太田述正コラム#11568(2020.10.1)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その25)>(2020.12.24公開)
「・・・735<年>3月に、天平の遣唐使(<733>年出発)の大使多治比広成(たじひのひろなり)が帰還して拝朝した。
その一ヵ月後の・・・4月・・・に帰国した「入唐留学生従八位下下道朝臣真備」がさまざまな文物を朝廷に献上した・・・。
その内容をあげよう。
一、〔礼典〕一百卅巻
二、〔暦〕『太衍暦経(たいえんれきけい)』一巻、『太衍暦立成(りゅうせい)』十二巻、測影鉄尺一枚(日影測定用の尺)
三、〔音楽〕銅律管一部(音階調律用の管、一オクターブ12音のセット)、鉄加方響写律管声十二条(方響のような形の音階調律器)、『楽書要録(がくしょうようろく)』十巻
四、〔武器類〕絃纏漆角弓一張(弦を巻いて漆を塗った角弓)、馬上飲水漆角弓一張(馬上飲水は図柄か)、露面漆四節角弓一張、射甲箭(よろいをいるや)甘隻(甲を射貫く矢)、平射箭(ひらいのや)十隻(儀式用か)
なお『扶桑略記』には、これ以外に「種々の書跡・要物など、具(つぶさ)に載せる能(あた)はず」と記し、・・・持ち帰った書籍はこれにとどまらない。
このように書籍などの伝来を記すのは『続日本紀』<(注74)>のなかではきわめて異例であり、その重要性を示している。
(注74)しょくにほんぎ。「編纂は、前半部と後半部で異なる事情を持つ。
前半ははじめ、文武天皇元年(697年)から・・・757年・・・、孝謙天皇の治世までを扱う30巻の構想として作られた。笹山晴生は淳仁天皇の時代の藤原仲麻呂(恵美押勝)政権下で編纂され、恵美押勝の乱の影響で不十分な草案に終わったと推定している。光仁天皇が、この草案の修正を石川名足、淡海三船、当麻永嗣に命じたが、彼らは天平宝字元年紀を紛失した上、未完成に終わった(この年の前後には政争絡みの事件も多かったため、執筆者間で意見をまとめることが出来ずに紛失ということにしたとする説もある)。桓武天皇の命により編纂を菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄が引き継ぎ、全20巻とした。
後半は当初、・・・758年・・・からおそらく・・・777年・・・、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂された。石川名足、上毛野大川が詔によって編集した20巻を、藤原継縄、菅野真道、秋篠安人が14巻に縮め、・・・794年・・・にいったん完成した。菅野真道、秋篠安人、中科巨都雄は、さらに6巻、すなわち桓武天皇の治世のうち・・・791年・・・までを加え、全20巻とした。
以上あわせて40巻の編纂が成ったのは、・・・797年・・・であった。・・・
全般に記述が簡潔で、事件の要点のみを記して詳細に及ばない。簡潔過ぎて<757年に施行された>養老律令のような重要事件が脱落した例が見られる。一部の人物の死亡記事に簡単な略伝(薨伝(こうでん))を付し、これは後続の史書に踏襲された。・・・
また、藤原広嗣の乱における謀反人・藤原広嗣に対する好意的な記事や宇佐八幡宮神託事件及び道鏡に関する記述に政治的意図が含まれているという説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80
「『日本書紀』と違い<支那>に国威を誇示しようとする意図がないため,詔勅などを正規の漢文に直さず宣命体 (せんみょうたい) のまま載せるなど,文飾や誇張記事が少い。」
https://kotobank.jp/word/%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80-80186
藤原継縄(つぐただ。727~796年)、「藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の孫。右大臣・藤原豊成の次男。・・・789年・・・太政官の筆頭の地位に就き、・・・790年・・・右大臣に至った。
継縄が太政官筆頭の時期の重要事項として、・・・792年・・・全国の兵士を廃止して健児を置いたことがあげられる。・・・794年・・・の平安京遷都に深く関わったとする説もある。『続日本紀』の編纂者としても名が挙げられているが、生前には一部分しか完成しておらず、実際に関与した部分は少なかったと見られている。・・・
夫人が百済系渡来氏族出身(百済王氏)であったためか、同じく百済系渡来氏族出身とされる高野新笠を母に持つ、桓武天皇からの個人的信頼が厚かった政治家の一人であり、天皇が継縄の邸に訪れることもしばしばであった。その際に百済王氏一族を率いて百済楽を演奏させたことがある。『日本後紀』の薨伝によれば凡庸な人物であるものの人柄はよかったというが、その点も桓武の信任を得た理由だという説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B6%99%E7%B8%84
⇒遣隋使や広義の天智朝の際の遣隋使と遣唐使が持ち帰った文物の目録が(想像するに)秘匿されてきたところ、一度くらいは開示しておいた方が、後世、いらざる嫌疑を支那等から生まないだろう、との判断の下、天武朝下で「疑惑を生みにくい」文物を持ち帰った特定の遣唐使の文物中の「最も疑惑を生まないであろう」文物の目録を『続日本紀』の中で桓武天皇があえて開示させた、と、私は見ています。
また、「注74」の中で養老律令の施行の記述の脱落が指摘されていますが、(大宝律令施行についての記述の有無等がどうなっていたのか、までは調べませんでしたが、)完成された日本の律令としては養老律令しか存在しない(コラム#省略)というのに、あえて、それに係る記述を、桓武天皇が、今度は特に命じて落とさせた、と受け止めるべきでしょう。
これは、天武朝が制定・施行した律令など、意義を全く認めない、との、復活天智朝の強い意思表示である、と、私は解している次第です。
このあたりのことは、(「注74」の中の記述にもかかわらず、私は、続日本紀の重要な部分に深く関与したと見ているところの、)藤原継縄が、家族同様の桓武天皇の意を受けて、そう図らったに違いない、とも。(太田)
中心は一の礼典であるが、君子のたしなみの六藝(礼・楽・射・御・書・数)に対応し、四の武器類は騎馬(御)用のものであり、礼のなかには軍礼も含まれる。」(152~153)
(続く)