太田述正コラム#11552(2020.9.23)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その20)>(2020.12.16公開)
「二官八省<(注56)>制は、唐の尚書省の下に吏部・戸部などの六部がおかれる機構を模倣している。
(注56)「日本古代の律令制の官庁組織をいう語。狭義には太政官,神祇官の二官と中務(なかつかさ)省,式部省,治部(じぶ)省,民部省,兵部省,刑部省,大蔵省,宮内省の八省を指すが,広義には,この二官・八省に統轄される八省被管の職・寮・司や弾正台,衛府(えふ)などの中央官庁および大宰府や諸国などの地方官庁を含む律令制の全官庁組織の総体をいい,ふつうは後者の意味で用いる。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E5%AE%98%E5%85%AB%E7%9C%81-1192411
しかしながら唐は三省六部であって、中書・門下・尚書からなる三省制<(注57)>を、太政官一つにして継受し、別に神祇官を設けたことに特色がある。
(注57)「中書省 – 皇帝と相談して下からの上書を吟味してそれを元に、あるいは皇帝の独自の意思を元に、法案の文章を作る。
門下省 – 法案を審査し、内容によっては中書省へ差し戻す。中書・門下が立法機関である。
尚書省 – 門下省の審査を通った法案を行政化する。
それぞれの長官名は次の通り。
中書省の長官は、隋では内史令と呼ばれ、唐では中書令と呼ばれた。定員は二名。
門下省の長官は、隋では納言と呼ばれ、唐では侍中と呼ばれた。定員は二名。
尚書省の長官は、尚書令と呼ばれる。ただし唐では、唐の太宗が皇帝位に着く前にこの地位にいたため、この地位は空白となっていた。次官は二名で、それぞれ左僕射・右僕射と呼ばれていた。ゆえに唐ではこの次官が実質的長官となった。
古代からの三公や三師といった宰相職も存在したが常設はされず、実務も定められていなかった。これに代わり一般には中書令や門下侍中、時には左僕射・右僕射が宰相とされた。その職務としては、日常の行政と別に政策決定を行う政事堂という機関があった。構成員は中書令、門下侍中、左僕射・右僕射からなり、場合によっては宰相待遇のその他の官僚も参加した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9C%81%E5%85%AD%E9%83%A8
すなわち、唐では中書省が詔勅の起草にあたり、門下省がそれをチェックし、尚書省が六部二十四曹を率いてそれを実施するという構造だったが、太政官は三省の役割を一つにまとめたのである。
したがって門下省のチェック機能、皇帝の専権を掣肘できる機能も取り込んでいる。
公式令には、太政官議政官が合議して上奏する「論奏<(注58)>」という書式がある(・・・先の長屋王等の上奏もこれだろう)。
(注58)「『養老律令』公式令によれば、・・・律令制において太政官から天皇に奏上を行うこと、あるいはその文書を指す・・・太政官奏<には、>・・・論奏・奏事・便奏の3種類が存在した。論奏(ろんそう)とは、国家祭祀、国郡や官司の設置・廃止、流罪や除名以上の処分の執行、兵馬100疋以上の差発など、太政官において大臣以下によって発議あるいは審議される重要事項に関する奏上(ただし、太政官自身の機構そのものに関する奏上は出来ないとされる)で、書式上においては、「太政官謹奏(かしこもうす) 其事」と書き出し、続いて太政大臣以下の各大臣・大納言ら各議政官が連署してその次に奏文を書くという太政官議政官の総意による奏上の形式を採り、裁可された場合には、年月日の次に「聞」あるいは「可」という御画を加えた(簡略化されて単に勅答をもって裁可とする例もある)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%AE%98%E5%A5%8F
それで奏上すると規定されている項目は、唐令では「奏抄<(注59)>」を用いるものと「発日勅<(注60)>」を用いるものの両者にわたっている。
(注59)「代表的な下通上文書であり、予め担当する官司が定められており、その官司の職務権限に基づき立案されたものが年中行事的に奏上され、皇帝の了解を得るものである。」
file:///D:/Users/Nobumasa%20Ohta/Downloads/04_kojima_20180310.pdf
(注60)「王言の一種であ<って、>・・・皇帝<の>命令<である>」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239572/1/shirin_083_1_140.pdf
唐では皇帝の発意(勅)により命ぜられるべきものが、太政官の発議すべきものになっていることから、太政官の権限の大きさがうかがえる。
⇒つまり、天皇は、支那の皇帝のような独裁者とは違って、直属の部下集団たる太政官、と、権力を分有していたわけです。
この点を含め、日本の律令は唐の官制を大幅に換骨奪胎した官制規定を設けたのであり、そのこと自体が、この部分についても、本当に実施することが制定時に企図されていた、ということが分かるのであって、だからこそ、官制については現実に実施された、ということです。(太田)
藤原宮子の称号事件にみられたように、太政官は天皇権力を制約できる力を伝統的にもっていたのである。
太政官の議政官(大臣・大納言に格制<(注61)>の中納言・参議が加わる、平安時代には公卿と呼ばれる)は、その前身に、大臣・大連のもとに各氏族の代表の大夫があつまる、マヘツキミの会議があった。
(注61)意味を解明できなかった。
したがって畿内有力豪族の代表者会議という性格を継承していて、奈良時代初めまでは各氏族から一人ずつ出る慣行があった。
律令国家は、伝統的な畿内豪族層が五位以上の官人となり、天皇のもとに太政官を中心に結集して、地方の畿外豪族を支配しているのが本質であり、ヤマト政権のあり方を継承していると考えられる。
こうした考え方を畿内政権論といい、関晃氏が提唱し、早川庄八<(注62)>氏がより議論を深め、筆者もその驥尾に付して論じたことがある。
(注62)1935~98年。東大卒、同大院で学び、宮内庁、東大を経て、名大講師、助教授、教授、東大博士(文学)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E5%BA%84%E5%85%AB
律令国家は天皇を中心とする専制国家だとして反対する説もあり、奈良時代の天皇がそうした専制君主化をめざしたことも事実だが、律令法が構造としてヤマト政権のあり方を継承していることは、否定できないだろう。」(98~100)
(続く)