざい),徒罪(ずざい),流罪(るざい),死罪の五刑二十等を主刑とし,このほか,加役流,人身の没官,移郷が主刑に準ずるものとしてあり,付加刑としては,贓物の没収,被害者への返還,損害賠償,官人に対しとくに科せられる除名(じよみよう),免官,免所居官等がある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E5%BE%8B-1377501

 唐律はきわめてち密に組み立てられた刑法体系であり、それを根本的に変更することはありえなかったのである。」(75~76)

⇒次の東京オフ会「講演」原稿で改めて書きますが、私は、日本で制定された(とされているものも含む)律令群は、天武朝の唐心酔的理念の表明に過ぎず、基本的に実施されなかった、と見ており、養老律がほぼ唐律そのままだ、というところからもそれが窺われる、と思っています。
 (伝統もあり方も規範意識も全く異なる二つの社会に、ほぼ同じ刑法典を適用するということだけとっても、不可能に近いことです(注35)。)

 (注35)「国家のなりたちと社会の組織を異にし,礼・楽の未発達な日本では,これの継受は困難であったとみられ<る。>」(上掲)

 思い出していただきたいが、日本では、明治憲法も現行憲法も一度も改正されない不磨の大典であるところ、それは、どちらの憲法も規範性がないという意識的無意識的なコンセンサスが明治の日本や戦後の日本に存在する結果でしたよね。(コラム#省略)
 日本の律令群についても同じようなことだったとしても誰も驚かないでしょう。
 それに、律令群の方は、両憲法とは違って、制定についても実施についても、政府の最高権力者とその一部近親者達を除いて、政府そのものが消極的だったと私は見ているのでなおさらです。(太田)

(続く)