太田述正コラム#11548(2020.9.21)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その18)>(2020.12.14公開)

 「・・・<ところで、>田租は、地方の正倉に保管蓄積されるのが原則だが、中央に輸納される調がどのように使われるかを考えるとさらに興味深い。
 諸国は10月から12月にかけて大蔵省に調を納める・・・。・・・
 調は、民衆から郡司などの地方豪族によってまとめられて、おそらく国造以来の服属の証としてミツキとして奉られたが、その意味は神への捧げ物であった。
 それを集めた天皇・律令国家は、地方豪族に代わって、天皇の祖先や神々に奉納して、収穫に感謝し豊作を祈り、国家の安寧を祈ったのである。
 その残りが国家財政の収入として使われるという構造であった。
 古代国家の支配の基礎には、郡司に代表される地方豪族の民衆支配があり、天皇が民衆を支配する関係は二次的な関係であるというのが、石母田正氏が『日本の古代国家』において文化人類学の成果を学んで構築した「在地首長制論」<(注51)>である。

 (注51)「日本の・・・律令国家・・・は、律令法の母国<支那>と異なる氏族制的要素の大きい社会だった。
 律令体制下でも、天皇が個々の人民を直接支配する形をとりながら、実際には地方豪族–地方の有力首長達–の民衆支配に依存していた。
 このような構造は、地方制度として大和政権段階の国造制、孝徳期から大宝律令 大宝律令完成までの国評制、そして律令体制下の国郡制へと変化しつつも基本的には不変だった。・・・
 しかし、8世紀における擬任郡司や帯勲郡司<が>・・・終身官であるはず<なのに、>・・・10年未満という短期間で交替している・・・。
 その背景には、郡司候補者というべき在地の有力者が同一郡内に多数存在しており、実際に郡司職は彼らの間で持ち回り的に移動していた<と>考えられる。・・・
 <このことは、>郡<司>の地位がコホリ(評・郡)制以前の在地権力の再保証<と>は言い切れない側面があることを物語っているのである。」(須原祥二)
http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/data/h14data/117477/117477a.pdf
 須原祥二(1967年~)は、東大博士課程単位取得退学、天王寺国際仏教大学(現四天王寺大学)専任講師、助教授、准教授を経て 現在 四天王寺大学教授・博士(文学)。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a37799.html 
https://yumenavi.info/lecture_sp.aspx?GNKCD=g009788&OraSeq=56&ProId=WNA002&SerKbn=Z&SearchMod=2&Page=1&KeyWord=%E6%AD%B4%E5%8F%B2
 「首長制論(吉田晶・関和彦・大町健)・農業共同体論(小林昌二)・国家的奴隷制論(鬼頭清明)という 1970~80 年代に提起された諸理論は、下部構造=生産関係が土台となり階級関係と国家を規定するととらえる点で共通した特徴をもち、そこには社会構成体論という「戦後古代史学」を規定し続けた「知の枠組み」が貫徹している。その代表的理論である(在地・村落)首長制論は一次的生産関係を(在地・村落)首長―民(戸・家)というタテの支配―従属関係のなかに見いだす言説であったため、地域住民相互のヨコの集団結合はその日常的生活諸機能の存在が指摘(関和彦説)されることはあっても、自立性の乏しい首長制「内部」の問題としてネガティブに評価された。。実は、こうした地域社会住民相互のヨコの集団結合を評価し得ない論理構造は、「村」=「集落共同体」を首長制内部の問題として位置づける石母田・在地首長制論の中にすでに胚胎されており、その後の(在地・村落)首長制論者に継承された問題であった。」(田中禎昭)
file:///D:/Users/Nobumasa%20Ohta/Downloads/2014HR02summary.pdf
 田中禎昭(1962年~)は、立教大博士後期課程単位取得退学、同博士。すみだ郷土文化資料館専門員・専修大学非常勤講師・白梅学園大学非常勤講師等。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%A6%8E%E6%98%AD_000000000641034/biography/

 戸籍計帳の作成にしろ、徴税にしろ、在地での勧農・祭祀など、それを可能にしたのは地方豪族の共同体支配である。
 彼らを郡司として制度化して組み込んだことが律令国家の支配の基礎なのであり、大化改新で全国に評をたてたのである。
 さらにそうした地方豪族が天皇に服属し、ミツキを奉った、つまり天皇あるいは律令国家の支配を全国に及ぼすことを可能にした前提には、天皇の持つ宗教的な力、あるいは祭祀があったと考えるべきだろう。」(89~91)

⇒須原、田中両名によるものが石母田説への代表的な批判なのかどうかは詳らかではありませんが、これら諸批判も踏まえつつ、仮説の仮説にとどまるところの、私の見解をあえて述べることにしますが、弥生時代に、日本の、今日に至る、エージェンシー関係の重層構造的な政治経済体制の原型が形成されたのではないでしょうか。
 日本列島に渡来した弥生人は、稲作技術と父系制/階統制を持ち込み、母系制/平等制の縄文人に君臨したが、やがて双方が影響を及ぼし合い、階統制は柔らかい階統制であるところのエージェンシー関係へと変容して縄文人もその中に組み込まれ、その一方で、弥生人も母系制を採用した、と。
 で、この政治経済体制において、頂点は特定氏族の終身制、支配層の諸特定ポストは対応する諸特定氏族の終身制(注52)、被支配層の要職は持ち回り当番制、になった、と。

 (注52)「大和政権の段階から天皇に仕えるすべての人々は、「仕奉」と呼ぶべき先祖から受け継いだ功績やそれによる職掌に基づいて、王権への奉仕を果たしていた。一方、庚午年籍の作成にともなう定姓作業によって、<支那>の姓制度を模倣しつつ、称号や私的呼称から「姓」が制度化された。新しい制度である「姓」は父系血縁集団の名称としてよりは、仕奉の依代として受け入れられ、孝徳天期以降のめまぐるしい諸制度の変遷の中で、諸豪族は自らが持っているさまざまな仕奉の中から、現時点で最も政治的訴求力があると判断した仕奉にもとづいて「姓」を選択し、戸籍への登録を図ったのである。」(須原祥二)
http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/data/h14data/117477/117477a.pdf 前掲
 
 以上のような体制が、拡大弥生時代・・含む、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代・・を通じて維持された、とも。
 (なお、私が抱いて来たところの「姓」を共有する氏族群からなる氏族制のイメージは、「注52」において須原の描くものと概ね同じです。)

(続く)