太田述正コラム#11550(2020.9.22)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その19)>(2020.12.15公開)
更に付け加えれば、弥生時代には「税」はなく、「ミツキ」も「仕奉」も、日本列島原住民の縄文人が稲作技術を教えてくれた弥生人に対する感謝の気持ちを込めて自発的に上納されたライセンスフィーのようなものであったのではないか、というイメージも抱いています。
現代日本人が縄文人から受け継いだ遺伝子は弥生人のそれに比して極めて少ないようです(コラム#省略)が、地理的意味での欧州人が中南米大陸に渡来した時と同様、ユーラーシア・アフリカ大陸に較べればはるかに小さいアメリカ大陸じゃあ、感染症の種類が圧倒的に少なく、ということは、原住民が耐性を持っている感染症の数が圧倒的に少なかった原住民がバタバタ死んで、欧州人と欧州人が拉致してきたアフリカの黒人達が人口の大部分を占めるに至ってしまったのと同様のことが日本列島でも、弥生人と縄文人との間で生じた、と私は想像しており、日本列島の住民は弥生人がその大部分を占めることになったけれど、縄文人の文化、及び、弥生人と縄文人が共生するようになった時点での両者の関係、が、弥生人内の統治者と被治者との関係にも反映され引き継がれたのではないでしょうか。
つまり、「税」ならぬ、「ミツキ」や「仕奉」的なものが、その後も日本列島において、長く残ることになったのではないか、と、私は見るに至っているのです。(太田)
「・・・位階制<については、>・・・一見すると唐令と同じなのだが、意味は大きく違うことを宮崎市定<(注53)(コラム#2586、10984)>氏が指摘している。
(注53)1901~95年。京大文(史学)卒、1932年(昭和7年)、第一次上海事変により応召、仏留、京大教授、同大博士(文学)、パリ大、ハーヴァード大客員教授、京大名誉教授。東洋史学者。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%B8%82%E5%AE%9A
唐の官品令は「官の品」つまり官職の等級を示す。
中国では官職が位(品)をもっていて、官職に就くことによりその位がついてくるのである。
ところが日本では人に位がつき、身分を示すのは官ではなく位階である。
⇒私見では軍事階級であった冠位制を、日本の官位制は引きずっていた、ということではないでしょうか。
一般将校/下士官等であれば、特定の「官職」に、有事、戦傷や戦病による死傷で欠員が生じたら、同等階級者(多数おればその最先任者)がその「官職」に自動的に就任することことになるよう、冠位制は創設されたのだ、と。(太田)
位階の秩序が天皇からの距離として優先するのが特色である。
位階制のなかで、五位に大きな意味がある。
五位以上は貴族とされ・・・位禄(いろく)(封土の代わり)が支給されるが、六位以下は年2回の季禄(きろく)のみであ<るし、>・・・五位以上<は>・・・いわゆる蔭位(おんい)の制<があ>る。・・・
<すなわち、>五位以上官人の子孫は、21歳になると自動的に叙位され・・・、内舎人(うどねり)、大舎人(おおとねり)などとして出身する・・・。
これは唐の資蔭(しいん)の制をモデルに作られたものだが、日本の蔭位の初叙の位階はきわめて高く設定されている。
⇒蔭位が「701年(大宝1)の大宝律令(たいほうりつりょう)で創設され、同年から適用された」
https://kotobank.jp/word/%E8%94%AD%E4%BD%8D-41820
のは事実であって、大宝律令に盛り込まれた諸規定中、例外的に実施されたもののうちの一つだと私は見ていますが、それは、大宝律令の編纂者の一人であった藤原不比等
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%BE%8B%E4%BB%A4
が、将来、聖徳太子コンセンサスが実行される場合に、それを、藤原氏の本家筋が代々家業として支える体制をあらかじめ構築しておく狙いで、蔭位規定を盛り込み、かつ、直ちに実施に移させた、と、私は見るに至っています。(太田)
五品以上を貴族(通貴(つうき))とする唐制を継受したものだが、日本ではこの規定により五位以上の氏の子孫は、ほぼ自動的に五位にまで昇ることができ、特権が守られて、貴族が再生産される仕組みになっているといえる。
関晃<(注54)>氏が指摘するように、日本では貴族政的要素が強く、五位以上はヤマト政権を構成していた畿内出身の「氏」、伝統的な有力氏族(「臣(おみ)・連(むらじ)」と称される)が独占していて、五位は伝統的な身分としての性格をもっていたのである。
(注54)1919~96年。東大文(国史)卒、陸軍入隊、東大院特別研究生終了、山梨大、東北大、フェリス女学院で教鞭を執る。東北大名誉教授。「「大和政権とは畿内の豪族による連合政権であり、それが他の地域を凌駕し、日本列島各地、更に朝鮮半島南部の勢力を服属させることによって国家が形成されていった」「首長としての天皇の権力は相対的に弱いものであった」と考える「畿内王権論」を初めて主唱した学者として著名。石母田正に代表される唯物史観に基づく「在地首長制論」が隆盛する歴史学界の中では当初少数派であった。その後「畿内王権論」は吉田孝や早川庄八による律令制研究によって確立。吉田は関の学説を積極的に継承・発展させた。早川は石母田らの学説も取り入れていたが、事実上関の示した枠組みに基づいた研究を行った。関・吉田・早川らの学説は笹山晴生・平野邦雄らの賛同を得て、通説化した。・・・石母田正の主著の一つ『日本の古代国家』についても強く批判している。学界におけるマルクス主義の衰退後は「畿内王権論」の祖形を作った学者として、学史に重要な地位を占めることになった。帰化人の研究者としても知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%99%83
五位以上の官人は、天皇に近侍するマヘツキミ(大夫)<(注55)>としての一体感をもっていたことが指摘される。
(注55)「天皇の御前に侍し,奏宣にあずかるものを言い,後の太政官を構成した議政官にあたる。・・・孝徳(36)が難波,天智(38)が近江に宮居をかまえたのは特例で,この間を飛鳥朝廷と称する<が、>・・・この飛鳥朝廷において,大臣のもとにマヘツキミ(大夫)という一群の官人層が形成され,また大夫層からクニノミコトモチ(国司)が任命された」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%98%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%9F-1420408
彼らは天皇と人格的なつながりをもっていたと考えられ、それによって実際には官僚制が機能していたようである。」(95~98)
(続く)