太田述正コラム#1220(2006.5.7)
<米経済学論について>
1 始めに
まだ完結していない「ガルブレイスの死」シリーズ(コラム#1211、1212)で、米経済学の裸の個人主義的偏向ないし数理的方法論偏重、総じて言えば空理空論性を指摘したところですが、5月22日に出版されるウォーシュ(David Warsh)著の Knowledge and the Wealth of Nations, nORTON という本に関する、著者自身及び経済学者兼NYタイムスコラムニストのクルーグマン(pAUL cRUGMAN)による書評(http://www.kwonbook.com/、及びhttp://www.nytimes.com/2006/05/07/books/review/07krugman.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print(どちらも5月7日アクセス)が、この問題について、更に考える手がかりを提供しているので、ご紹介することにしました。
2 ウォーシュの指摘
ウォーシュがこの本を書くのには10年以上かかった。
1994年にウォーシュは、この本と同じテーマでの、まだ余りできが良くなかった雑誌連載の第一回目に次のように書いた。
「一般の人々の間で経済学は現実の世界を説明できていないという観念が蔓延している。社会的システムとしての市場はこの数年あらゆる場所で勝利を収めた。しかし、ちょっと訳知りの人々は、現代の大学を中心とした経済学について、これをコケにし、これに関連してアダムスミスをこきおろし、忘れ去られてしまった預言者みたいだと称し、その数理的方法論をあざ笑っている。経済学の著名な擁護者達の多くまで、経済学がより説得力を得るためには、それがより実際的・経験的・政策志向にならなければならないと指摘している。・・しかし、過去10年来、変化が起こりつつある」と。
では、一体1970代の終わり頃から、米経済学にいかなる変化が起こったのか。
これを説明するためには、1776年に英国(正確にはスコットランド)の経済学者のアダム・スミスが書いた国富論まで遡らなくてはならない。
誰でも、国富論の中でピン工場の話と見えざる手の寓話が出てくることは知っているだろう。
スミスはこの二つの寓話で、それぞれ、「大企業における分業による大量生産の効率性」と「個人のエゴが公共の善をもたらすところの市場の効率性」を言わんとしたわけだ。
しかし、良く考えてみると、この二つの寓話は互いに矛盾している。
矛盾を解決するためには、前者は収穫逓増の世界の話、後者は収穫逓減の世界の話、と考えるしかない。
収穫逓増(increasing returns to scale)・・沢山作れば作るほど製品一個あたりの製造コストは低下する・・であれば、製造企業はどんどん大きくなって、小製造企業は市場から駆逐され、やがて寡占から独占状態に到達して、(社会全体としてはともかく、当該独占企業の立場からすれば)最高度の効率性が達成されることになるし、収穫逓減(diminishing returns to scale)・・一定の製品個数より沢山製造しようとすると、製品一個当たりの製造コストが増加し始める・・であれば、無数の個人(小製造企業)が残って、競争し合い(社会全体として)最高度の効率性が達成される、ということだ。
しかし、約200年間にわたって、収穫逓増の経済学は顧みられず、収穫逓減の経済学ばかりが発展した。
その理由は、イデオロギーによるものではなく、単に後者の方が数理的方法論になじんだからに他ならない。経済学者は厳密な方法論が適用できる世界を好んだということだ。
しかし、現実の経済では、むしろ鉄道の敷設等、収穫逓増の世界の比重が次第に増していった。
そこでオーストリアの経済学者のシュンペーター(Joseph Schumpeter)のように、数理的方法論に全くよらずして収穫逓増の経済学を組み立てようとした経済学者も現れた。しかし、この類の学者は、すぐさま忘れ去られるのがオチだった。
そして、第二次世界大戦後の米国で、収穫逓減の経済学は全盛期を迎え、ノーベル経済学賞が米国から輩出した。
しかし、1970年代終わりから、ようやく米国で数理的手法を用いた収穫逓増の経済学が現れ始めた。シカゴ大学のルーカス(Robert Lucas) 、スタンフォード大学のローマー(Paul Romer)、プリンストン大学のクルーグマン、カリフォルニア工科大学のバロ(Robert Barro)、ハーバード大学のサマーズ(Lawrence Summers)(コラム#600、638、639)らがその第一世代の担い手だ。その結果、産業組織論・国際経済論・経済発展論・都市経済論等の経済学の分野は大きく変貌した。一種の経済学上の革命が進行中であると言っても良い。
今までのところ、まだまだ収穫逓増の経済学の成果は大きくないが、今後が期待される。
3 感想
ウォーシュとクルーグマンが口裏を合わせたように、つい最近まで収穫逓減の経済学だけが栄えてきたことはイデオロギー上の理由によるものではない、としているところが、私には二人のやましさの現れだと思えてなりません。
また、晩年は米国で送ったとはいえ、外国人のシュンペーターは持ち出しても、20歳台から米国人となったガルブレイスに全く言及しないことも、二人が逃げ回っているとしか私には思えません。
天国に旅立ったガルブレイスが苦笑いをしている姿が目に見えるようです。